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両生学講座 第33回


       無限入れ子状の両生論


 今回の講座は特別な講座となりそうです。
 というのは、 「両生空間」 の 《中枢神経》 もしくは 《語り部》 の役を果たしてきているとでも言ってよい 「両生学講座」 ですが、その33回目の今回、いよいよ当講座も熟してきまして、その分身を生み落としました。別記事にありますように、新たなサブサイト、 「私共和国」 の誕生です。
 この世代進化は、一種の精製プロセスとも言えるもので、生にまつわるあらゆる事象を含んで錯綜していた 「両生空間」 を、想像(形而上)と現実(形而下)という二つの成分において 「精製」 し、想像の度合いの高いものを 「両生空間」 が扱い、それ以外を扱うのが 「私共和国」 となります。いわば、 「両生空間」 が文芸誌、 「私共和国」 が総合誌、といったイメージで考えていただければいいかと思います。
 読者におかれては、何をあえて複雑にするのかと、困惑のことかとも思われますが、私にとってはたいへん重要な発展であり、生命体に自然な世代発生です。確かに一見、複雑化してゆくのはその通りなのですが、この世そのものもなかなか入り組んでおり、それに有効に噛み合うためにも、技巧的にも、そのような装置が必要となってきたものです。ともあれ、それがどう役立つかは、今後の働きとその成果品にご期待いただくとして、以下、もう少し、 「両生空間」 の 《語り部》 を続けさせてもらいます。

 この進化によって、別にことさらに意図したわけでもないのですが、私として、いよいよ、文学といわれる分野に、首をつっこんでゆくことを意味しそうです。そしてそれは、たしかに、こうした二つの装置ができあがったことによる効用です。
 また、従来の両生論に立って言えば、 「両生空間」 と 「私共和国」 が共存することとなり、 「両生空間」 自体が、さらに高次の両生視野によってさらに 「両生される」 ことになると言えそうです。
 そういう次第で、私の心理としては、何か、より自由にものが書ける場所に至ったような気分で、その証が、新連載として始まった小説風物語 「相互邂逅です。これは、私としては初めてのこころみで、全体の構想も充分立たないままともかく書き始めたチャレンジです。この先うまくゆく展開してゆくものやら、正直いって、こわごわの心持ちです。

 そこでなのですが、いま、不思議な現象を発見しています。というのは、上にも 「高次の両生視野」 と述べたように、こうして新 「装置」 を “発明” すると、その主としての私は、その 「発明」 と同時に、自分がさらに、それらの諸装置の統括者に引き上げられてゆくのを見出さざるをえません。言いかえれば、先月号の 「どちらの声か」 に書いたように、 < 「我思う、ゆえに我あり」の 「思う我」 (コギト) は、いかんともしがたく確かにそこにあり、その中核性は否定のしようが> ないのです。
 以前、私は、こうした現象を、数学の桁上がりにたとえたことがあります。その 「 桁上がり」 がどのくらいの頻度でやってくるのかは解りませんが、生をつづけている限りそれが尽きることはなさそうで、そういう意味で、無限の入れ子細工――繰り返される桁上がり運動――でもあるようです。
 またこれを、両生学の原理である 《視差》 の観点で言えば、原初の地理的、あるいは物理的視差が、しだいに成熟、高次元化して、想像(形而上)の視差――いうなれば、視差の視差――の度を高めてきているのは確かです。そしてその結果として、上に述べたような、「文学」 の領域への参入がおこってきたのだと思います。また、そのようにして現実との関わりを委ねておく場の設置を得たがゆえに、晴れて、自分の自分たるものが――原住民の自治、独立の獲得のごとく――、純度高く抽出できる環境を得たとも言えそうです。

 そのようなわけで、両生学がひとつの方法論としてかなり広い適用性をもっていることの確認にも到達し、両生学講座としては、今回で、ある使命のサイクルを閉じようとしていると見るのが妥当のようです。そこで、次回からの本講座は、その第二期として、新たな角度からの視点をとりあげてゆきたいと構想しています。

 (2008年7月14日)

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