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          心 読


 四ヶ月前、私はある英語の本を 「訳読」 しはじめ、その遅々たる歩みを、このサイトに載せてきています。そうして、私ながらの一読書法として、「訳読」 なるものをあみだしてきているわけですが (今号では、その訳読した分量が少ないため、来月号にまわします)、本の読み方のまた違ったすべとして、「心読」 なるものがあるといいます。
 それをいうのは、『生きて死ぬ智慧』 (小学館) の著者で、生命科学者でもある柳澤桂子氏です。
 私が彼女を初めて知ったのは、昨年の 『文藝春秋』 10月号に、氏が書いた記事が掲載されていたからですが、私には、般若心経を独自に読み解いた科学者がいる、といった程度の理解にとどまっていました。
 せんだって、私の 「『無』とは最大の『有』」 を読んだ友人が、この 『生きて死ぬ智慧』 をも読んで、両者が 「どこか繋がっているように思います」、と知らせてくれました。
 そうした指摘をもらって思いたち、急遽日豪を往復することとなった別の友人にお願いし、この本を買ってきてもらいました。


 その本に、氏はこう書いています。
 柳澤氏は、不治の病に36年間にわたって苦しめられ、この境地に達しました。


 私がいう 「無」 と、ここで氏がいう 「空」 とは、同じものと思います。
 ただ、私は子供のころは病気がちでしたが、十台後半からは健康を取り戻し、還暦を過ぎた今でも、健康には恵まれた生活を送っています。
 そういう点では、両者はまったく対照的です。それが、どうして同じもの、少なくとも、「繋がっているもの」 を発見しているのでしょう。
 私は、彼女の場合を身体的なもの、私の場合を社会的なもの、とのアプローチの違いはあれ、自らをも含む、この世の 《見せかけの外見》 の発見に、共に、至ったからではないかと思います。
 私なら、こう書くかもしれません。

 私は 「無神論者」 ですが、こうした彼女が、苦しみのなかで出会った、ドイツの神学者、ボンヘッファーの 「神の前に、神とともに、神なしに生きる」 ( 『文藝春秋』 05年10月号、p.155) という言葉には、私にも共有できるとところがあります。
 この、神すらも不在の 「無」 あるいは 「空」 こそ、私たち人間の土台ではないかと思います。

 
 (松崎 元、2006年10月12日)
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