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 私共和国 第3回


        もうひとつの記憶


  母が心不全で亡くなる前、痴呆症で、人にして人にあらずとなって他界した父とは違って、意識もしっかりとし気力も旺盛であった母が、それでもやはり、あるいはそれだから自分の死期をさとったのか、持続したうつ症状に陥っていた時期がありました。
 その時、老人臨床心理を専門としている友人の手助けをえて、 「回想法」 という療法をもちいて症状の軽減をはかってもらったことがありました。
 この療法は、老人が自分の行く先を悲観してうつ状態に引き込まれている際、対話をつうじてその人が若い頃の記憶を語ってもらうことを契機に、その人が生きいきと活躍していた頃を思い起こさせ、その輝かしい自分を再発見することを方法的目的としています。そして、そうして引き出された回想が、生きている意味を見失いかけている心理の再活性化の刺激となり、うつ症状の改善へと働くのです。
 母の場合も、その効果が明瞭に現れたばかりでなく、私たち子供が知らなかった母や父のなれそめのエピソードなどを知る機会ともなりました。また、その友人がその対話を録音して記録としても残しておいてくれたため、今でも亡き母の肉声を聞ける貴重な遺品となっています。

 私たちの日々の生活やましてそこでの意識は、どうしても現在の眼先のことに気をとられがちで、自分の人生の意味についても、その時間的な流れの一断面である現在においてしか、それを受け止めにくいきらいがあります。
 考えてみれば、現在という断面は、過去の結果であり、同時に、将来の原因でもあるわけで、そういう意味では、時間の流れを加味しないでその断面だけの意味をさぐっても、映画の静止画面を見るようで、それは無意味でもあります。
 そうした時間軸にそって働くのが記憶という私たちの能力ですが、それについても、とかく断面的に、物量的なそれが問題とされ、あたかもコンピューターの記憶装置のごとき記憶力がとりざたされたりしています。しかし、私たちの生活とは、各々の現在という断面の連続体としての時空間でおこることで、その記憶は、そうした数量的能力を上回る何かにもおよんでいます。感情をも含むその計測不能な容量を記憶し、また、思い出し、かつ想像する働き。それは、たんなる記憶装置を凌駕する、人でこそなせるわざです。

 (2008年8月14日)

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