「両生空間」 もくじへ 
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 連載

相互邂逅


14

 こうして僕らをおそった出来事については、しかしながら、僕のノートは不十分にしか伝えていない。その記入者たる僕に、当時そこで何が起こっているかは自明のことだったし、つねに、単刀直入に僕自身にとっての本論入って行く必要があった。だから、それは僕にとっての内的道具や方法ではあっても、第三者に、何が起こり、何が進行しているのかを伝える目的は果たしていない。むろん、今の僕のような、遠い将来の読み手のことなど、夢にも想定されていない (だたそうしたノートには、後年のいつの時点か、各ノートの表紙に、もとはなかった記録期間の年月日が付記されていて、整理の上――こういう日記形式の記録は、通常、月日は表示されていても年が抜けている――、今の僕には貴重な手掛かりを与えている)。それに、肝心なところで、そのノート作業は中断すらしている。
 ただ、そうした限定された記録の中なのだが、第三者向けに書かれた僕の文章がある。1973年6月に発行された、僕がその初代委員長となった学生時代の組織の機関誌に、僕が寄稿した随筆である。幸い、残されたノート類の箱のなかに、その機関誌も数号いっしょに保存されていて、今、僕の手元にある。かなり長い引用となるが、当時の僕が、独白以外に何を考え、他者に何を訴えようとしていたのか、それを知る手掛かりとなる。ここに再掲載してみたい。



病院断章

 その日私は勤めの午前をさいて、妻の通う病院へ行かねばならなかった。私達はいつも私が出勤する時刻にアパートを出た。地下鉄は丁度ラッシュの真最中である。電車の揺れるたびに私達は他の乗客の重い圧力でもって、ドアに強く押しつけられた。とても病人の同乗にふさわしい状態ではない。しかしなるべく早めに行って一人でも早い順番を取っておく必要があった。受付の十分、二十分の差が診察の一時間、二時間の差となるのは日常のことである。忙しい時は往々にしてぶつかり合うものらしい。勤め先でもあいにく急ぎの仕事に追われている時であった。
 ググッと押しつけてくる圧力を私の体でかばうようにして、私は今日の呼び出しの意味を考えていた。一応の検査が終わったのだろうと考えられた。そしてどんな診断が下されるのであろうか。私達は今までのワダチを、もう二度と踏みたくはなかった。私達はもう二つの病院を転々としていた。そしてそのどちらにも非常に不愉快で納得のゆかぬ思いをなめさせられ、医療機関に対する深い不信すら考えないではいられない境地に至っていた。
 妻の疾病には職業的原因がからんでいた。しかし妻個人の特殊な原因が全くゼロであると証明された訳ではない以上、あくまでも医師にその判定を依頼するしかない。そして原因がどうであれ、不健康は健康へと回復されなければならない。
 疾病には、その原因から二つの種類への区別が可能だと私は考えていた。そのひとつは、自然現象が原因となった疾病である。悪性生物あるいは細胞とか、一個の肉体内での異常現象がこれに相当する。そしてもうひとつとは社会現象が原因であるものである。各種公害病、そして職業病といわれるものがこれにあたる。前者に対してはおおよそ公平な原因追究の手段がなされているように私は思う。しかし後者に対して、それを希望するのは正しいとしても、実情はあまりに苛酷であるのが今日である。それは続出する公害病裁判に照らして明白である。現社会の医療機関は、原則的に後者の疾病に関して救済者ではない。私は冬から初夏がいきなりやって来たかのように、またたくうちに過ぎてしまった四ヶ月を思い出しながら、帰結がそのような方向に向かっていることを確かめていた。
 地下鉄が都心に向かうに従って混雑の度合いはますますひどくなってくる。私の前に顔の色を失った妻の白い顔がある。暗闇のトンネルの中を耳をつんざく騒音が満たす。
 (中略)
 何らかのピリオッドが打たれる。そんな予感を胸に持ち、私達は地下鉄からはき出されるようにして降り立った。
 目算通り私達は順番のトップを取ることができた。しかし病院側の勝手な判断で、G教授の診断があるとの恩きせがましい条件と交換に、妻は若い学生達の実習の患者に回されてしまい、無益にも午前の大半をそのために費やされてしまった。腹立たしい気持ちでT医師の診察室にもどって来た時はもう正午近くになっていた。
 診察室はあわただしい雰囲気に包まれていた。時刻はすでに一時を廻っており、午後の診察の時間になっていた。
 T医師は最初妻に二、三、経過を尋ねる質問をし、そしてほぼ次のような内容の診断説明をした。
 ○妻の症状は入院の必要などがあるような重大なものではない。
 〇多分に精神的なものが原因していると考えられ、ご主人も十分にそれを和らげるように気を遣ってほしい。 
 〇徐々に良くなっているようであるから、あまり心配して考えず気楽にしていた方がよい。
 午前中を潰し、一ヶ月を潰し、数々の肉体的精神的苦痛に置き換わる説明としては、それははなはだ承服しかねるものであった。
 患者である妻は席を外され、すでに廊下に出されていた。
 T医師の態度には早く話を終わらせてしまいたい慌てた様子と、同時にその慌てが私に対して多少申し訳なさそうな、そんな二者混同した落ち着かない様子が見受けられた。
 〇妻は決して回復に向かっているとは思えない。 
 〇重大なものではないとは、このまま放っておいても良いということなのか。
 〇精神的なものが原因とはどういうことなのか。
 以上のような質問とその返答が私とT医師との間に交わされた。しかし私には妻への精神的といわれる指摘は今回の症状の直接の原因とは考えられなかった。確かに妻の精神的疲労は限度近くまで迫っているように思えた。しかしそれは、原因不明のまま病院を転々とせざるを得なかったその不安と緊張の堆積が生んだものである。T医師の言う精神的徴候とはそれらを指しているものでしかないように聞こえた。
 妻の症状というのは次のようなものである。右手足の筋力の低下、そして同右手足の皮膚感覚の低下、疲労時の右手の震えと右足付け根の重だるい感覚、肩から背中へかけての重圧感。
 このような症状を訴える女性が妻の勤務先である電電公社に大勢居るという。それは交換手という特殊な労働の繰り返しによって発生するものらしい。私は妻の四ヶ月にわたる闘病生活によりこの病気に関する多少の知識を得ていた。
 「頸肩腕症候群」これがこの症状を総称する呼び名である。読んで字の如く原因からくる命名ではない。ただそのような症状を呈する疾病現象をひとまとめにしてそう呼ぶにすぎない。ただ電電公社では続出する数々の患者例より、この病気に類するものと診断された者についてのみ、公傷並みの特別措置が組合との間に協約化され、この四月一日から発効されていた。しかしそのためには、指定された病院の診断書が必要であった。
 「先生、私の聞くところでは、医学的因果関係には何らの異常が発見されないにも拘わらず、このような症状のみが現われてくるものを『頸肩腕症候群』と呼んでいるのだそうですが、妻の場合は『頸肩腕症候群』ではないのですか
 話に飛躍のあるのは承知の上だった。そして以前にそれとなくこの名称を出してみた時のT医ならびにその助手の態度の急変から、こんな話の切り出し方は少なからぬ危険のあることも承知の上だった。しかしT医師側のペースに乗っている限り、実際に『頸肩腕症候群』と診断してしかるべき事例にも、そのような診断が自然に出されてくるとはもはや予想できなかった。それは過去二つの病院で証明済みのことであった。多少の冒険はやむをえないと考えていた。
 予想外の返答を私はその時聞いた。会話方としてT医師は私の飛躍をつくことによってもっと巧妙な返答のしかたはできたはずである。しかし返答は私の話の核心に触れて返って来た。それは思い切った内容のものであった。
 「私はそのような病気を認めてはいません」

 そう言いきったT医師の表情に一瞬、喋り方に対する計算が走ったようだった。彼は語調を改め前言をとりつくろうかのように続けた。
 「神経は論理的なものです。我々はそれを精神的なものとする立場にいます。ですからそれはノイローゼの一種と考えられます」
  「言わせた!」、私は腹の中でそうほくそ笑んだ。数々の苦痛を訴え、最後の望みを託してくる患者を「病気とは認めない」との医学的「立場」の存在をT医師は「我々は」と言ったのだ。そのような医師であることをみずから語ったのだった。「論理的」と語るその内容にT医師らのよって立つ根拠がある。彼はその内容を語りはしなかった。しかし私はそれを理解できた。またT医師もそれ以上を口にしなかった。両者の理解は銅貨の裏表の関係である。私はありうることと直感した。論理性がそして科学性が時にはこのような形で生身の人間から離れてゆくことと。それはあまりにありうることなのだ。しかし同時に私達はまたしても救済の道を閉ざされてしまう。少なくとも妻の心身ともの限界はそう遠いことではない。これ以上の遠まわりはもはや事実上不可能かもしれない。もう一歩食い下がらなくてはならない。
 「そうですか、その件は解りました。先生、ざっくばらんに申しますがひとつお願いがあります。妻の勤め先ではこの『頸肩腕症候群』の証明さえなされればいくつかの特別措置がはかられ、我々大変助かるのですが、その内容の診断書を書いてはいただけないものでしょうか」
 「ダメです。それは書けません」。キッパリとT医師は言った

 「そのような判断は職場に健康管理の先生がいるでしょう。その先生にやってもらいなさい」
 「第三者の診断が必要なのです」
 「どうしても書けと言うなら、ノイローゼと書きます。ノイローゼとしか書けません」
 ノイローゼとはあまりに酷だと思った。今でさえ鬱積した不安のため、それにすらならないとは限らないと言うのに、自分みずからノイローゼのレッテルを医師の証明付きで持ち歩かなければならないとは、まるで医師こそその原因ではないか。
 しかしT医師はそう言うことによって事実上妻を「頸肩腕症候群」と認めたに等しい。「頸肩腕症候群」をノイローゼとは区別しない立場、そして妻はノイローゼであると診断する判断。この両者は論理的に同等でなくてはならない。
 「ではこれからどうすれば良いのですか。心配するほどのことはないそうですが、このまま勤めに出てもよろしいのですか。これ以上の悪化はありえないのですか」
 「いや、勤めに出れば、人間関係やら何かで再発は確実でしょう。あなたの奥さんの場合、勤めを辞めることです。もっと別な仕事につくことです」
 私は診察室を出た。妻の心配気な表情が私を迎えた。
 私たちの診察の二人ほど前に二十歳前後の女の患者が居た。待合室と診察室はカーテンの仕切りしかない。その患者と医師とのやりとりが耳に残っていた。
 「私、○○会社のタイピストをやっていますが、先日お医者さんに『頸肩腕症候群』と言われました。でもこれでは職業病として扱ってくれません。『腱鞘炎』なら扱ってもらえるのですがどうなのでしょう先生」
 「では見せてごらんなさい」
 やがてT医師の高まった声が私達の耳をとらえた。
 「もっと力が出るでしょう。がんばって」
 「先生ダメです。本当に力が入らないんです」
 「出るはずです。出せるはずだ。頑張るんだ! もっと、もっとだ」
 「ダメです先生。ダメです。できません」
 「握力右24、左1」
 私達はK大学病院を出た。梅雨を思わせるような蒸し暑い日だった。ドンヨリとした灰色の空が雑踏を低くおおっていた。
 病院前の道路にけたたましいサイレンの音が割り込んできた。灰色に塗られた機動隊輸送車が黒い人影を満載して、私達の前を幾台も走りぬけて行った。
 


 つづく
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