ニュージーランド・トレッキング報告を見たよ、MATSU。健康上の懸念はもうほぼ解消したみたいだな。おめでとう。俺もうれしいよ、俺の仕掛けたドラマが成功裏に終わってね。

そこでなんだが、こうして達しえた新たな高みを足掛かりに、それだからこそでき、また、それだからこそしなくてはならない、新たなプロジェクトを提案したいんだ。言ってみれば、幸いに目下、命取りの病気の脅威のない人向けに、その「後期高齢」人生を、いかに自由かつ果断に全うしようとするのか、といった計画だ。むろんそのポイントは、繰り返して言ってきている、「連続する旅路」のその《通過点》の意欲的越え方、といったところだ。 詳細記事

日本人を、宗教心にあつい人々で無神論者などほとんどいないと言えば、誰もがそれはむしろ逆だと言うに違いありません。ところが、世界中で日本人ほど社会集団への帰属意識の強い人たちはそうはいないと言えば、誰もが賛成するでしょう。しかし、ここでいう「宗教心」と「帰属意識」を同じものだとすれば、上記の表現は意味を持ち始めます。つまり、「宗教」とか「無神論」といった言葉を、少なくとも日本人に関して当てはめれば、それらはどこか違った意味で使われている言葉だと気付かざるをえません。 詳細記事

 

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喪失する我が宗教心(その1)

「あなたが自分を、インド人、イスラム教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人、あるいはその他の誰かと呼ぶ時、あなたは暴力ををふるっている。あなたはそれがなぜ暴力なのかが解りますか。あなたが自分を、信条か、国籍か、伝統かで他者と区別する時、それは暴力を生んでいる。したがって、暴力が何かを理解しようとしている人は、いかなる国、いかなる宗教、いかなる政党または個別的制度にも属さず、彼は人類全体の理解に関心を持つ。」――ジッドゥ・クリシュナムルティ〔インド生まれの宗教哲学者、神秘家 1895-1986〕

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