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両生学講座 第一回

       
学問としての「両生」


 「このウソほんと」 : 学問的関係枠 (Frame of reference)
 子供の頃、こんな遊びがあったような気がしています。ただ、それに名前まであったかどう、かさだかではありませんので、ここでは、「このウソほんと」遊び、と呼ばせてもらいます。
 おぼろげな記憶によると、それはこんな遊びです。
 子供たちいく人かが申し合わせて、誰かをかつごうとたくらみます。そして、ねらったある子に、たとえば、「今日の最後の授業は先生が急病でお休みだって」とかと言い寄り、「だから早く帰えろ」と、みんなで下校するようさそいます。そして、校門を出たところあたりで、「このウソほんと」と声を合わせて叫んで、いっせいに校内に逃げ去ります。その子は置き去りにされ、ぽかんとあっ気にとらされて、自分がだまされていたことに気付きます。あわてて教室にもどっても、皆はすでに席についていて、遅れて入ってきたその子をけげんにみつめます。“首謀者”たちは、それを見てクスクス笑っています。
 場合によっては、なんともきわどい遊びですが、そんな悪知恵を働かせたり、されたりしながら、子供同士たがいに切磋琢磨しあい、成長してきたのでしょう。
 それを、国民への「教育的配慮」と、まさか公言はしまいと信じたいですが、私には、私たちが教えられてきた歴史には、基本的な「ウソ」がまじっているのではないかといぶかる疑問があると、先の増刊号の「『郵政解散』総選挙の両生風視野」で述べました。それは、日本史に限らず、あらゆる歴史においてもそのようです。
 また、一連の歴史は、その果てに現代に至るわけですが、もし、そうした疑問が当を得ているとするなら、今日通用している知識体系にも、そうした欠陥の上に立つ、相当な「イカサマ」が混じりこんでいる、そうとも考えざるをえないわけです。
 ひとつ、例をあげますと、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文芸春秋社、1994年)という本があります。若泉敬という外交政策学者(1996年死去)が、72年の沖縄返還にまつわる日米極秘交渉に立ち会う運命となり、そこで目撃した、ニクソン、佐藤栄作、キッシンジャー、そして彼の四人しか知らない事実を公表した書物です。その冒頭には、「何事も隠さず 付け加えず 偽りを述べない」と自ら宣誓し、署名、捺印までしてある、他に類いを見ない本です。
 そこで述べられていることは、手短に言うと、沖縄返還に当たり、日米両政府が、交渉の結果いたった結論は、核兵器を持ち込まないということにしておこうという申し合わせで(本書にはその合意文書の写しが掲載されている)、非核三原則を譲れぬとする日本と、核兵器の配備は不可侵の軍事的必要とする米国との、核兵器をめぐる決定的ギャップをそう誤魔化した事実です。そして、日本国民には、周知のように、「核なし返還」と公言されています。むろん、両政府は、いまだにそうした事実を認めないばかりか、上記文書の存在すらも否定しています。
 これは一例にすぎませんが、一国の首相たるや、墓場まで腹蔵せねばならない秘計が、ひとつやふたつでは済まないだろうことは、さして説明を要する事柄ではないと思います。
 問題は、時代の必要によるやむなき選択、それは歴史を作る側の論理ではありますが、ならば、それによって作られた歴史を生かされる、こちら側の論理もあるということです。
 すなわち、両生学の使命は、「そのウソほんと」と、後に告げられることもなく、つんぼ桟敷のまま放置された人たちが、権力も持たぬ徒手空拳のなかから、再度、その自分の足跡を検証してゆこう、あるいは、選ばれなかった選択を、あらためて考察、できれば、選択し直してゆこうとする、そうした試みの手助けとなるような、知識や知恵の体系化です。
 ましてや、今号の「我『団塊』でなし」でも触れているように、極めて巧妙に「乗せられて」しまいがちな現代社会にあって、その圧倒的物量の諸手口を、私たちはどうかいくぐり、かわしてゆけるのか。その方法の考察は、私たちの日々の営為にとっての、さらなる必須栄養源でありましょう。


 両生学とは
 「両生」ということばを、このサイトのような意味として用いているのは、知りうる限りでは当所のみで、その意味では、「元祖」と名乗ってよいかと思っています。また、それを学問としてとらえようとする考え方も、このサイト独自のはずです。
 私は、過去ほぼ20年を日豪間で、広い意味では私の生涯にわたって、この「両生」的生活を続けてきました。そして、それがもたらすものは、私たちの知的資源として有望な鉱脈をもち、「両生学」と名を付けて研究するに足る価値をもつ分野ではないかと考えるようになりました。
 この「両生」というメタファーは、生物学でいう「両生」あるいは「両棲」の概念をヒントに(クラブの趣旨参照)、「水陸両世界に棲息する」という意味から、《移動》(越境といっても、ノマド化といってもよい)によって自らを複数の違った環境に置くという、《自分の存在の複数性(あるいは多義性)》との語義を導き出したものです。
 「自分の存在の複数性/多義性」などと云うと、二重人格などもそれに含むかのように聞こえます。たしかに、実際に「両生」を実践すると、複数の環境にさらされてあぶり出される、一種の自己の二重性に気付くという体験も生じてきます。これを、《両眼視野》(両眼があって立体視が可能)と呼ぶことにします。
 実は、上記の、「そのウソほんと」か否かの探求も、こうした《自分の存在の複数性/多義性》がもたらす「両眼視野」がその方法となりうる、との経験に立っています。言い換えれば、《移動》にともなう存在の複数性/多義性の認識、それが探求方法として決定的に有効との仮定に立っています。
 そうした観点で、「両生学」とは、まず、《移動》に関する人間学と定義したいと思います。ただ、ここでいう人間学とは、狭義の anthoropology(人類学) というより、より広い意味での、人間に関する諸学問すべて、すなわち、学際的・応用的学問分野と定義したいと思います。
 つまり、「両生学」とは、《移動》に関する学際的・応用的人間学、と定義できるかと考えます。
 医学が、さまざまな生物学諸分野を中心に他の多くの科学分野をも駆使する学際的、応用生物学体系であるように、「両生学」は、広義の人間学の諸成果を学際的に応用し、個的あるいは集団的人間の生き方を探求する分野において、その“健康”の回復に貢献できるものと展望するものです。

 《移動》とは
 こうした定義にもとづく「両生学」のうちの《移動》についてですが、私はそれを、人間の成長に不可欠な、他人との関わりを引きおこす、基本的活動と位置付けます。当サイトのイントロでも述べたように、人は自然に、乳離れし、親離れし、そして故郷を後にし、人生の旅へと旅立ちます。その物理空間的広がりの程度は人により様々でしょうが、《移動》がもたらす越境、あるいは、そうした結果のノマドな精神などなどは、人の生にとって不可欠な条件です。
 私は、この《移動》がもたらす効果について、そこに「他人との関係」が、それぞれのステージで、それぞれに異なったレベルで展開されていることに注目します。
 この《他者関係》は、移動がもたらす顔に感じる「風の感覚」のように、ある時には、ここちよい爽やかさとして、ある時には、重い風圧として、それぞれの場面を彩ります。
 いってみれば、人生の旅とは、《移動》がえがく、地理的なそれを越えた、こうした《他者関係》によって彩られた地図作りともたとえられるでしょう。
 私にとって、そのようにして描かれてきたマップこそ、ここにいう、「両生学」の学科構成図であり、カリキュラム構成です。

 リタイアメント生活と両生学
 両生学の今日的意義という点では、いよいよ、「団塊世代」とよばれる一群の人々がリタイアメントの時期を迎える社会的な変わり目の時にあって、ただ「乗せられて」ゆくのではない、こちら側からの論理を築いてゆく、恰好な時期であります。
 リタイアメントとは、言わずもがな、個人によって用意できる条件に差はあるでしょうが、長年の義務の労役から解放され、大なり小なり、自分の人生を自分のために使う生活に入ることです。
 こうした、俗に言われる「第二の人生」において、強い人気を集めている活動は「旅行」です。ただ、旅行といっても、それは、狭い意味の観光旅行から、工夫をこらしたロングステイ、そして、かって体験してこなかった新たな領域に挑戦するといった、精神的な旅行までをも含む、ひろいバラエティーがあります。
 そこに共通している精神は、《越境》、つまり、リタイアメントという、時間と手段の自由さがゆえに実現可能である、「第一の人生」では果たせなかったもうひとつの人生への旅立ちです。
 仮に、60歳をこの新人生への出発点としますと、平均寿命として約20年の年月をついやしうる機会を目前としているわけで、そこで展開できる可能性は、20年という長さとともに、それが、それまでの60年の厚みの上に立つものがゆえに、なみのものではないはずです。
 もちろん、生物学的には、いろいろな能力で下降線をたどらざるをえないことからは逃れられませんが、それは、それまでの60年の薀蓄を背景にした上での、肉体的な面でのゆっくりとした衰えにすぎません。すなわち、精神面で、ますます高揚がはかれないという意味では決してありません。
 そのような観点で、私は、リタイアメント生活と両生生活を同義的にとらえ、ことにその中で重要な働きを占める精神面の活動にとって、第一、そして、第二の人生という、ふたつの人生を生きることが、どうして、「両生的」でなくて可能となれるのかと、問いたいと思います。
 それをただ、過去の蓄積の消費や取り崩しの時期とのみとらえるのでは、あまりにも、もったいないと思います。
 両生学のもたらすホライズンは、そうした創造的リタイアメント海域への、必須航海術の提供です。

 現役世代にとっての両生学
 両生学の持つ可能性は、しかし、リタイアメント世代に限ってもたらされるわけではありません。
 今後、日本の社会が迎える環境は、これまで以上に、外に向かって開放され、また、されなければならないもので、さまざまな意味と分野で、混乱と脱皮が繰り返され、過去の慣習や基準がそのままには通用しない時代となってゆくでしょう。
 そうした時代環境にあって、まさに《越境》精神は、時代がもとめるエッセンスとなることは間違いないでしょう。
 ある意味では、この《越境》精神は、「競争」というかたちで、私たちの身のまわりのありとあらゆる分野へ導入され、先取された感があります。しかし、本来の《越境》精神は、そうした、ビジョンとしては矮小化され、方向としては偏って肥大化され、内実として自らを疎外するものではありません。
 リタイアメント生活の場合でも、その生活手段がすでに安泰であるのは、まだ、一部の人たちです。完全リタイアしたくとも、ますますそうはできないというのが実態です。
 まして、現役の世代にとって、そうした《越境》精神を実践してゆく前途は未知数で満たされ、海図のない水域への航海のように、細心の注意力をもって、意志とリスクをバランスよく保持、管理してゆくことが求められます。それには、合理性と研ぎ澄まされた勘に裏打ちされた、健全な能力によって発揮されます。
 そうした能力が、どのように生まれ、育ち、どのように実践されているのか、言ってみれば、そうした創造性のメカニズムを解くかぎの解明は、この両生学がかかわってゆく重要な分野のひとつです。
 肉体という“インフラストラクチャー”に支えられ、かつ、そうした所与条件と良い関係を保ちつつ、脳という、人間が人間である証の臓器かつ心神の源を、いかに最大限に活用してゆけるか、これこそ、これからの時代を生きる若者が必要とする必須の方法論です。

 両生学の科目構成
 以上のような展望をもって、ここに両生学の学際的科目構成をあげてみたいと思います。各科目に付したコメントは、当面の取り組む課題や注目点です。またこれらは、完成した構成ではなく、あくまでも暫定的なものです。今後、講義の進展に応じ、補強、改定を加えてくつもりです。

   両生金融・経済学---マジックからの独立。豊かさとは何か。開放と保護、この両立はいかに可能か。
   両生地理・測量学---現在位置の測定法と航海術。
   両生医学・生理学---いかに心身をシナジーさせてゆくか。メディスンとしてのスポーツ。
   両生脳科学---心脳関係へのアプローチ、夢の働き。創造性のみなもと。
   両生心理学---自我の発達と他人。存在の複数性/多重性。
   両生精神分析学---「内視」の道具。主客転倒を転倒させる。
   両生精神医学---老いと精神的健康。身体性と精神性。
   両生文化人類学---自文化と他文化の交錯。越境の科学。
   両生言語学---自流英語学習法。母国語と第二言語。「幼児期」の再体験。
   両生歴史学---あざむきのカルテとしての歴史。歴史化されなかった歴史の歴史化。
   両生宗教学---一神か多神か。無神論者の神理論。
   両生哲学---両生構造主義。倫理性の原点。宇宙と唯我。

 公開性、共創性
 批判、意見、質問などなど、大歓迎です。どうぞ、ご遠慮なく、また、ご容赦なく、下記アドレスまでお送りください。
   matsuzaki@retirementaustralia.net
 いただいたご見解には、誠意と努力をもって、可能な限り、公開を含む、ご応答やふさわしい方策に取り組み、共同の成果を作ってゆきたいと思います。

 (松崎 元)
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