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 連載

相互邂逅


19

 こうして、妻の職業病により焙り出されるように浮かび上がった僕の 「社会性」 と、行き場なく内部に沈澱し凝固していた僕の 「個人性」 は、前者が現代労災問題の云わば専門家として、後者が建設技術や労働問題になじんだ新米のもの書きとして、共にその有用性にとどき始め、さらには、そうした両者が結びつくことにより、その技術屋の労働組合での仕事、ことに、自殺未遂ケースを労災と認定させようとする未踏の分野との奇遇な出会いは、僕に、天与なやりがいを見出させていた。
 思えば、 「空荷」 の旅でしかなかった僕の 「不動の旅」 は、こうして、そのうつろな巣に、思いもかけなかった卵が生みつけられ、それが孵化に向かって暖められ始めたのだった。

 この難題の渦中にあったその当時には、僕は、事態の木ばかりに目が行ってその森は視野に入らなかったのだが、今となれば、この労災問題の行方をその根底で方向付けていた、社会の二つの底流が見渡せる。
 そのひとつは、妻の受難にその時代の歪みが陰を落としていたように、今度も、時の社会的伏流がこの労災問題の成否に強く作用していたことである。
 まず業界社会においては、この自殺未遂を起こした組合員のケースは、あたかも氷山の一角だった。つまり、僕ら対策チームは、このケースを月刊化なった機関紙に足で記事にして組合員に知らせたのだが、そこに見られる被災者の労働実態が組合員の誰もが大なり小なり日々に体験しているものであるとの認識が広がり、それが媒体となって、この運動が 「他人事ではない」 との思いを組合員各々が共有できたことである。たとえば、毎年末、対策チームはこの運動を支える募金活動を行ったのだが、それは毎回、予測を上回る募金総額を達成し、被災家族への経済的援助ばかりでなく、この運動を推進する対策チームの活動資金の潤沢な資源となった。
 さらに、業界内ばかりでなく日本社会全般においても、誰しもの日常生活の中に、精神をさいなむ病的要素が無視できなくしのび込んでいた。それを物語る一例だが、運動を始めて2年半ほどが経過した1982年2月、俗に言う 「日本航空機逆噴射墜落事件」 が発生した。これは、福岡発羽田行き便の日本航空の機長が、羽田空港への着陸の直前、エンジンを逆噴射させて失速、墜落させた事件であった。僕はこの事件の報に接した時、とっさに一種の戦慄をおぼえた。と言うのは、社会は、この奇異な事件をきっかけに、精神疾患やそれに関連した微妙な問題を、一切合財 “気違い沙汰” として手荒に切り捨ててしまうのではないか、と恐れたからだった。しかし、実際の展開は違っていた。意外で、しかも望ましいことに、必ずしもこの事件のみを境としたわけではないだろうが、社会的風潮として、それまで一種のタブーであったかの精神にまつわる病気について、身体の病気と同じように――それを 「ビョーキ」 と片仮名表現して呼ぶなどして――いかにも身近に扱う流れが見られ始めたことである。
 二つの底流のうちの第二は、自らの体験から極めて警戒的であった僕にとって、これは予想外であり、だからこそ、その予想を裏切る結果に深く感謝もしたのであるが、日本の精神科医師たちの姿勢が、地味ながらすぐれて進取的で、患者を含む社会的弱者に、深い理解と同情を自らの行動をもって体現していたことである。むろん例外もないわけではなく、以下は僕の勝手な解釈であるのだが、その考えられる理由は、日本社会で、精神疾患患者はとかく差別されがちで、その治療に日々たずさわる彼らが、社会や権力にとかく批判的になりがちであったのではないか、と思われた。
 さらに、こうした彼ら精神科医の個人的姿勢や傾向のみならず、これはむしろ精神医学にとっての原則にかかわることだと思うのだが、僕らが面会してお願いし、この労災ケースへの意見書を著わしてくれた公立病院長のK医師は、 「了解」 という専門用語を使って――この被災者の経験した労働環境が原因となって、それだけの疾病状態を結果することがありうることと 「了解」 できるとして――、その精神医学的鑑定の論理的骨格としてくれた。つまり、この 「了解」 とは、物理的にも化学的にも特定できない人の精神の現象を――僕としてはあいまいさ (外延性あるとの意味で) を含む概念であるなと思えたのだが――、この 「了解」 という専門的概念を用いてそう判定したのである。僕はその意見書を読んだ時、現行の精神医学が、人間のファジーな部分をもそういう風に取り込んで学問としそれを実践しえている現場を、そう目撃した思いだった。そして、大いに、この医療分野の人間的な可能性を発見した気持ちにとらわれていた。それは、その数年前に僕が妻に同伴して体験した、 「神経は論理的なものです」 と言う医師とは、同じ 「論理的」 を口にするとしても、まったく正反対の立場のありうることの目撃であった。
 そのような当時の社会的動向に支えられ、押し出されるようにして、この労災補償獲得運動は、事件発生以来4年7ヵ月という予想外のすみやかさで、1984年2月末、その認定を獲得した。事情通の人ならば誰もが予想していなかった、目覚ましい勝利の達成だった。
 その認定発表の記者会見が労働省の記者クラブで開かれた日、夜のテレビニュース、そして翌朝の新聞はどの紙も一面トップで、「心の病に初の労災認定」 と報じていた。
 僕は今でも、その夜、NHKの7時のニュースで、当時アンカーを務めていた加賀美アナウンサーが、 「過重な仕事の負担から反応性うつ病を発し、自殺未遂に至った建設設計技術者に、全国で初めて、それを労働災害とする認定が・・・」、と報じている彼女のビロードのような滑らかな声を、昨夜のことのように思い出すことができる。
 また、翌日の組合事務所には、ニュースを知り、興奮した様子で電話をしてくる、全国からの声が引きも切らなかった。
 中にはこんなエピソードも含まれていた。
 ある傘下の組合で、通勤途中で新聞を読んだ一組合員が、会社に着いて仕事仲間にこう言った。
 「今日の新聞に、うちの組合がやっている問題にそっくりなニュースが載ってるぞ。」
 「バカだなあ、お前。それ、うちらの問題のことだぞ。」
 「へェー、俺らのことが新聞一面に載ることがあるのか。」

 かくして、僕の 「ライフワーク」 は、5年足らずで終わってしまうこととなった。
 もちろん、その達成に限りない満足感が伴っていたが、それでも、そうした補償獲得運動は、いわゆる 「後追い」 の運動でしかなく、被災者やその家族に治療や生涯の年金が保障はされる成果はあるものの、彼が一生、両足のない重度の障害を負ったままで生きてゆかねばならないという現実に変わりはなかった。
 また、僕のキャリアとしても、それは大きな足跡の獲得を意味し、それを生かし、労働運動の、ことに今日の労災問題の専門家として、さらなる経験を積んで行くという道も考えられないわけではなかった。
 しかし、いわゆる 「後追い」 の勝利をさらに得ていったとしても、それは何かの尻拭いの片棒かつぎに過ぎないように思えた。それに、それまでのやりがいが大きければ大きいほど、この達成による虚脱感も大きく、かといって、その空隙を埋める同等のやりがいを望むのも、どこか新たな被災者の登場を望むようなもので、僕は何かの仕切り直しのようなものを必要としていた。
 かくして、僕の 「ライフワーク」 が予想外に早期に終了したことで、僕の 「ライフ」 には、その先数年間の時間的ボーナスが与えられたのも同然だった。そして、かねてから考えていた計画を、いよいよ、実行に移そうとの考えが脳裏を占め始めた。この時を逃して、僕の生涯でそれを実行する機会はもう二度とやってこないだろうと考えられた。
 その計画とは、僕の意識上の 「昼間的」 で直接的な動機としては、労働問題を国際的な視野で学んでみたい、ということではあった。だが、それをこの 「三分の一世紀」 の尺度から見渡せば、その 「昼間的」 意識の背後で、もっと潜在的で 「夜的」 な意識における変化が生まれていた。それは、これまで、喉から手がでるほどに望んでいながらそれをせず、それを 「飛躍」 と呼んで避けてきた不連続が、そうして大きな区切りがついた今、なぜか、不連続であるようには感じられないようになっていたことだった。そして今や、むしろそうすることが、地続きの道のように思えてきたことだった。
 こうして、長年の 「不動の旅」 が、いよいよ、 「実動の旅」 に変じようとし、実際の地理的移動に向けた成熟をとげようとしていた。そして、組合からは当面3年間の長期休職をもらい、37歳という人生中途にして、海外留学を理由とした旅に旅立った。1984年10月末のことだった。

 つづく

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