いまやここオーストラリアでは、ブーマー(団塊)世代が大挙してリタイア生活に入り、行楽地はもちろん、盛り場に行っても、くつろいだスタイルの「二周目」ライフの享受者を多々見かけます。またテレビでも、そうしたご夫妻らをターゲットにした、海外旅行の宣伝がうるさいほどです。

私は、そうした現況に同席するブーマーの同類ながら、オージー特有の開けっ広げでケンコー過ぎる物質主義に、むろんお付き合いできる蓄財もなく、自然な分岐が始っています。

ただこの分岐は、非物質的には、これまでたどってきた「両生学」街道を延長する、私なりに蓄積されたものと思っています。加えて、昨年の《ガンとの遭遇》を境に、それは地図のない未踏領域へと入ってきており、ともあれそれを「越界」と名付けています。

そこで手掛け始めているのがこの「越界-両生学」で、これまで7回にわたる「あらまし編」でその導入を述べてきました。そしてそれに続いて、今回より、その本編に入ってゆきます。

そこでその本編ですが、過去の「両生学講座」のもくじのように、そのカバー範囲は広域におよぶはずです。したがって、この「越界-両生学」も、その登山道は結局、多くを数えることになると予想されます。そういう次第で、今回より始まる本編も、番号式でやや味を欠きますが、まずは「第一本編」と名付けました。 詳細記事

おそらく誰もがそうではないかと思うのですが、私には、「新しいもの崇拝症」といったようなところがあります。たとえば、薬屋で売っている薬品のほうが、野原でとってくる薬草を使うより、正しくかつ進んだことだという暗黙の信念があります。いや、正確には、ありました。そういう、いわば「近代的なもの」への信頼が、ここのところ日増しに揺らいできています。

年寄りの復古主義と言われかねない傾向で、その一例かも知れませんが、他方、「年の功」という言葉もあります。

ともあれ、今の自分が過去の経験の上に達した、一連の「知恵」とよんでいいようなものがあります。今回の訳読は、そうした私の傾向を、きわめて力強く後押ししてくれるものです。

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「私の宗教は単純です。寺院を必要とはしませんし、難しい哲学もいりません。ただ、私たち自身の頭脳と心臓が寺院で、親切心が哲学です。」

ダライ・ラマ

 

生涯のいずれの時でも、人は、命を得ているか失っているか、そのいずれかである。命を失っている時とは、病気とか死とかが、その人の長生きの可能性をむしばんでいることを意味する。私たちの身体をはじめ、命に関するすべては、つねに変化している。そのいずれもの瞬間において、人は強くなっているか、あるいは、弱くなっていると感じる。もし、命を失いつつあるのなら、死に向かっていることだ。そしてもちろん、私たちは自分を消費して生きている。私たちの皮膚は、平均35日ごとに入れ替わっており、肝臓はほぼ一ヵ月ごとに再生されている。そうした身体は、私たちたちが摂取した食物や飲み物からつくられている。文字通り、私たちが何を口にしたかが、私たちが何であるかを物語っているのである。 詳細記事