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 第二期・両生学講座 第5回


私的「唯脳論」序説


 私は、書くことを、大変楽しみながら、それに精を出しています。
 若きころのノートは、楽しむというより、毎日のあがきを、そう何かに表現しないではいられなかった、そうした吐露、表白でありました。
 この、 「あがき」 や 「吐露」 と、現在の楽しむ書きものとの差をつくっているのが、まあ当たり前のことですが、この間、約三十年の経験です。
 最近、世間に 「唯心論」 あるいは 「唯物論」 ならぬ、「唯脳論」 とやらが盛んなようですが、この流行りに便乗して言えば、この経験とは、それが、私の脳に蓄積された情報量がゆえにのものであるようです。
 ただ、脳とは、そうした量たる情報の蓄積場所であるばかりでなく、むしろ、そこが脳の脳たるところのようですが、そうした情報の無限な組み合わせの工場でもあるようなのです。
 先日、こちらの新聞である記事を読みました。それによると、今月、南オーストラリア州の首都アデレードで、全豪睡眠学会の総会が開かれ、そこで、ハーバード大学の神経科学者で精神医学者であるロバート・スティックゴールド教授の講演があったようです。その彼の話によると、
と言うのです。
 実は、私の書き物のそのアイデアの柱は、朝早く目覚めて、時にはまだほの暗い朝まだき、夢の延長とも、現実の反映とも判別付かない混沌とした意識の中から立ち上がってくることがほとんどです。そうした私的経験を繰り返し持っていますので、こうしたその道の専門家の見解は、しごく飲み込みやすいものであると同時に、私の経験的事柄に科学的実証を与えてくれたものとも受け止められます。

 そういう次第で、こうした受け止めが的外れでないとすれば、私の書きもの作業は、そうした脳の働きの手作業版で、 『相互邂逅』 を実例にすると、私の昔のノートを古い記憶とすれば、そこにこの間の経験の記憶を組み込みつつ、新たな洞察の世界を形成している作業と言えます。
 そしてさらには、こうした脳の言わば後験的役割の重要さは、私の人生的体験とも辻褄が合います。すなわち、私の子供時代からの 「劣等感」 ――自分への先験的決定論――が、それへの違和感からその克服、そしてそれからの解放との青春期のプロセスや、私のノーマッドな生活環境から体験的に身につけた地理的異視野や職業的移動体験による社会的立体視の形成、そして実際の国境を超える生活体験をもとにした 「両生学」 発想の芽生えなど、自分の人生の足跡とも重なり合います。つまりは、自分の人生体験の形成と脳の組織的形成とは、互いに裏腹な関係をもつ、発達の両面であるようなのです。言い換えれば、脳は経験の産物であり、その産物がまたさらに次の産物としての経験を生むようです。
 そう言えば、他の器官、たとえば筋肉についてみれば、筋肉の発達と身体の運動機能の発達とは、これも裏腹の関係にあり、その片方のみの発達はありえず、発達のためのトレーニング、つまり鍛練経験が不可欠です。
 ある意味では、当たり前ともいえる認識ですが、脳にとっても、それは先験的にある出来上がった能力があるのではなく、経験的にできて行くものであるようです。
 こうした脳についての科学の発達は、近年、目覚ましいものがあるようで、それが 「唯脳論」 ブームをもたらす背景となっているようです。

 先日、そうした発達の要点をまとめた良い記事を見つけて、今、翻訳をしています。そのテーマは、私たちの脳のひらめきや洞察がどうしておこるのかについてなのですが、その翻訳作業を、今回の更新に間に合わせようと急いできたのですが、予定通りに進みませんでした。次回にまでには終わりますので、今回の序論の続編として、その公表とともに、標記テーマを続けたいと思います。

 

 (2008年10月31日、11月8、17下線部修正)


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