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        知識を職人する


 「職人する」? ちょっと耳慣れない言い方です。
 それはこういうことです。
 すでに書いていますように、私の毎日のうち、平日の午後の後半から夜にかけては、職人業修行に当てられています。目標は寿司職人なのですが、そこは修行させる店の側の都合もあって、目下、てんぷらを仕込まれています。ともあれ、そうした、食の分野の職人修行にとりくんでいます。
 そしてこの 「食」 ですが、言うまでもなく、それなくして、私たちの生活はありえません。生活どころか、命すら維持できません。
 さらに、この食というものは、その原料つまり食材のことごとくが自然のものです。その自然の食材の持ち味を、殺さず、最大に生かし、かつ、加えられた調味料や料理法を通じてよりおいしくし、さらに、見た目にも感じよい盛り付けをして磨き上げ、そしてサーブされます。こうした過程のどのひとつをとっても、手先の器用な動きから敏捷な頭の働きまで、人間のもつ五感と脳をフルに動員させることなく、完成されることはありません。そこには、働く場こそキッチンという限られた空間ですが、自然が創り出したものに、文字通り全知全能をもって人が働きかける、そうした広く奥深い作業があります。また、そうした作業は、何十ぺん、何百ぺんも繰り返してようやく身に付けられる、退屈なほど謙虚で目立たない一つひとつの技量の集積です。
 一例をあげますと、こんな経験があります。いろいろな仕込み作業の中で、料理にそえる八つ切りにした半月状のレモンを私が下ごしらえした時でした。翌日、使い残したそうしたレモン片を入れた容器の底に、かすかに水がたまっているのです。板長が、それを目ざとく見つけて指摘しました。そして彼がやって見せたのは、よく切れる包丁を鋭く動かして切るやりかたでした (と私は理解したのですが)。つまり、私は、まずい包丁使いのため、レモンの組織を不必要に壊してしまい、レモンの果汁がすこしずつでもにじみ出てしまっていたのでした。一個のレモンを八つに切る、ただそれだけでもこれだけの世界があります。それは、あらゆる食材についても然りであり、その蓄積の幅と厚みが、技量や 「うで」 と呼ばれるものとなってゆくわけです。
 つまり、「仕込む」 という言葉が、人を 「仕込む」 とも、材料を 「仕込む」 とも、両用に使われる世界なのです。
 そのように、何事かについて、経験的に体得してゆく技量を通して、対象と自分との間に新たな相互関係や相互成果を作ってゆく、そういう独特の道筋がそこにあります。それが 「職人する」 という表現の極意です。 ただし、私の場合、まだ始めて九ヶ月にもならない新米が言う程度の理解度にすぎませんが。
 そこには、どこか、人生経験といわれるものと重なり合うものがあり、学位を取るとか、資産を持つとかといった “物化” された方法では取り上げ切れない、(自然)対象と人との、相互で自覚的な関係と到達があります。


 食に関連して、以上のような経験を私はしているのですが、ここではそれを別の角度からとらえ、「料理」 してみたいと思います。
 つまり、もうひとつ別の食べ物、知識についての 「料理」 の仕方に、それを適用してみたらどうなのか。
 身体にとっての必要摂取物が食物とすると、知識は脳にとっての必要摂取物です。ただし脳は、酸素とか栄養素とか、それ以前にそうした身体的摂取物も必要とする、まことに贅沢なしろものです。
 この二つの食物を考えて見ると、ある対比が見えてきます。
 それは、身体、つまり、消化器官が、摂り入れた食物が良好なものか劣悪なものかの区別に比較的敏感であるのに対し、脳の方は、そうした選別に無頓着であるばかりか、ばかに貪欲で、過激であるとか悪質なものにまで、食欲を示すことがあります。
 身体が、傷んだ食物をとった際には、腹痛や下痢をおこしてその異常を即座にかつ自律的に検知します。しかし脳の場合、そうした自律検知反応はないようで、むしろ、悪性物でも性懲りもなく持続して摂り入れ、気付いた時は重い精神症状に陥っていた、といったケースもまれではありません。
 つまり、そうした無防備性が脳にはあり、また、知識には、扱かわれ方の丁重さ不足があるようです。
 そこでですが、私たちが、身体の食に多くの神経やうんちくをめぐらすように、脳の食にも同様の配慮をほどこす余地は確かにあります。そこで私は、身体の食について発達してきた方法が、脳の食についても有効なのではないかと思うわけです。

 話の方向がやや変わりますが、私が、上記のような 「食の職人」 を目指している理由のひとつに、「職人する」 経験に、再度、立ち返ってみたいとするところがあります。
 「再度」 というのは、以前に職人をしていたからという意味ではなく、歴史にあって、洋の東西を問わず、かつて職人は、産業発展の原点でありました。すなわち、職人というのは、ひとりで何でもする人のことでした。たとえば、物をこしらえる労働者でもあり、それを売る商人でもあり、商品の運搬もし、材料を仕入れ保管する管理者でもあり、収支を扱う会計係でもあり、小僧をやとっていれば親方でもありました。職人は、こうした様々な機能をひとりのうちに取り込んで仕事をしていました。しかし、時代の変遷にともなう産業発展のうちに、そうした職人のそれぞれの機能が分化し、製造業者や小売、卸売業などという、今日の業種分類にあたるそれぞれの専門職業が発生してきたわけです。
 産業の近代化とは、そうした、各業種の受け持ちの細分化、専門化と不可分で、それに伴い、社会は組織化され、複雑な構造をくみ上げる一方、個人は、その細分化された部分に閉じこもり、全体が何であるのか、自分の位置がどこなのか、見渡しがきかなくなっています。
 「職人する」 とは、そういう職人業に、再度、立ち返ってみようとするものです。
 というわけですから、あえて職人をめざすというのは、その一方、時代の流れに遡行して 「歴史する」 作業にも加担することにもつながります。復古主義の一種の実践かもしれません。そうではありながら、そこには、時代がもたらした細分化された断片から、もっと統合されたものの再生へと志向する、ひとつの方法論が見出せます。
 前回の講座に書きましたように、私は、この 「歴史する」 姿勢、つまり 「歴史ごころ」 を持つことに、人としての重要な態度が表れていると考えています。

 こうして、身体の食への尊重にも等しい姿勢を与え、かつ、「歴史ごころ」 の精神とも重ねあわせて、知識を 「職人する」 ことの可能性に注目できます。すなわち、知識は、量で扱かわれて持ち物化したり、電脳頼りの “データ” に変質した感がありますが、食の世界になぞらえれば、じっくりと 「いただき」 たい、生きた食材であります。
 ヘルシーでかつうまい料理を味わいたくなるような、そういう親しみをさそう知識に、「ごちそうさま」。

 
 (松崎 元、2006年10月28日)
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