「両生空間」 もくじへ 
 「私共和国」 もくじへ
 HPへ戻る




修行第二十六風景


 以前にも書きましたが( 「修行第十四風景」 参照)、自分の右手の先に鋭い刃物を付随させ、自分の身体の延長のように感じられるる感覚、それがますます高じてきているように思います。
 というのは、この頃は、にぎりの習得の段階がひと段落し、今は、魚の仕込み、ことに、魚の身をさばいてさくにし、それを握り用の切り身や刺身にする仕事を習得中です。まぐろにはまだ触らせてもらえませんが、おもにサケを用いて訓練しています。
 その中で、いかに、包丁の切れ味が大事かということを痛感させられ、 「切る」 という行為が、なにか板前職人の精神の何らかの原点であるかのように思われてきています。
 ことに、身から取り除きたい部分を薄くそぎ落とすとき、すっと刃が立つか立たないかで、決定的な仕事上――仕上がりの上でもスピードの上でも――の差が出ます。逆に、その差がわかってくると、包丁を丁寧に研いで、その出せる限界の切れ味を引き出すことも、自分の腕の内となってきます。ですから、一日の作業が終わって、あわただしく片付けに入っている際でも、時間をさいて几帳面に自分の包丁を手入れしたくなるのもその為です。疲れた仕事の後でも、それを押して見事に自分の道具を研ぎあげることができたとき、気持のよいものです。

 先日も、サケのさくを刺身に切っていた時でした。普通の生の身を切るだけでも、厚みが揃わず並びも悪くて、さまにならない出来具合に苦労していました。その時、それに続いて、あぶりにした身を刺身に切るようにと言われました。この際でした。あぶりの身は表面が薄く硬化しており、私の包丁さばきでは、その硬化した表面が、刃を当てた個所でぼろぼろと崩れ、汚くてとてもお客さんに出せる品にはなりませんでした。ところが、こうやるんだと先輩がやって見せると、それが崩れもせずにきれいに切れるのです。その余りにも歴然とした差に、さすがに唖然とさせられました。まさしく、腕の違いです。
 確かに、彼の刺身用の包丁は、もう十年も使い込まれたもので、刃も薄くなっており、こうした場合にはより強みがあります。しかし、どうもそれが原因ではなく、やはり、腕が違うのです。当たり前なのですが。
 そういうわけで、その日が終わった後の包丁研ぎは、いつとはなしに、慎重、丁寧になっていました。
 刺身は、切り口がすぱっと切れていて、角がたち、きりっと形が整っていないと、おいしそうには見えません。しかもその作業を、私の何分の一かの早さでやってしまえるのです。さすがです。
 私もこの道に2年9ヶ月ほど携わってきて、年季の入った板さんと幾人も身近で接してきました。そうした経験からの話ですが、そうした板さんたちに、ある共通した何かを感ずるのです。それは、ふだん、おっとりとしているような人でも、その人となりのどこかに、ぴりっとした決断のよさがあるのです。それは、切れのよさと言い換えてもよいような、あるいは、物事の捕まえどころのタイミングの絶妙さとも言ってよいような、精神の奥底にあるシャープな働きです。
 そうした彼らの特徴を、私は、自分でこうして刃物を扱ってきて、それがどこから来ているのか、この頃になって、そのどこかがつかめかけてきたような気がしています。
 それは、切れ味の鋭い刃物の使いどころを心得た者たちが備える、「寄らば斬るぞ」 といった気概なのかも知れません。
 

 (2008年12月29日)

 「両生空間」 もくじへ 
 「私共和国」 もくじへ

 HPへ戻る
                  Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします