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        修行第二風景


 このエッセイに登場する 「板長」 は、じつを言えば、日本人ではありません。1990年代、あるアジアの国 (彼のプライバシーへの万が一の配慮から国名は伏せます) の民主化運動にかかわり、弾圧の危険にさらされた彼が日本へと脱出し、生きる手段として身に付けた板前の腕が、いまやオーストラリアで、そう振るわれている、その実行者です。
 彼は、彼の語るところによれば、他の日本人の見習いの中におかれながら、数々の不利を人一倍の努力と工夫で克服し、東京のある割烹で数年の修行をおこない、その後、板長を任されるまでになった人です。その抜擢の際には、その割烹のオーナーから、「日本人ではないのに大丈夫か、うちは割烹だぞ」 と念をおされ、なおかつ決断した店長の太鼓判があったゆえ、とのことです。
 ところで、私の、寿司あるいは和食をオーストラリアの日本料理店で修業しようという計画は、それ自体が異色であり、いわば本筋からも外れています。そうした次第で、私が習得中の和食とは、それほどに、国際化し、脱日本化した 「日本料理」 ということができます。
 私などは、板前修業と聞いてことに連想することは、あるじめじめとした封建的な修行慣行です。彼の修行の際にも、そうしたことを経験してきたようです。しかし、ここシドニーにあっての彼の態度はやはりどこか非日本人的で、あるドライさを漂わせています。あえて言えば、彼は、その技術は習熟しても、そのメンタリティーは受け継いでいないように見受けられます。
 
 そうした彼が、この年末年始の2週間の閉店休暇を延長し、前後合わせて4週間の休暇を取ると宣言したことから、ことの騒ぎが始まりました。まして、この年末をもって、長年、店の寿司部門を率いてきたベテラン寿司職人の一人も独立して辞めてゆくこととも重なり、彼らの職務や責任が、いっきょに私たち新米に降りかかってくることとなったからでした。
 そもそも、板長の突然な “長期” 休暇の取得については、私にも一因がないわけではありませんでした。というのは、私が週休二日で働いているのを、言外にながら、彼はうらやんでいるところが感じられ、そこで私が、教えてさえもらえれば私がカバーできるだろうから、一日くらい、休んでみてはどうかと提案したことがあったからです。
 そこで休店日の翌日に当たるある火曜日、彼は休暇をとりました。そしてその一日を、私一人で (事前の彼の大いなる準備もあって) なんとか乗り切ったのですが、その成功をみたからなのでしょう (少なくとも一因として)、彼はいっきょに長期休暇へと計画をジャンプさせたのでした。
 もちろん、それを宣言してから、私を中心に、私たち新米への彼の教え方には厳しさが増し、彼の不在の二週間の職務をこなせるに足る特訓が私たちに実施されました。さまざまな伝授が緊急に行われた後、休暇突入の一週間前からは、彼を事実上抜きにした 「予行演習」 も行われ、さて、いよいよその本番へと至りました。
 幸い、その間、細かなトラブルは多少起こったものの、大事にはいたらず、ことはほぼ順調に推移しました。
 それにしても、こうした大胆な決心とその実行は、日本人でない彼でなくては、なされることはなかったのではないかと私には思えます。おそらく彼が日本人であったなら、最初の一日だけの休暇で終わり、第二の長期ものもは、あったとしても、もっと長く情況を見た上でのものとなっていたと思います。 

 板長は、あらっぽい、いわゆる職人言葉は流暢ですが、あらたまった日本語はダメです。また、彼のみがその理由でもないのですが (彼以外に、中国人、韓国人、台湾人も店ではいっしょに働いています)、店で使われている書類は、みな、英語かローマ字つづりで表現されています。

 このように、私が体験している日本料理は、おおいに 「国際化」 されたものであると断言できます。そしてそれは、確かに、分類上は日本料理= Japanese food ではありますが、いわゆる 「本物」 のそれであるかどうかについては、そうとうに異論のさしはさまれる余地のあるものだと思います。
 

 私は、こうした、入り混じり、ごっちゃとなり、実用化された――国際化といわれる現象の反面でもある―― 「現場」 で起こっている現象を、 《非本物化現象》 と呼びたいと思います。
 この 《非本物化現象》 は、しかし、私たちが生きる 「現場」 の周囲をよく見回してみると、それほど特殊な現象ではないことに気が付かされます。
 たとえば、本格的日本料理として理解される日本国内の割烹でのマグロのおさしみにしても、その大半は輸入されたものです。日本料理に不可欠な醤油にしても、日本産の大豆から造られた醤油がどれほど存在しているのか、それも極めて例外的です。
 つまり、一般に 「本物」 と理解されているものでも、それはきわめて相対的、あるいは程度問題のもので、実態としてあるものは、ごっちゃ化されたものです。
 あえて言えば、そうしたごっちゃ化現象に泥まみれになっているからこそ、多少なりとも純粋性の高そうなものが、「本物」 と銘打って珍重される傾向があるのでしょう。
 つまり、真に 「本物」 なるものは、理論や空想でならともかく、もはや 「現場」 には存在しえない――そうした強い方向性のなかで、本物と非本物というに方向に分裂させられた揺れる存在こそ、私たちの生活の真のあり様のようです。


 (松崎 元、2007年1月13日)
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