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連載


         相互邂逅


                    1

 僕のアパートの寝室に、ひとつの箱が位置している。ミカン箱大の段ボール箱で、この三月、日本からあるものを入れて船便で送っておいたものだ。僕の帰宅よりひと月ほど遅れて到着したその箱は、ほかの場合ならさっそく開けられ、もう空箱として処理されていてもよいのだが、この箱に限り、妙な存在感をもって、中身とともにそこに置かれたままとなっている。

 その三月なかば、僕は三年ぶりに日本に帰った。
  「帰った」 と表現しても、そこにある違和感が伴う程オーストラリアに長居し、かといって 「行く」 と言ってもまた別の違和感がおこってしまう、僕のような長期脱国者の、二週間ほどの日程の “移動 だった。
 この 「移動」 には、久びさの日本でもあり、少なくない目的を伴っていたのだが、そのひとつに、新潟行きがあった。
 三年前のやはり三月、もう十年以上もオーストラリア大陸の両端、シドニーとパースに別れて暮らしてきた妻と日本で再会し、二人で中野の区役所を訪れ、離婚の手続きをすました。手続き後、僕たちは中野駅前のショッピング街の小さな定食屋で昼食をとった。忙しげにランチをすます客たちに混じって、カウンターの一番端に並んで座った僕たちは、注文した焼き魚定食を、まるで何かを記念する宴食かのように改まった気持ちで食べていた。
 新潟とは、その「元妻」の実家のことで、代々の稲作農家であった。

 二十四年前の十月、二人で日本を後にしオーストラリアにやってきた際、まさかこれほど長い滞在になるとは予想もしておらず、とりあえずの積りで、貧弱でもなけなしの自分たちの家財を、その実家のお蔵の一角を借りて保管してもらっていた。
 だが、二人の夫婦関係がそれなりに清算された以上、その共同の荷物をいつまでもそこに預け放しにもしておけないとの判断で、この新潟行きとなっていた。
 その朝、東京駅をたち、新潟駅で新幹線から在来線の列車に乗り継ぎ、昼前、元妻の実家のある地方駅に到着しようとしていた。
 雪国の新潟とはいえ、三月中旬ともなれば里雪も消え、背後の山々に白い山肌を残しているのみだった。
 列車が速度を落とし、その駅に接近していたその時だった。突然、僕の脳裏に、三十数年前、まだ二十代中頃だった時の、あるシーンがよみがえってきた。
 たしかまだ寒い季節だったはずだが、僕はその娘さんと結婚をする決心をし、その許しをご両親に請うため、上野発の夜汽車にのって、早朝、その駅に到着しようとしていた。
 寒風にさらされた客車のデッキは、汽車の油煙と便所の臭いとが入り混じっていた。その時もこの時も、僕の乗った列車からこの駅に降り立ったのは、僕と、ひとりかふたりの乗客のみだった。
 今、三十数年の歳月を隔てて、駅周辺のたたずまいは大きく変わっていたが、その閑散とした駅前広場の風景は相変わらずだった。
 都会育ちの僕が、子供の頃よりあこがれていた「いなか」であり、給与生活者の二代目でもある僕が、土や天の恵みをとして生活する家族の一員に加わったのがその地であった。そういう僕にとっての異体験の世界に、関わりはじめようとする時と、ひとつの時代が終わろうとする時の、二つの断面の交錯であった。
 かってはすねた高校生で、都会からやってきた僕に一種の敵意すらこめていた元妻の弟が、いまでは二人の子供を育てあげた跡取り親父となって、寡黙ながら親しげに僕を迎えに来てくれていた。
 ひさびさに訪れたその実家は、「おとうちゃん」 と呼ばれる 「義父」 はもう幼児同然にまで痴呆してしまっており、気丈夫であった 「義母」 は他界してもう久しく、幾世代にもわたって引き継がれてきた風格あるその家屋敷にも、ある荒廃の気配が漂っていた。
 米作りという主たる生業もいまや脇役に退けられ、都会の家族のように夫婦共稼ぎによって営まれているその家は、広い土間もかっての作業場としての活気や乱雑さは消え去り、寒々とした物置場に変じていた。
  「義弟」 がかぎ状の金棒をお蔵の扉の四角い小穴に差し込み、その古風な鍵を開錠して重い扉を開けてくれた。ネズミ返しが付いた高い敷居をまたいで蔵の中に足を踏み入れると、かび臭さと湿気によどんだ空気が、僕たちが放置していたその歳月の意味を語っていた。
 ほこりよけに覆ってあった段ボールを取り除くと、見覚えのある家具類が姿を現した。その時、この三十数年間、すっかりと僕の意識から消え去っていたそれらの各々が、まだ生きて使われていた頃の生活の一駒ひとこまがよみがえってきて、ああ、そんな時代の自分があったのだと、あたかも時間を隔てた二人の自己を同時に体験しているかのような、時空間のよじれ現象に出会っていた。
 しまい込まれていたそれらの家財を、一つひとつ庭の明るみに運び出した。するとやがて、その頃の僕らの生活を彩っていた品々がお蔵の前の庭一面を無秩序に埋め尽くしてしまい、まるで、なにかのひどい災害によって、屋根や壁が吹き飛ばされて家財が露出した被災住居の現場に立ち会っているかのようであった。
 そうしたひとりの被災者のように、それらの一品々々を手にとり、梱包されたものはそれを開いて、過ぎ去ったその日々の追憶にひたってみたいという願望と、そして、その忘れられていた時代への敬意と愛着を取り戻すべきだという義務意識に僕はとらえれていた。しかし、その二週間の予定によれば、その過去の家財の“始末にあてられるべき時間は、その日の午後と翌日の午前中だけでやっとだった。その限られた時間と、作業に要すだろう時間をあらためて対照してみるまでもなく、そうした追憶や義務に費やせる暇なぞ無いに等しかった。
 僕は、ひとつの最重要な目的物を回収すること以外は、命令された兵士のように、ただ黙々と始末作業に没頭すべきであった。そしてその通りに、僕は
もう一人の自己を抹殺するかのように、その懐かしい品々冷徹かつ能率的に、自らの手によって処理していった。そして、その日に一回、翌日にもう一回、「義弟」 の手を借り、それらの品々を 「軽トラ」 に満載してその地域のごみ処理工場に運び、いっさいを焼却処分にふした。そして、作業をそう続けながら、僕は、そうせねばならない事態の成り行きに、一抹の理不尽感を見出し、それがある道理へと変ずるのを感じていた。
 そうした初日の、早春の早い日の入りの迫るころ、引き込まれた電灯に照らし出されて、蔵のすみに積まれた箱や束ねた本類のなかに、見覚えのあるミカン箱があるのに気付いた。その上面には「元ノート類」と記されていた。庭に運び出し、さっそくそれを開いてみた。カビ臭さがその紙面にまでもしみ込んだ大学ノートが30冊ほど、梱包から解放されて夕暮れの弱光にさらされた。高校時代の末から三十代半ばの渡豪寸前まで、二十年近くにわたる僕の日々をつづったノートである。
 懐かしさに突き動かされた僕は、作業手袋のまま、一冊のノートを取り上げそのページを開いてみた。その瞬間、そこに生じたことは、まさかそうした意味合いを持つことになるとは、その記録の当時はおろか、新潟行きを決心したこの際にでも予期していなかった、ふたりの僕同士の相互の出会いであった。一方は、若かりし頃の僕と、そして他方は、その若き筆者の数十年後の自分自身という。
 翌日、このノート類の海外発送を含め、すべての始末作業を完璧に終わらせ、その、僕の人生に立体感を添えてくれた地を、いよいよ後にする時が来ようとしていた。深まる感慨にとらわれつつ再度駅頭にやってきた時、見送りにきた 「義弟」 は僕に 「これからもこれまで通りに、いつでもここにも来てけれ」 と、そういう僕の心境に再考を願うかのように告げたのであった。

 つづき
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