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 連載

相互邂逅


16

 34年間という長いトンネルの、入口と出口に同時に立つという体験は、僕を、以前ではまず得ることのなかった、ある眺望へと導いている。
 それは、ひとつは、この三分の一世紀という、ひとの人生にとっては充分に長い時間的隔たりを、同時的に見渡せるという眺望性に因っている。それはもちろん、僕の若かりし頃のノートとの出会いという、期せずして得られた僥倖がもたらすものであるのだが、その出会いを体験することにより、忘却や無意識の彼方に押しやっていた、自分にまつわる潜在化していた世界を再び思いおこさせてくれるものでもあるからだ。
 それはさらに、そのトンネルが、一方では現実の目覚めた世界のトンネルであり、他方では、夢の眠りの世界のトンネルでもあるという覚眠二重のトンネル体験をも意味しているということとからむ。しかも、一方の目覚めは他方の眠りであり、また、その逆でもあるという関係をも持っている。この逆相関係にある両世界が与える両眼視野が、この眺望に認識上の立体性を与えてきたという側面も持つ。
 たとえばそれは、僕の結婚への決心が、しかも同時に、 「不動の旅」 への旅立ちへの決心をも意味していたのだが、それは、父親となることを伴っていたはずだった――むしろそここそがその重心であった――にもかかわらず、その、父親となる側は、 「想像妊娠」 というこれまた現実世界を越える成り行きによって実現せずに終わっていた。そうして、片輪を欠いたように結婚の側だけが進行し、存在すべき子は不在のままの 「巣作り」 となっていた。
 そうした僕の結婚生活のスタートは、そうして、言わば “空荷(からに)” の 「」 として始まっていたのだが、これが、僕をして、どこか、徴兵忌避者の抱く罪悪感にも似た負い目意識を、少なくとも、深い潜在意識の底にうずかせていた。だから、僕の昼の意識は、それが想像妊娠をめぐる決心であったという不可抗力な事実関係から言って、そこに何ら後ろめたいものはあるはずもない、と弁明を張っていた。しかし、夜の意識ははるかに正直であった。そんな自分自身の抗弁をよそに先の74年1月4日の未明の夢のように、そのえも知れぬところからわき上がってくる恐れの感覚をくみ上げていた。
 つまりこの眺望とは、短期的で昼間的な比較的顕在化しやすい意識と、長期的で夢的な潜在化していた意識という、二つの側面があったという発見をもたらしている。だから、僕がこの三分の一世紀の間、意識的に対処してきたのは、どうやら前者を中心としたもののみのようで、後者は、おそらく、もし僕がこの 「相互邂逅」 にたずさわることをしていなかったら、永遠に潜在意識の底に沈んだままになっていたものかもしれない。

 このようにして始まった僕の 「空荷の旅」 たる人生は、今、こうした長いトンネル体験のこちら側で、短期・昼間的と長期・夢的の二つの視界による立体視を味わうことができている。
 その短期・昼間的側面は、そうした 「空荷の旅」 の 「空荷」 となる直接の契機が、妻というその旅の伴侶の女としての役目の未達成がからんでいることから、僕をして、長年にわたり、それを表ざたに語ったり意識することから避けさせてきた。あるいは、そうであるからこそであったのだろう、彼女をそのくびきから解放したいと願い、かつ、おおやけに胸を張って対象にしうる世界を編み出さんと、ひとつの設定に必死になって取り組み始めていた。それが、彼女の病気が、個人的欠陥に起因するものでなく、職業的環境に起因するという発想であった。
  『病院断章』 に表現されているように、僕は、頼りとした医療機関への期待に裏切られ、そのある種の絶望と、他方、彼女の職場の組合関係者から与えられた情報を得て、その病気が、職業病という、個人的要因を原因とせず、いわば自分で自分を非難する必要のないものであり、むしろ自分たちは被害者であるという認識をえるようになった。また、これはいっそう取り組みにくい問題でもあるのだが、妊娠の失敗――たとえそれが 「想像」 という原因であろうと――と、さらに、病気の重篤化に伴って起こっていた彼女の生理の停止――言うまでもなくそれは彼女の再妊娠を不可能にしていた――は、当の本人には女の役目の喪失として、とにもかくにも、一番の呵責の種であるに違いなかった。そうした込み入った問題が、僕をして、それを職業病と扱うことで、彼女をその苦難の暗闇から一挙に救済できる突破口だと考えさせていた。もちろん、想像妊娠が職業病の表れとするには無理があったのだが、どの道、妊娠自体が不可能となっている際、もはやそれはどうでもよいことで、僕は、この問題のそうした職業病としての面からの解決に、誠心誠意を注ぎこみ始めたのであった。
 ともあれこうして、僕らの新婚生活の主調は、若い二人の甘美なトーンからは大きく外れて、むろん望んだわけでもない、妙に社会的――時には政治的な――色合いを帯びたのであった。ただ、そうして彼女はさらに、自分にはいっそう不似合いな世界に引き出されてゆく戸惑いがあったのだが、彼女にはいかんともし難いことであった。
 そうして僕は、彼女の病気を職業に起因する病気として、その認定――それは公社自身がそれを判定する制度となっていた――を得ることを当面の目標と定めた。それを得れば、彼女の呵責を解くために、その不健康が個人に原因するものでないということに公認が得られるばかりでなく、当然にその補償として、どれほどかかるか解らない病気療養に関係する経済的負担やその間の賃金の保障が伴っていた。
 かくしてその認定は、妊娠に関する僕の結婚の決心をめぐる成り行きを解明するものにはならないものの、僕らの人生が 「子無し」 の人生となったことには明白な説明を与えてくれようとしていた。
 この職業病認定をめぐる過程に、当然、いろいろな苦労や煩雑な手続きを伴ったことは、特にここでは言及しない。ただ、僕のとった行動として、その道行で、僕はそれまでの仕事をやめ、看病と認定獲得の取り組みに専念したことである。そして同時に、僕は、思いつめたように、もの書きになることへの思い入れを肥大化させ、小銭稼ぎにしかならなかったものの、文章書きの自己鍛練と並行して、ゴーストライターのような “仕事” も始めたのであった。この思い入れは、無職を選ぶという自己行動への代償行為であったのかも知れない。
 そうして一年ほどの苦心と努力が実って、1974年7月31日付けで、その認定が下りた。
 その時、僕は、何かの勝負に勝利したような、大きな達成感にとらわれ、ひと時の満足にひたった。と同時に、彼女の呵責も解消し、治療の現実条件もととのい、その病気もめきめきと回復に向かうものと少なからず期待した。
 しかし、こうして病気治療の条件は確保されたものの、実際のその回復は遅々たるもので、その後、ほぼ十年を要する。それに、そうした治療は治療で公社管轄下におかれ、その管理の求める拘束のもとでの気苦労は続いた。
 その十年後の1984年10月、僕らは日本を立ってオーストラリアに旅立ち、いよいよ、僕の実際の地理的な旅が始まる。だがこの間、僕はこうした職業病との関わりのもたらす思わぬ派生体験に出会うこととなる。

 こうして僕は、そうした 「空荷の旅」 にまつわる短期・昼間的側面をそれなりに克服することとなった。
 だがそういう “成功” にもかかわらず、私のその後の人生がまぎれもなく 「子無し」 の人生として営まれて続けてゆく長期・夢的な側では、思いがけなく出現する夢見の種を残していた。子無し夫婦は何も僕たちだけではないが、僕にとっては、否定し切れない特異性は明らかにあり、それが自分の足跡に与える “軽々しさ” として取り残され、払拭しきれない遺留として今に至っている。
 もし僕が、昼間の意識のみで生きていたなら、あるいは、この 「相互邂逅」 の体験に出会えなかったら、僕をこの二重の眺望へとは導かなかっただろうし、いま、僕がこうしてつづっている、こうした世界も生まれなかったろう。


 つづく

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