まず初めに、ちょっとおさらいをしておきます。

前々回の「村上春樹をめぐるマイクロとマクロ」で、こういう話を述べました。

 

そしてさらには、その両親の命にかかわる私と同様な課程、そしてそのまた両親の命のそれといった具合に過去へとさかのぼってゆけば、一瞬たりとて途切れることのなかった、命の連鎖の途方もない長さの世界へとつながってゆくはずです。/そうであるなら、仏教の輪廻思想のように、前世において、私の命が他の何かの命であったとの発想や、さらには、星や宇宙の誕生ともつらなっているとの考えも、さほど突飛なものではなさそうです。/ただ、今回のこの議論では、そこまでの発展には触れません。ここでは話を、もっと限定した範囲にとどめます。

 

また、前回の「東と西という座標軸」では、「自然との結びつき度」を縦軸に、「地理的移動度」を横軸にした座標で、その第二象限が「東洋世界」、第四象限が「西洋世界」とみなせることを指摘しました。そして、「A」とマークしたその第一象限は、東洋でも西洋でもある両義的世界で、さらにその上に立体的に、「“神”的奥行き」の軸を立ててみると、その世界は、今度は、キリスト教的絶対世界観と仏教的輪廻世界観を融合した、さらなる両義的世界が想像されると述べました。

そしてその世界を前回、《未知多次元世界》と名付け、その詳しい議論を今回へとあずけたわけでした。

さて、こうしたおさらいをした上で、さて、いよいよ今回では、前々回でのそうした限定を取り払い、「移動」や「抽象」を際限なく駆使して、この《未知多次元世界》を存分に想像してみようというものです。

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