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   修行第十一風景


 オーナーが変わってから、しだいに店は、ある種の国際化の様相を見せ、メニューの日本語の少々風変わりな発音とともに、やりとりの日常会話が、ともかくの英語となってきています。それに、英語は誰にとっても第二言語で、それぞれにお国なまりを残しつつ、時にこっけいな、時に深刻な行き違いを発生させながら、それでもなんとか店は回転していっています。
 私は、こんな、ごっちゃ煮のような、どことなく洗練されていない下町風な雰囲気が、嫌いではありません。お客さんを除いて、従業員の全員がアジア人たちであることが、そんな空気をかもす要因なのでしょうか。それとも、オーストラリアの国是である、マルチカルチャリズム=多文化主義とは、こういうことであるのでしょうか。

 今回の話題は、そうした生な店の状況から少々距離をおいた、やや思考上の世界の話です。

 いきなりですが、人間の生活の三要素として、衣・食・住があります。
 私は、人生の一周目では、この三要素のうち、建設という、「住」 に関連する職業に主にかかわってきました。それが、人生の二周目に入って、このかかわりを、 「食」 に移そうとしているところに、この 「修行」 のさわりがあります。
 ところで、幾度も触れてきていますように、私が店で接する “同僚” たちは、彼ら彼女らにとって私はその親の世代で、他方、私にとっては、彼ら彼女らは息子、娘たちです。こうして日常的に存在する世代ギャップは、それなりに興味深い対比や刺激をもたらしてくれます。
 人間、生まれる時も死ぬ時も、ともに一人だとしますと、人生の入り口と出口では、いずれも孤独な姿が通常ということであり、その入り口と出口にはさまれた中間部で、家族だの、学校だの、職場だのと、集団の花盛りということになります。
 そういう意味で、この世代ギャップとは、その花盛り部から出ようとしている者と入ろうとしている者とが、その出入り口で、互いにすれ違っている状態とも言えるわけです。方や、その花盛り部の経験者として大先輩面をし、方や、素直そうなふりをしつつもなかなかしたたかに、そこに入ってゆこうとして。

 そういう親子ほどのすれ違い同士が、店という場において、いずれもが修行中であり、そこにあっては、皆は同じ方向を向いて、互いに切磋琢磨し合っているという共存があります。
 ただ、こうした向きの違いがもたらす起伏は確かにあって、彼らが取り組んでいるのは 「職業訓練」 としての修行であるのに対し、私の場合は、その要素も含ませつつ、さらに、 「道楽」 の要素、つまり、自分の楽しみのためという狙いも多分に織り込まれています。
 この私のようなリタイア世代が、絵に描いたような悠々自適世代であるなら、後者の 「道楽」 の要素の独壇場となるはずでしょうし、また、もしそうなら、私は修行に出る動機はもたず、料理教室にでも通えばよかったわけです。そこではもちろん、ご同輩との出会いはあっても、上記のような、すれ違い同士といった刺激は発見できなかったでしょう。
 したがって、私はいま、こうした 「職業訓練」 と 「道楽」 との共存を、ある、確かで積極的な意味において、それをとらえようとしています。
 つまり、 「職業訓練」 とは、若い世代が将来に向って、生きるすべを獲得するためのものです。せんじ詰めれば、収入というお金を得るための手段の獲得です。
 一方、 「道楽」 とは、それをすること自体が楽しみであることで、お金の獲得などは考慮外の行為です。
 ところが、 「趣味と実益をかねる」 などという言葉や、 「自由業」 といった職業が、ある種の憧れの理想像につらなっているように、生きる現実とは、この両立ができない、断念せねばならない世界のことである、との暗黙の前提があります。
 ここでは詳しくは触れませんが、その前提とは、お金という便法を基本に、分業の発達がもたらしてきた分化の産物で、本来、つまり、昔々には、そのようには分かれていなかったものです。
 すなわち、この花盛り部とは、この分業をフルに引き受ける時期のことであり、そこへの入り口と出口の外側では、現実にあっても、その分化が大きく緩められているのです。
 たとえば、この私の修行を、もし、それなりの企業、つまり、花盛り部の主役、で行おうと希望したとします。その場合、はたして、そうした企業の募集条件に、私のようなケースが当てはまるでしょうか。もちろん、最近、「再雇用」 といったカテゴリーで、一種の定年延長がはかられているのは承知しています。しかしそれでも、それは、既成制度の根幹は揺るがさない、微調整の域を越えてはいません。
 その試みを、このオーストラリアというある意味での辺縁部で、やってみての発見ですが、こうした、近代的企業組織では無理で、寿司修行という職人の世界でこそ可能であった、との道がここに存在していたわけです。そして、この一種の過去の世界の可能性に、私は注目しています。つまり、そうした新しい組織からは敬遠されながら、そういう古い組織では受け入れられという、そうした隙間が現にあり、そしてそこにおいて、上記のような異世代共存とすれ違いの刺激が起こりえていることです。
 近代企業組織が、人生花盛りの時期のヒーローであるはやむをえない必要とはしても、二周目というポスト花盛り期においては、確実にやってくる人生そのものからの退出をも展望した、高齢化時代ではもはや長期的な取り組みは避けられず、それだけに、自分に合った (つまり自分中心の) 旅支度を、いずれにせよ、せねばならないことであります。
 それが、こうした、古くもっとも生活くさい 「食」 の分野を糧になされつつあるというのは、なかなか、 味わい深いことであります。

 (松崎 元、2008年1月13日)

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