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   ビヨンド ブルー


 オーストラリアで奇妙な現象が広がっています。
 この国は、ここのところ経済は絶好調で、かってない豊かさを謳歌しているのですが、そうでありながら、健康問題が深刻な障害として広がっているというのです。
 もちろん、過食による肥満やそれが引き起こす健康障害は通例化し、御多分から漏れるようなことにはなっていません。が、それだけではないのです。

 オーストラリアの経済は、過去15年間、継続的な成長を続け、この間に国内総生産は二倍近くにふくらんでいます。失業率も記録的低さを続け、人手不足が企業成長の足かせとなっていると考える経営者も六割に達しています。また最近までは、石油高がインフレを懸念させていましたが、いまでは、賃金の上昇がインフレ圧力の最大要因として指摘されています。
 つまり、生産も目いっぱいに伸び、働く機会も社会の隅々にまで行き渡り、賃金も上がり、消費も旺盛という、経済的にはまったく申し分のない状態が維持されているのです。
 そうしたオーストラリアで、7年前、「beyondblue (ビヨンドブルー=憂鬱を越えて)」と名付けられた団体が設立され、社会を蝕む深刻な不健康要因であるうつ病に対する啓発運動を広げています。
 当団体によれば、オーストラリアでは、5人にひとりが何らかの形でうつ病にかかっており、しかも、本人がそれを病気として認識しておらずに放置されるケースが多く、自殺にいたる場合もまれではありません。2020年には、自殺が死因の最大要素にまでもなるとさえ予測されています。

 最近では、政治家のうつ病による自殺や未遂事件も数件、報道されています。また、昨年初めには、西オーストラリア州政府の現役の首相が、任期途中、突然に辞任を発表し、自ら、うつ病がその原因であると語って世間を驚かせました。
 そうした折、2月21日、「ビヨンドブルー」の会長で、元ビクトリア州首相であったジェフ ・ ケネット氏が、全国記者クラブに招かれて講演し、「二千百万のオーストラリア人口のうち、三百万人がうつ病状態にあり、援助を必要としている」と語りかけました。
 それを聞く聴衆は、その場所がら、つわもの揃いの記者たちですので、そこで出される質問も、たとえば、「今年の総選挙で、もしハワード首相が敗北した時、彼にもうつ病対策が必要ではないか」と辛らつです。ですが、 ケネット氏も元政治家。記者たちに向かって、君たちも危ないのではと言わんばかりに、政治家業も、我を殺して取り組む仕事のひとつであると応じていました。
 一般に、オーストラリアの男性は、みずからの不甲斐なさを人に告白できず、つい隠し続け、いっそう症状を悪化させているようです。弱い男と見られたくないからです。
 ことに、近年つづく旱魃の被害は、農業生産者に耐え難い困難を及ぼしており、離農者ばかりでなく、多くの自殺者を生んでいます。農業地帯で、ことさらに男らしくあらねばならぬ地方的伝統が、そうした傾向を生む一因となっているようです。
 その一方、政治家としての道から転向し――彼は自由党の州首相として州政治をリードしていましたが、1999年、労働党に政権を奪われ、その前途を失いました――、こうした団体活動に献身するみずからの経験を込めて、ケネット氏は、「決してリタイアするな」と力説します。
 ここオーストラリアでも、いわゆるベビーブーマー(団塊世代)のリタイアメントの時期にさしかかっていますが、全体として、リタイア問題は、上記のような好調な経済環境を背景に、労働の辛苦から解放された第二の人生が過ごせるハッピーストリーとして描かれることが多いように見受けられます。ことに、こうした経済環境下、住宅や株式などの価格は、日本でいう「右上がり」の上昇を続けてきており、いま、退職してゆく人たちは、かってなかったほどの裕福な資産を蓄えているようです。なかでも、資産運用で大きく成功した人は、現役時より、退職後の収入のほうが多いという場合もあるようです。まさに、リタイアメントは成功した人生のゴールのようなのです。
 そうした、経済的には幸福の絶頂にあるはずの退職者たちにも、やはり、うつ病が見られるというのです。近親者の死とか離婚など、人生での大きなな出来事がうつ病の引き金となるケースが多いのですが、リタイアメントもそうした出来事に含まれる可能性があるということです。

 突然にやってくる、そうした環境の大変化が、たとえ、経済的には裕福であっても、人にうつ病をもたらしているらしいのです。
 だからケネット氏は、「ボランティアでもいいから、リタイアするな」と言います。そして、数年前までは、彼が大切と考えていたのは妻や子供たちであったが、今は「自分の健康だ」と語ります。そして、「こういう話は利己的と聞こえるだろうが、自分の健康がそこなわれて、どうして家族への責任が果たせるのか」と問いかけます。
 歴史的にも、この国が始まって以来といわれる経済的好調が維持されているこの時期にあって、それでも問題となっている、健康、ことに精神的健康。言い換えれば、それほどに、そうした不健康要因が高まっている社会となっているわけです。
 私見ですが、オーストラリア社会は日本と比べ、変化のテンポがかなり速いように見受けられます。その結果が、ある意味で、現在の繁栄なのですが、そうした変化に適応できないケースも当然にありうるはずです。
 私は、日本の政治家がうつ病を患っているといった話を耳にしたことはありませんが、オーストラリアは、そうした海千山千の政治家ですら、うつ病に追い込まれる社会であるようです。
 そうした社会で、あまりに完全なリタイアが、社会的な墓場を意味することもあるわけで、ケネット氏の「リタイアするな」とのメッセージは、生きて墓場に入らぬように、そうした機微な警告を与えているのかも知れません。

 (松崎 元、2007年2月23日)
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