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両生学講座 第10回(両生生理学)
 



         自転車通い



 今回の講座は 「生理学」 についてですが、そのなかでも、運動にかかわる生理学について、もちろん、「両生学」 的見地から、議論してみたいと思います。

 私は、3月の 「すし職人見習い」 開始を契機に、その店まで、片道8キロほどを自転車で通う方法を取り入れました。時間にして30分弱の道のりですが、途中、二つの丘越えがあり、相当いい運動になります。特に悪天候でない限り、毎日、自転車を利用していますが、これから冬に向かい、強い風の吹く寒い日などには、たとえ晴れていても、車に切り替えることがあるかも知れません。

 こうして、毎日、自転車を利用しながら、興味深い発見をしています。
 それは、「仕事」 に向かう際、誰でもが経験する、あるおっくうな感覚、時には、気の進まぬ自分を強いて押し出す努力を要することがありますが、自転車通勤が、そうしたブルーな気分を和らげる、“軽快化” 作用ともいえる効果をもたらしていることです。
 ただ私は、過去に似たような経験をしていました。博士論文を書いていた当時、一日の根を詰めた作業を終えた夕方、ほとんど毎日、ジョギングか水泳をすることによって、そうした一日の疲れをとっていました。そんな経験がありましたので、この発見には、事前にある種の予感があったのも事実です。
 そうした当時の 「メニュー」 は、30分ほどの連続した運動を中心に、前後のウォーミングアップとクーリングダウンを入れたものでした。もちろん、計一時間ほどのエクササイスをするのですから、それなりの肉体的疲労は残りました。しかし、そうした運動をすませた後は、それまで脳裏をおおっていた陰鬱な疲労感が消え去り、すごく清々しい疲労感に変わるのです。
 あたかもそれは、「今日一日、いい仕事をしたね、ご苦労さんでした」 と、自分で自分に声をかけれるような、そんな安らぎ感でもありました。ですから、何かの都合で、数日間もこうした運動ができない時は、夜、寝床についても、鬱っぽい気分がとれず、それがまた眠りを妨げて、次の日にも影響してゆくという、悪循環となることもありました。こうした睡眠障害がつづくことは、鬱病のきっかけとなります。
 論文を書いていた間、こうした毎日を続けていましたが、あの、孤独で、病的なほどにも没頭していた数年間、もし、この 「軽快化」 なしで過ごしていたなら、その道を達成する前に、私は神経の変調をきたしていたかもしれません。事実、そうした困難に遭遇し、脱落してゆく学生たちを目撃もしました。
 そういう次第で、ロングランでの努力や傾注を続ける際、こうした心身の疲労のバランスをとることが、その成功の土台条件となることを経験的に学びました。考えようによっては、そうして獲得した学位より、この経験的知恵の方が有用な収穫だったのかもしれません。

 こうした体験から、それ以来、毎日、最低30分ほどの何らかの運動は、私の日課となりました。
 それが、「すし職人見習い」 を選択し、一日をあたかも二日のように使う計画をたてたとき、そうした運動にあてる時間がとりにくくなるのは明らかで、そこで編み出したのが、必要な通勤自体を 「運動」 の時間としてしまうことでした。そのためには、その職場は、可能な運動距離圏内にあることも条件でした。
 そうして、ともあれ、フィジカルな運動確保の手段として取り入れた自転車通いだったのですが、それを続けるうちに、かつて経験した 「軽快化」 作用が、こうした場合には、なんと、仕事への取りかかりにも、また、帰宅の際にも、二重の効果として働いていることに気付いたのでした。
 仕事に向かう際には、その30分の運動をへることにより、一種の気重さが消え去り、なんとも前向きな心理になっているのです。
 また、帰宅の際にも、仕事場を去る際にあった重たい疲労感が、家に着いた際には、気持ちのよい達成感に変化しているのです。
 こうしたダブルの効果は自分でも不思議で、見方次第では麻酔作用と言えなくもなく、常用癖に堕しはしないかと気になるほどです。ただ、それが誰にも同様な効果をもたらすのかどうかの検証は今後の課題ですが、以下のように、その手がかりがないわけでもありません。
 ともあれ、私に関する限り、それは確かな現象です。ただ、その 「運動」 の前の疲労が過度な場合、こうした軽快化効果も十分にはきかないようです。

 それにしても、どうしてこんな変化がおこるのか、その生理学的メカニズムについて、科学的説明をあたえるヒントがあります。
 前にも紹介したことのある、有田秀穂、東邦大学医学部生理学教授の書いた 『セロトニン欠乏脳』 (生活人新書、NHK出版) という本にある見解です。セロトニンという脳内物質にかかわる生理学的検証です。
 まず同書の導入部から、以下の引用をご覧ください。
 ただ著者は、こうした薬の常用には否定的です。それは、その長期服用の副作用もまだ解明されておらず、ましてや、セロトニンは、身体内で作り出すことの可能な物質なのですから、安易な外からの取り入れに頼らず、その身体内の生成過程にたよるべきだと訴えています。私は、現代の薬品産業の姿勢に疑問を感じており、この考えに大いに賛成です。薬品の使用はそれ以外に方法のない場合に限るべきで、むしろ、そうした自然な自己生成能力を弱らせている原因こそが問題です。
 では、著者のいう、このセロトニン神経をより強いものとするその鍛え方を見てみましょう。
 こうしたリズム運動ですが、歩行運動としては、ウォーキング、ジョギング、マラソンとしだいに厳しさを増す運動があります。また、自転車こぎも歩行リズム運動の変形です。水泳は水中で行われる四肢のリズム運動で、これらの運動では、呼吸のリズム運動もあわせて活性化されますので、歩行、呼吸の二重のリズム運動が同時に行われるわけです。
 著者はここで、腹式呼吸法の重要さを指摘し、それを取り入れているのが禅の呼吸法であると注目しています。興味のある方は、原本に当たってみてください。
 さらに、著者は、セロトニン神経と光の関係について、以下のように述べています。
 今回のエッセイの冒頭に述べた、日の出にともなう私の体験は、こういう意味で、生理学的にも説明のつくことのようです。
 著者の有田教授はまた、さらに興味深い、セロトニン神経の特徴を述べています。
 それは、セロトニン神経もノルアドレナリン神経も、ともに覚醒を演出する神経なのですが、ストレスに対する反応の仕方においては、決定的な違いがあることです。つまり、クールな覚醒をつかさどるセロトニン神経と、ホットな覚醒をつさどるノルアドレナリン神経という対比です。そしてこう言います。
 私が不思議さすらも感じている、自転車通勤による 「軽快化効果」 とは、セロトニン神経の興奮による、こうした 「クール」 な働きと関係しているのかも知れません。
 また、対ストレスという意味では、あらかじめ自らそうしたリズム運動を取り入れた生活をして 「平常心」 度を広げ、ストレスに動じにくい自分とすることができる、ということではないかと思います。

 ところで、私がこうした通勤方法を始めたことを知った私の周囲の人たちが、まるで申し合わせたかのように私に忠告したことは、「車に気をつけて」 でした。
 確かに、スポーツとしての自転車なら、自転車専用路を走ることでも目的は果たせます。しかし、通勤となると、なるべく閑散とした裏道を選ぶとしても、車が行き交う道を使わなくては用が足せません。当の本人としても、毎日、毎回、最大の注意をそそいでのぞんでいますが、自転車通勤者にとって、「最大の敵は車 (正確にはその使用者)」 と言っても過言ではありません。
 三年前にしてやむなく車の運転免許をとり、上に述べたように、ミニマイズな車利用者の私ですが、自転車という、購入も容易で、高騰を続けるガソリンも無用、排気ガスも出さず、健康にも二重、三重に効果的というこの方法を、注目しない思考法は不可解です。
 私見を申せば、薬品にせよ自動車にせよ、今日の企業社会は、「安易」 を 「進化」 のごとく言いくるめ、人間の本来の能力を奪ってまでして、その利益マキシマイズを蔓延させています。言ってみれば――病的が病的を食って金を得る――社会と化しています。

 毎日、汗をかきかき自転車通勤をしてくる私をみて、店の人たちからはよく、「疲れませんか」 とたずねられます。私はそこでにこりとして、「むしろ逆なんですよ」 と応えています。

 (松崎 元、2006年5月13日)
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