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両生学講座 第21回(両生哲学


       西洋にとっての禅


By William Berrett, "Zen for the West" in ZEN BUDHISM: Selected Writings of D. T. SUZUKI、Three Leaves Press, Doubleday New York, 2006.
 

                              
1.

 禅は、一見して、あまりに異様で非理性的である一方、多彩かつ印象が強烈で、最初にそれに接した西洋人の多くが不可解に終わってしまうのが常である。しかし、中にはそうした外見に魅される人々もいて、まったく浅薄で皮相的な理解におちいりがちである。いずれにしても、残念な反応にちがいない。だがその真相は、鈴木博士が述べているように、禅は仏教の真髄であり、また仏教は人類の歴史におけるもっとも偉大な精神的産物――おそらく、我々西洋人がいまだ十分に把握していない産物――のひとつである。我々西洋人が忘れてはならないのは、自分たちが東洋の知識を探究しはじめてから、さほど年月を経ていないことである。

 未知なる東洋
 仏教に関心を示した最初の西洋人哲学者、ショーペンハウエルは、わずか一世紀昔の人にすぎず、貧弱な翻訳にもとづき、明晰かつ耳目を引く誤解を展開した。以来、東洋研究の分野において、大きな前進がなされてきたが、奇異な逆説的偏狭性が西洋をおおい、地球のありとあらゆる部分への侵入を果たしてきたその文明は、非西洋人の知恵への偏見をいまだに抱き続けている。日曜報道番組に、「ワン ワールド」 といった標語がありふれたテーマとなった今日にいたっても、それは、先端の情報通信技術網によって今や全地球が一体化されているとのみ理解する、純西洋的な意味において解釈される傾向がある。だが、その標語が、東洋という対極と朋友を受け入れる必要性を意味していることは、公然と無関心のかなたに放置されているかのようである。しかし、多くの兆候は、こうした西洋世界の傾向が変化しなければならないことを物語っている。
 私にとって、数年前、鈴木大拙の著作に出会ったことは (それはきわめて偶然であった)、私的幸運のもたらす大進歩であった。私はここに、 「私的」 という面を強調するが、それは、私が東洋研究の専門家ではなく、また、鈴木の著作への私の関心は、それが、私自身の人生の問題に光を与えた――禅が西洋人に必要であった多くのメッセージを伝えていることの証明――からである。今日、仏教についての良書は数多いが、鈴木を、仏教関係の著者としてのみならず、広く現代宗教の著者としても際立たせているのは、仏教が2500年前のゴータマ 〔仏陀〕 の悟りの経験に始まって以来生き続け、今も発展しつづけており、しかも、生きいきと成長している、という見解に彼が立脚していることである。そこで、彼の著作の顕著な斬新さと活力がゆえに、もし読者が、彼の著作から仏教についての他の本へと進んだ場合でも、本来、西洋人向けに書かれたものではないそうした他の本にも、彼が生命を吹き込んでいることを発見するにちがいない。
 鈴木は、中国仏教に深く傾倒した経験をもち、インドの高踏な形而上的想像より、おそらく西洋人にはより同質的な、実用的で具体的な中国的視点に通暁している。一枚の絵は数千語を物語る、と中国の古いことわざが言うように、中国人の具体性についての天賦の才は、禅師のとなえる、逸話、逆説、詩歌となって表わされ、それ以外の表現をもたない。西洋人は通常、中国の哲学的、宗教的思想は、老子と孔子に代表されると考えがちであるが、鈴木は我々西洋人に、これら二人以外にも、それに匹敵する中国仏教の賢者を紹介している。鈴木の著作が、それ以外を論じていないとしても、ことに仏教史についての章より得られる知識は、事実上、彼の著作以外に知るよしもなく、我々にとって貴重なものであるはずだ。
 しかし、こうした古代の師匠たちは、現代の西洋人である我々に、何か述べるべきものを持っているのであろうか。私はその問いに、あまたある、と答えたい。その理由は、我々西洋人はほんの近年になって、東洋では幾世紀にもわたって認知されてきた生の真実性に、ようやく直面するようになってきているからである。もちろんこれは容易ならぬ提起であり、以下、分野別に説明する必要があろう。

 二元論哲学
 我々が西洋の伝統と呼ぶものは、ヘブライ 〔ユダヤ〕 とギリシャという、二大文明の影響によって形成され、双方とも、二元論的精神を特徴としている。すなわち、それらは世界を二つに分け、互いに対立したものとみなす。ヘブライ人は、その二分を、神的なものと俗的なものとする。現世を超越する神は絶対的にこの俗界から隔絶され、ゆえに、神と被造物、戒律と罪、精神と肉体、といった神のもとの二元論を基盤とする。
 その一方、ギリシャ人は、知性を基準に世界を,二分する。西洋哲学を単独で創設したともいえるプラトンは、現実を、知性の世界と感性の世界へと完璧に分裂させる――ホワイトヘッド 〔英国の数学、論理、哲学者、1861−1947〕 は、2500年間の西洋哲学はプラトンへの一連の脚注にすぎないと言う。そうしたギリシャ人の成し遂げた偉大な成果は、人間に、合理性の理念を定義したことである。しかし、そうしながら、プラトンとアリストテレスは、理性を至高で最も価値ある働きとみなしたのみならず、それを我々の個的アイデンティティーの中核とすら見た。
 だが、東洋人は、こうしたギリシャ人たちのおかした誤りに決して陥らず、むしろ理性より直観に重きをおいた。彼らは、人格の中核を直観的に把握し、理性と非理性、知性と感性、道徳と自然という対立関係を、むしろ統合してとらえた。西洋人である限り我々は、ギリシャ人に輪をかけた過度な二分精神の持ち主であるヘブライ人から、自身の一部に、非合理で説教じみた良心として、こうした二元論を引き継いでいる。だが、現代文化を体験するにしたがい、いろいろな領域で、そうした伝統は、ますます受け入れ難くなっている。

 宗教的密閉
 中世キリスト教は、ギリシャの理性観の上に存在していた。聖トーマス・アクイナスの世界は、アリストテレスの円筒形紙箱の世界と同じであり、それは余りに小さく整えられた全体世界で、あらゆるものがアップルパイ状にあり、神を頂く絶対的地位関係のなす論理と感覚の世界に密閉されていた。
 だが、そうした人間大の世界から、インド人の思考へと視点を移すと、我々は、最初、人間がいかにも微小で無意味に見え、無限の時間とおりなす空間のつくりだす、その巨大な宇宙にたじろかされる。そしてそれが、まさに現代天文学の世界であることに気付かされ、インド人の思考が今の我々にどれほど近いものかと覚される。
 著名なプロテスタント神学者ポール・ティリッヒは、現代人にとっての根源的な体験は、「無意味さ」 との遭遇であるという。すなわち、宇宙の膨大さに方途を失い、人間は、自身の存在や宇宙を 「無意味」 と考え始めるようになった。ティリッヒは、ニーチェに共鳴して、一神論でいう神は死んだと言う。理性主義的神学によって提供された神は、もはや受け入れ難いものとなった。
 中世カトリック教の視点 (いまだにその多くが生き続けている) によれば、仏教徒の考えの前提は 「無意味」 に見え、理解しがたいものであったが、そこには、我々現代人が飲み込まなければならないことに、はるかに近いものがある。

 科学の限界
 科学それ自体にあっても、今日におけるその発展は、我々西洋人が受け継いできた理性主義との結びつきを危うくさせている。つまり、西洋科学のもっとも進んだ分野である物理学や数学が、今日、逆説的なものとなりつつある。この両学問は、理性そのもののために、逆説を生じさせるめぐりあわせとなってしまっている。
 150年前、哲学者カントは、理性に避けがたい限界があることを証明しようと試みたが、心底まで実証主義的な西洋人の意識は、それが科学の分野のみでありうるとする以外に、そうした結論が導きうるとは真剣に考えなかった。
 実際、今世紀の科学は、ついに、カントに到達しており、物理学のハイゼンベルグと数学のゴーデルは、ほとんど同時に、人間の理性の不可避の限界を証明してみせた。ハイゼンベルグの 「不確定性原理」 は、我々の知ることへの能力や物事の物的状態を予測することに本質的限界があることを示しており、根源において非合理で混沌とした状態であることに、我々西洋人をして気付かせつつある。さらに、ゴーデルの結論は、ピタゴラスやプラトン以来の西洋の伝統において、数学が理性主義にもとづく最も絶対的な主張を成してきたことを想う時、いっそう途方もない結果をもたらしそうな気配である。
 いまや、その数学という最も精密な科学――理性が全知全能にふるまう分野――においてさえ、人間は自らの根源的有限性から逃れられない。つまり、彼の思考にうかぶあるあらゆる数学のシステムは、すべて不完全性の運命を負っている。数学は、大洋のまっただ中に浮かぶ、水漏れ (逆説) を起こしている一艘の船のごとくで、その水漏れはかろうじてはふさがれているものの、その船に他の水漏れが生じないとは、人間の理性によっては保障できないものとなっている。
 こうした人間の不確定性が、まさに理性の砦でもある数学において立証されなければならないということは、西洋人の思考にあらたな変化を発生させないではいられない。つまり、理性自身の逆説的性質をこそ、我々は認識の根源としなければならないのである。

 今日の哲学的状況
 こうした認識に向けて、今日の哲学者が、その道を歩ゆみはじめている。そのうち、現存する最も独創的で著名なヨーロッパ哲学者は、ドイツの実存主義者、マルティン・ハイデッガーである。ある日、ハイデッガーの友人が、こう私に言ったことがある。彼がハイデッガーをたずねた時、ハイデッガーは鈴木大拙の本を読んでおり、「もし、私がこの人物を正しく理解しているとすれば、それは、私のすべての著作をもって私が言わんとしていることだ」、と注釈したという。
 この注釈は、鈴木の書より刺激を受けたその感激を誇張したものだろうが、ハイデッガーの哲学は、その流れといい、その特徴といい、その基盤といい、西洋の中心をなすものである。そしてもちろん、禅にはないものがハイデッガーにあり、また、ハイデッガーにないものが禅にはあるのだが、そうした違いにもかかわらず、両者間の共通性には驚嘆するに十分なものがある。つまり、ハイデッガーの最終的な主張、すなわち、西洋哲学が巨大な錯誤であった、とはどういうことなのかといえば、それは、人間をして、存在自身の統合性からも、自分の存在からも切り離してきた、二元論的知性のもたらす結果であったということなのである。
 この錯誤は、(プラトンにおいて) 真実を知性にゆだねたことに始まり、よって、世界は感性と対立させられる客観物の世界となり、ついにその客観物は科学的、実用的計測によって操作されるべきものとされた。プラトンの知性主義に始まりニーチェの 「力への意思」 をへて今日の我々へと至る、2500年にわたる西洋形而上学の流れは、結局、地球全体への技術的制覇をもたらした。
 だが、自然の征服は単に、人間を存在自体と自らの存在から疎遠にしたばかりでなく、これまでに決して達したことのない、また決してそこまで狂ったことのない、力への意思をもたらすこととなった。「分割と征服」 は、この世界の存在自体に対し西洋人がとなえてきた根本原理とでもいうべきである。
 しかし、それは、力がゆえにのことで、もちろん、知恵がゆえにのことではない。この西洋の伝統はその使命の終末を迎えているとハイデッガーは繰り返し述べているのだが、と言うことは、すでに西洋人はその伝統を越えて歩みだしているのであろうか。そしてそれは、東洋の伝統へと向かっているのであろうか。私は少なくとも、西洋人とて、かなり禅に近いところへとやってきていると、確信している。

 外へ向かう芸術
 もし、科学や哲学におけるこうした現象が西洋における思考法の変化を意味しているとすれば、我々西洋人の現代芸術にあっても、感性の新たな道が開かれ始めているにちがいない。
 現代芸術の先端課題が何であるかはともあれ、明らかに言えることは、芸術の保守派にとっても、スキャンダルとか異色とされるものが、自身を代表していることである。我々の現代芸術は、表面上、余りに非理性的で、奇妙で、ショッキングなものを扱っており、それは、古く、より理性的な西洋芸術の規範を打ち破るものとされている。
 今世紀の西洋の画家や彫刻家は、従来の伝統の域を脱し、東洋、アフリカ、メラネシアといった、非西洋の芸術に自身の成長を託している。すなわち、我々西洋人が唯一の伝統としてきたものは、内部からの圧力によりその鋳型が壊され、もはや創造的芸術家を育てるものではなくなっているのである。西洋絵画は、自身を自らの力と活動の場であった立体空間から切り離し、また西洋人の外的志向を高度に支えた客観物からも分離させ、さらには、西洋人生活全体の向かうべき方向にも反し、主観物を主題とし始めているのである。
 それは単なる沈滞や反発や趣味の違いにすぎないものなのであろうか。過去、絵画での新しいスタイルは将来を予言するものがあった。文学の領域では、もちろん、作家は新しく、革命的なものに饒舌であり、冷血な理性主義に歯向かうD.H.ロウレンスといった小説家を見出した。彼は、もし、おせっかいで意識過剰の知性人が西洋人を自然や現実の性的結合の可能性すらからも回復不能にも切り離してしまうのだとすれば、彼の 「非知性性」 と呼ぶものと、そういう 「非知性的」 となることの必要がある、と主張したのである。
 実に異才であるロウレンスの 「非知性性」 には、禅が千年前に創り上げた 「無心」 の考えに通ずる、模索する直観が見出せる。しかし、ロウレンスと異なり、禅の師匠たちは、原初主義や血肉への崇拝に陥ることなく、この考えを発展させた。ともあれ、忘れられてはならないことは、ロウレンスの主張は、こうした禅師たちがなしたことに何らの貢献もなさなかったことで、彼はただ自ら抱く暗闇の中で模索し続けなければならなかったことである。
 そこで、こうした限界を越える文学上の実例を挙げれば、今世紀の英語で書かれた最も注目に値する作品は、おそらく、ジェームス・ジョイスの 『ユリシーズ』 である。これは、心理学者C.G.ユングも、白い肌の人々には待望の聖書であると推薦する、実に東洋的な作品である。ジョイスは、「美しい」 ものを、「みにくい」 あるいは 「きたない」 ものと永遠に分離する、ジョージ王朝 〔1714-1830〕 の美学を粉砕してみせた。 『ユリシーズ』 は、東洋の心のごとく、明るさと暗さ、美と醜、崇高と陳腐、といった対極物を一体化してとらえることに成功した。この作品の精神的前提は、二分割を行わない生きかた――清教徒的であろうと美学的であろうと――が実行可能であるということの受け入れであった。

 新たな世界を求める西洋
 以上に述べた、科学、哲学、芸術といった項目別の議論は、各々を網羅したものではないが、それはもっと拡大が可能である。そうではあるのだが、それらが、きわめて 「偶然性」 に支配されたものであることは明瞭にしておかなくてはならない。だが、そうした諸現象が平行して進み、同時的に様々な分野で高密度で発生する時、それらはもはや 「無意味」 な 「偶然性」 の産物とは考えられず、意味をもった関連性として、西洋がそれなりの深さをもって新たな事象を体験し始めており、事実上、その対極物を体験し始めていることを意味する。こうした新たな局面にあたって、禅といったものについての関心は、もはやげすびた異国趣味として非難できず、精神の毎日の栄養源として取り扱われるべきなのである。
 こうした変化のすべてにかかわる実に重たい逆説は、我々西洋人の文化の奥底あるいは上層でおこっているもので、その中間においては、すべてが通常のままで進行している。芸術家、哲学者、理論科学者らの発見にもかかわらず、実はそうでないながらも、依然として西洋は、その社会的あるいは外見的生活においては、いかなる意味においても、いかにも西洋的である。交通や新製品は洪水と化し、アメリカ式生活様式 (他ではロシア式様式) は世界に蔓延し、生活をより物質化する技術は巧みで狡猾なものとなっている。
 あらゆる事象において、それが示すものは、なんという矛盾の産物である西洋人たることか。そしていまや、その西洋人は、自らの技術によって、水素爆弾も手にしており、このあやうい被造物は、その自分自身や自らの惑星をも破壊しつくす力さえ保持している。単純な常識は、彼らに、もう少し内省的になるよう促しているかに見える。


                             
 2.

 以上の考察のどれとても、それ自身が直接、禅に関連しているわけではない。そればかりか、禅がよくそうするようにつっけんどんに言えば、禅も何ひとつとしてそれに関連していない。
 西洋のものは、哲学、文化、科学、そしてその他の、知性の複雑な抽象性をあつかい、他方、禅が追究するものは、知性化のもつれ合った複雑性を越えたところの、具体的で単純な何かである。そして禅自身、具体的である。禅は抽象化を避け、たとえそうするとしても、その向こうに達するためにそれを用いる。
 禅は抽象性に対峙することを宣言するにあたっても、それを具体的に述べる。すなわち、偉大な禅匠、徳山が悟りに達した際、概念では十分ではないなどと、色褪せた風には述べなかったばかりでなく、彼は自分の哲学の書物すべてを焼き捨てながら、 「抽象的な哲学による我々の理解は、宇宙の膨大さの中の一本の髪の毛のごときだ」 と述べた。西洋人読者は、このイメージをしっかりと脳裏に焼き付ければ、その要点を見逃すことはなかろう。
 また、別の禅師が、生自体のなぞに答えるに等しい公案に解答する難しさについて注釈した際、彼は、ただ難しいとか、たいへんに難しいとか、ほとんど不可能だとかと言うのではなく、 「鉄の雄牛を刺そうとしている蚊のごとくである」 と答えた。このイメージは生きいきとしており、概念化をこえた意味を与えている。

 具体性の世界
 そこでこの表現の具体性についてであるが、こうした、イメージと実例のほとばしりは、すぐれて抽象的文化の産物である西洋人にとって、禅の理解を助けるものとなっている。しかし、それらが、禅師によって採用された表現上の技巧とか装飾にすぎないと西洋人が受け止めるのであれば、それは誤りというべきである。むしろ反対に、禅の言葉は、根本要素を抽出するものであり、その表現様式にこそ味噌がある。とりわけ、禅が、理論でなく事実に、また、西洋人が概念と呼ぶ真実性の薄い代替物にではなく真実性そのものに焦点を定めるがゆえに、禅は自らを具体的に表現する。
  「事実」 は、西洋人にとっては、数量的かつ統計的――従って生気を欠き抽象的――なものである。この意味で、もし西洋人が禅に名を付けたいとするなら、 「ラジカル直観主義」 とも呼称できよう。しかしそれは、ベルグソンのような直観の哲学 (概念化された知性が真実性に到達しないという点では彼に同意するが) というのではなく、それ自体の働きにラジカルな直観が伴うというものである。ラジカル直観主義とは、考えかたや感じかたを生きて動いているものとし、それを直観を介して把握するものである。
 直観の眼ともいうべき第三の眼をもって世界を見るという意味では、我々西洋人はそれをまだ知らず、いまだ二つの眼をもっているにすぎない。従って、禅にとって、ある感覚上の真実はこの第三の眼を目覚めさせるものであり、禅の表記にあっては、いかにも地味な対象についてさえ驚くほどの彩飾の数々に遭遇し、我々は目を見晴らされることとなる。そもそも、すべての言葉は何かを指すのであるが、西洋では、言葉は、言葉の域を越えて指すために、つまり具体性を越えた概念を指すために用いられる。
 ある禅僧が禅師に 「道をえるにはどうすればよいのですか」 と問うた際、師は山の湧き水を指差して、「水音が聞こえるか。そこよりえよ」 と返答した。また禅師と禅僧が山中を歩いていた際、禅師が、「月桂樹の香りがするか」 と問うた。 「いたします」 と禅僧が答えると、禅師は 「そこに私は何も隠すべきものをもたぬ」 と答えた。

 哲学を超える哲学
 禅は、単なるアイデアより生きた事実の強調において、仏陀の教えの根本に従っている。仏陀は哲学にはあまり関心を示さず、当時、すでに63の学派があったとされるが、彼は、その議論を聞くたたびに、人間精神がいかに知性の迷宮の中に閉じ込められうるかを目の当りにした。
 このように、禅は、その背後に大乗仏教の偉大な哲学を従えてはいるが、それ自身、哲学ではない (西洋人読者はよく認識する必要がある)。仏陀は、哲学者に対峙するところから出発しているものの、その歴史のなかで仏教は、かつて存在しなかった偉大な哲学者を輩出してきた。
 これは、その創設者の精神とは矛盾することであるのだろうか。そうではなく、仏教哲学者は、西洋哲学者とはまったく異なった目的において活動しているのである。つまり、仏教は哲学を哲学者が概念の牢獄から脱出する道具として用い、哲学はあたかも、非哲学、あるいは、脱哲学させる哲学であるかのようである。
 仏陀とプラトン――東西の最も傑出した偉人――の両者の精神を比較すると、東洋と西洋が決定的な点において、いかに明確に異なっているかが理解できる。プラトンにとって哲学は、人間をより低位の世界からより高位の世界へと、そして、感覚の世界から思索の世界へと導き、その後者の世界に人間を釘付けにさせる学問である。一方、仏教において哲学は、知性を超えて、分割不可能な統合性である、ひとつの真実の世界へと人々を導く。禅では、哲学のこの視点を前提とし、実用的で具体的な中国風の流儀でもって、単なるその繰り返しを克服し、真実へと到達するためにそれを使用する。

 真実性の把握
 この生きた事実への着眼は、そのずば抜けた真実性において西洋人を驚嘆させ、禅師のあらわす質の根拠を説明している。
 「老子とは何ですか」 と門弟が問うた時、禅師は 「お前の日々の心だ」 と答え、さらに続けて、「腹がへれば食い、疲れれば眠る」 と言った。門弟は意味がわからず、それは他の人たちがしていることと違うのかと、さらに問うた。禅師は、否、と言い、おおくの人々は、自分がなすことの主人であることはなく、食べている時ももろもろの夢想に心はうつろとなっており、眠っている時も眠ってはいない、と答えた。
 全き存在にまで統合された人間のもつ証は、分割された心を持たずに存在していることである。この禅の真実性の精神は、別の逆説的な説話にも表されている。すなわち、「人が禅を学ぶ前には、その人にとって山は山であり、川は川であった。禅を学びはじめると、もはや山は山ではなく、川は川ではなかった。しかし、いちど悟りの境地に達するや、ふたたび、山は山となり、川は川となった」。
 悟りのための困難な努力の話は、禅師の真実性の精神がたやすく達せられるものではないことを我々に伝えている。彼らは、日常生活のありふれた事柄に唯一で統合されたものを取り戻そうとする、山を越え、川を渡り、水や火をくぐる精神を持った畏怖に値する人々である。西洋が創造したこれにもっとも近い例は、私が知る限り、キルケゴールの 「運命甘受の騎士」 と 「信念の騎士」 の間の、みごとな対比である。すなわち、前者の空騒ぎとロマン主義は永遠を求めて決して有限の棲家にはなく、一方、後者は、徴税人のように無味乾燥で現実本位ではないとしても、確固とした存在基盤に立つ。しかし、日常の現実に直接で媒介をへない存在という考えは、気の毒なキルケゴール――自身の知性の媒体化と昇華に一生をかけて懸命に闘った――が追求し、決して実現しえなかったものにすぎない。

 神秘主義とは異質
 この真実性への無媒介な結びつきを求める努力において、理性を超えた悟りという教義は言わずもがな、禅自身も、神秘主義の一形態と見なされるうる。しかし、禅は、西洋人が言う神秘主義とは異なる。神秘主義者とは、ウィリアム・ジェームスが 『宗教的経験の諸相』 に定義しているように、高度な真実性との直接の一体性を得るために、自然あるいは感覚世界の壁に風穴を開ける人のことである。
 
プラトン以降、西洋の著名な神秘主義者はこの定義を踏襲してきたが、それは、禅の立場――こうした神秘主義を、真実性を上下二つの世界に分割する二元的思考として否定する――とは異なっている。つまり禅にあっては、上も下もひとつの世界であり、鈴木が本書に示す禅の悟りの記述には、いかなる意識のくもりも、西洋の神秘主義者に見られる恍惚状態や半幻覚状態も生じていないように認められる。また、神秘主義にもっとも接近した領域においてすら、禅は高度な真実性を貫いている。
 また禅は、 「仏陀性」 がいたるところ――乾いた土間にも、田舎のイトスギの木にも、などなど――に見つけられるという表記が多い禅の書物にあっても、いわゆる汎神論といったものとも混同されるべきではない。汎神論は、自然を支配する神と、神のまとう特異な衣服としての自然自体という分割に立っている。つまり、これもまた、禅が排除する二元論のひとつである。

 精神疾患治療への適用
 西洋が言う哲学でもなく、神秘主義でも、汎神論でも、まして一神論でもなく、禅は、ある段階の読者にとって、すべての実用的価値に貢献すべき、絶妙さと含蓄の世界、と受け止められるかもしれない。
 だがむしろその反対に、現代において、禅の実用への最大の適用が、哲学者や芸術家によってではなく、二人の臨床精神科医、C.G.ユングとカレン・ホーナイによってなされており、二人は、精神疾患の治療への可能性として、禅に熱心な関心を寄せた。
 ユングは禅について書き、カレン・ホーナイは死ぬ前に日本を訪れ、自ら禅寺に行きその修行生活を観察した。ユングを禅に引き付けたものは、注目すべき禅の心理的全体性の追求であった。ホーナイも同様なものを見出したが、それは、彼女自身の心理学用語でいう、理想化された偽りの自己のイメージもなく (禅師がいう 「あるがままの自分であれ」 )、また、家族とか社会集団とか教会とかといった外的支えぬきに自己実現をはかる (悟りに達した禅僧が禅師黄ばくに落胆して、「結局、あなたの教えには大したものはない」 と言うと、禅師は、これで彼は自立できると喜んだ)、といった発見であった。
 鈴木の本に書かれているように、確かに、禅師は、強固な一体と化し完璧に自分自身となった個人といった強い印象を我々に与える。そして西洋人としてもっとも信じ難いことは、自分自身を取り戻そうとの禅の修行者たちの持つ欲求が、「宗教」 によって形成されることだ。

 西洋にはありえない安らぎ
 西洋の宗教は、常に、信者に、わずかで、きわめて限定的な安らぎをのみ与えようとしてきた。言い換えれば、信者の忠実な信仰や従順さは、その人をむしろ、心理的な貧弱さに陥らせてきた。その理由は、西洋の宗教は、常に、宗教的目的をその信者自身の外部――この世を超越する神、モーゼの掟、教会、聖なるキリスト像――に定めることに専念してきたからである。西洋人は誰も、自分たちの宗教が、禅師が門弟に 「仏陀の名を口にするような口は捨て去れ」 と言うように言うなどとは、どうしても想像できない。そういう意味で、禅は自分主義的で、偶像破壊的で、二律背反的であり、西洋人には、ありえないこと、と映る。しかし、これが可能なのは、禅が、自分が自分自身に帰れるよう、個々人に裸になれと望むからであり、最終的には、仏陀のイメージにすら頼るな、と説くからである。
 厳密に言って、これこそが禅の持つ世界であり、西洋の宗教とは対極を成すものである。だからこそ、我々西洋人は、それを学ぶ必要があり、西洋の歴史の流れ――偉大な世界との中世宗教のイメージは、もはや我々の脳裏から遠ざかり、しだいに我々をこの世俗化した社会に没入させている――が、西洋人をしても裸にさせてはいるが、頼るべき確固とした平安を失わせた裸でしかない。ここに、仏教が 「無」 とよぶものは何なのかという、西洋人たる我々を畏怖させ、立ちふさがる疑問がそびえ立つ。だが、もし、我々がそれを恐れて逃げ出せば、この偉大な 「空」が、あらゆる形の奇跡を花開かせ、天と地は再び調和し、かつての栄光を苦難なく復活させることは永遠にないだろう。

 生きた真実に触れる
 禅とは何かについては、このイントロに続く鈴木自身のページに任せるが、私が提示してきた否定的警告や着目点は、理解への道よりそらすよう意図するものではなく、ただ、私の初期の誤解による失敗によるものである。だが、私には最後の懸念がある。それは、私がそうであったように、理解に達する前に経験するもので、読者も抱くものではないかと案ずるものである。すなわち、仏教は西洋人にとって、疎遠なものとして永遠に退けられていてよいものなのではないか? 何かがふさわしくないため、自分のものとできていないのではないか? 禅が決して根付かなかったように、我々西洋人の特性として何かがあるのではないか?
 これらの問いは抽象的、教条的疑問ではなく必然的なもので、採り上げられるべき生きた真実の問いである。そして、そうであるからこそ、禅自体でもそれを追究している。こうした問いは、想像上の禅師が、あたかも、棒を振り回しながら私を脅し、「さあ言え、さあ言え」 とせいているかのように、私の脳裏にこびりついている。
 そこで言うのだが、禅は、洋の東西にかかわらず、あらゆる宗教における生きた真実であるとし、やや控えめにでも、禅は、すべての宗教の生きた真実に触れている、と説く鈴木に私は同意する。本書の読者にとって、こうした問いが仏教を信ずることに結びつくことはまずないだろうが、それは、禅が、その程度の重要性でしかないということを意味するものではない。西洋人は、禅より生きた影響を受けることがどれほどわずかでも、それに結び付けられ、二度と同じ自分ではなくなるだろう。
 最後に、禅師法演の美しい言葉を紹介したい。
 水を手で掬えば月その水面にあり、花を手にすればその香、服に残る。
 
 【訳注】 ウィリアム・バレット (1913−1992) は、哲学者、批評家。ニューヨーク生まれ、コロンビア大学に学び、1950−1979 ニューヨーク大学で哲学を教えた。著書に、Irrational Man (1958), The Illusion of Technique (1979), Death of the Soul (1986) などがある。
 〔 〕 内の注釈、小見出しは訳者による。

 (翻訳 松崎 元、2007年6月3日)

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