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朝顔や つるべとられて もらひ水


 私にとっての自転車通勤の効用は、これまでにも幾度も書いてきた通りです。また、その効用が、脳の活性化をつかさどるセロトニンの分泌に影響する、身体の繰り返し運動によっているらしいという、医学的見解も先に紹介しました。
 そういう目覚しく健康的な自転車通勤ではあるのですが、その一方、たとえば、午前中、物書きや読書など、高揚した、自分でも創造的だったなと思える時間をj過ごした後、午後となって、いざ、仕事に出かけようとする際、それは誰でもが経験することでしょうが、「行きたくないなぁ」 といった、強い、おっくう感覚にとらわれます。むろん、重い腰をあげ、そうした自分に鞭打って出かけて行くのが日々の仕事というものであります。

 そこでまず、この自転車通勤なのですが、それをその 「繰り返し運動」 という面でもう少し数量的に詳しく見ると、片道30分ほど約8キロの道のりは、ギアーによって変わりますが、ペダルの一こぎで平均2メートル進むとし、また、道のりの半分は下り道や惰性で進んでいると仮定しますと、およそ 2,000 回のべダル踏み運動を繰り返していることとなります。この 2,000 回の繰り返し運動こそ、私に、心身への健康な効果をもたらしてくれている、その源泉です。
 それでは、生活にともなう、その 「おっくう感覚」 から抜けられぬ毎日の出勤ですが、それも、いったん観測のスパンを長くとってみれば、やはり、ひとつの繰り返し運動と見えてきます。すなわち、そのスパンを一年間とすると、毎日2回、週5日、年40週として、400 回の繰り返しということとなります。さらに、スパンを3年に延ばせばその値は 1,200 回となり、数量的にも、自転車の繰り返し運動のレベルに並んできます。

 こうして二種ならべて観測できるの繰り返し運動なのですが、それらのうちの前者に、脳科学的な効用の説明が可能であったように、後者にも、何か、しかも、良い効用があるといった視点にならぶ、脳科学的とは言わずとも、何らかの説明付けが可能なのでしょうか。
 そこで登場ねがいたいのが、表題にもかかげている、

という、徳川末期、加賀の生まれの女性俳人、千代 (通称、加賀の千代女)、の俳句です。
 ただ、最初に白状しておかねばなりませんが、この句の以下のように深淵な解釈は、私のものではなく、またしても、鈴木大拙著の 『禅』 (ちくま文庫) からの孫引き (p. 186-88) です。
 大拙はこの句を、「朝顔や」 との上の句と、「つるべとられてもらひ水」 との下の句とに分けて解釈しています。つまり、上の句は、みずみずしく美しい朝顔の花への感動のすべてを、このわずか三語に凝縮したもので、あえてそれ以上を付け加えない、「詩人の魂が花について言い得ることのすべてを含んでいる」 と説明しています。また、下の句は、こうした 「汚穢
〔おわい〕の世界に属さぬ美しいものと、功利主義が支配する日常生活の実用物との対比の手段としてつけ加え」 られたものといいます。曰く、

 その、一読にして何とも深く感動を与える句に、そうした対比がうたいこまれている、というのです。いうなれば、うたいこまれたそういう対比という、人間の実相が、表現されている、というのです。
 
 これはあえての我田引水なのですが、ここに大拙が言う 「相対の生活」 を私の毎日の午後に、「美に没入した無分別の境」 を午前の生活にそれぞれ対応させてみたいと思います。いってみれば、「物書きや ペダル踏みふみ 寿司修行」 です。私は、厚かましくも、そうした類推をここに導入しようとしています。
 ところで、この 「実存主義 ・ 実用主義と禅」 と題された章で鈴木大拙が言わんとしていることは、「全体がその各部分とともに直観される」、という禅の哲学です。それが梵語でいう “プラジュニャー” (智慧、般若) であり、プラジュニャー 直観こそ、禅の根幹であるといいます。つまり、「朝顔や つるべとられて もらひ水」 との句は、この、プラジュニャー直観を表したもの、ということなのです。
 私は、私の毎日の生活、ことに、午前と午後のきわめて対比的な生活をなんとか表現したくて、この文章を、(俳句の17文字と比べれば、何とも長たらしい不細工さで)、書いています。つまり、その一日を大拙がいう 「全体」 とするなら、その全体についての 「プラジュニャー直観」 としての、この文章です。

 ここで書き出しにもどるのですが、私の生活中の、年 400 回の繰り返し運動ですが、どうやらそれも、プラジュニャー直観として、全体を一にしてとらえてしまうと、自転車の繰り返し運動がそうであるように、これまた、目覚しく良い効用を果たしえるかのように思われます。そしてたしかに、クリエイティブと言ってもよい、何がしかの領域に、触れえているように思います。

 ところで、鈴木大拙は、たとえばこうした私のケースのような場面で、一日の自分を二つに分け、午前の自分と午後の自分というように、対立した、二元論的なものとしてとらえてしまうような考え方を、西洋式の相対主義、実用主義、あるいは分析主義の考え方であるといいます。そして、そうした 「二元論が、その背後に統合する原理のあることを認めようとしない時、その生来の破壊的傾向は、奔放に、ほしいままに露呈される」、と述べています(p. 199)。ブッシュが、イラク戦争にとりかかるにあたり、なぜ、「米国に味方しないものは敵だ」 と傲慢にも言ってのけれたのか、その発想のメカニズムも、こうしたところに根をもっているようです。

 (松崎 元、2007年5月6日)

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