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 連載

相互邂逅 第三部




 エイブの世界を 「広さ」 という角度でとらえるとすると、バエさんの世界は 「深さ」 という尺度で特徴付けられる。また、エイブ界との接触は英語を介してのものであり、バエ界とは日本語を通じてのものである。この、エイブ界の広さと英語、バエ界の深さと日本語という互いに特徴的な組み合わせは、僕のこの世との関わり方に、人間関係という偶然の出会いのもたらす結果ながら、ひとつの多軸的視座をもたらしてくれている。それは、単に、構図的な多軸の交差であるばかりでなく、先にも言った、 「植民地」 的支配関係における、支配する側と支配される側、といった力の構造の対照性をも反映したものとなっている。この 「植民地」 とは、日本がかつて、朝鮮半島を植民地化したという古典的意味から、いまや、そうした領土的植民地化は伴わないものの、グローバル・ヘゲモニーという手段を通じて行われている今日的なそれに至る、広義な含みにおいてのものである。つまり、日本からオーストラリアへの地理的移動によって切り拓かれててきた複眼的視野は、こうして、歴史的、言語的、文化的、国際政治的にも、複眼的かつ多次元的な――時には、混沌とした――視界を形成するものとなっている。

 ここで僕は、この 「エイブ界」 とか 「バエ界」 とかという表現を、属人的な意味の正確さからやや離れて、すこし抽象的な意味で使おうとしている。どこまでが具体的で、どこからが抽象的かと問われても困るのだが、自分の体験を何らかの形に組立てようとすると、こうした一般化の手法は避けられない。つまり、何もそれほどのことを体験してきたわけでもないのだが、 「日本」 あるいは 「東洋」 とか、そしてそれに対した 「西洋」 とかについて、何かを言ってみなければならなという義務感のようなものに捕われている。むろん、いわゆる科学的とか学術的とかという世界に通用するものではないのだが。

 エイブ界の広さという面では、いっしょに始めた会社が、ビジネスという意味では一種の道楽のような “業務” 内容を持たせていて、なかば仕事として、なかば見聞旅行として、アジアの各国をつぎつぎに訪ねたことがあげられる。
 こうした変哲な事業観は、エイブの持つ、旅行好きというより、世界各地や歴史への広い知識を、 「百聞」 に 「一見」 を加えるかたちで、補強あるいは実体験する試みであった。そうした彼の構想にリードされて、僕も、世界、少なくともアジア諸国に出かけて行く体験をさせてもらった。
 1996年初め、僕の東京のマンションの改装が終わって、4月に、会社の東京事務所としてオープンさせた。事務所といっても、常時、人を置いておくほどのものではなく、日本にもオフィスを持つという “国際的” 体裁に加え、その実質上の必要が、東京に出張の際の宿泊とその際の仕事場を確保することにあるものだった。だから、時には、知人や客先で東京を訪ねる人に、宿泊先として提供したりもしていた。
 そうした体裁と実質を整えた我われは、その後の数年間に、北は韓国から、南はインドまで、多くの国々を訪問した。その国名をあげれば、この二国以外に、中国、香港、マカオ、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、タイ、カンボジアと、合計十一ヶ国・地域におよぶ。それに、中国、インド、インドネシアなどの 「大国」 には、複数回訪れている。そのほか、僕が個人で旅行したスリランカ、モルジブ、ニュージーランドなどもあげられる。このように、この数年間は、外国訪問という意味では、僕の人生で最も活動的な時期となった。
 こうしたアジア各国の訪問では、その多くの国で、自分の子供時代、つまり日本がまだ貧しい時代に親しんだ遠い光景が眼前に再現したかのような、よく言われる、 「デジャブ(既視)」 のような体験をしたことも少なくなかった。そして同時に、その裏返しなのだが、アジア諸国の中で、日本がある繁栄の流れの先端を行っているかの実感ももった。これは、オーストラリアにおける体験とは相当に異質のものだ。だがその一方で、中国を訪れた時の、日本人と知って態度を突然に変える人の存在や、他方、台湾での、逆に、日本人と知って急に親しげになる人など、歴史が残してきた複雑な足跡を垣間見る経験も持った。
 こうした旅では、当然ながら、同行者同士は互いに気心を知りあう仲ともなる。
 僕とエイブは山好きで、訪問先では、必ずといってよいほど、現地の名だたる山に登った。韓国では雪岳山、台湾では阿里山、東マレーシアでは、アジアの最高峰キナバル山、中国では、黄山、華山、峨眉山、等々に登った。
 ことにインドでは、その旅程に必ずと言ってよいほどに、北部インドのヒマラヤ地帯を含ませ、仏教やヒンズー教の聖地でもある、その神々しい峰々のふところ深くに分け入った。そうした際、標高五千メートルにも達するような、通常人には極限的な山歩きになることもあった。そうした行動を共にすると、下界では見せることのない、覇気と慎重の入り混じる、普段は隠れている人の素性たるものが現われてくる。エイブと僕は、そうした自身を互いにさらし合いながら、まさに神の居場所である――つまり、些細な判断ミスや天候次第で、人の命なぞ簡単に吹き消されてしまう――、そうしたきわどい世界も彷徨した。そういう意味では、僕と彼とは、命をあずけ合う体験もしていた。

 以上のような、言わばポジティブな体験に加えて、もっと微妙なものながら、僕が確かに合わせて体験した、ネガティブではないが、扱いにくい体験についても書いておかなくてはならない。
 それはたとえば、中国のある都市を、同行の仲間たちと連れだって歩いていた時だった。おそらく、昼間のなんらかの使命を終えて、夕食後、くつろいだ気分で、繁華街を練り歩いていた時だったと思う。その時、街角のショーウインドウのガラスに、並んで歩いてくる西洋人たちが映っていた。彼らをよく見ると、その中に、紛れもない、アジア人の顔をした男が一人交じっている。さらによく見ると、それは僕であり、自分の姿であった。 「虎の衣を着た猫」 、そんなフレーズが脳裏をかすめた瞬間だった。
 共に仕事をする以上、たとえ見聞旅行であったとしても、我われはそれなりの共通の行動様式を必要とした。我われは英語で語り合い、共通の振る舞いを分有しつつ、一グループとして行動していた。つまり、僕は、アジア人でありながら、明らかに、西洋文明の一端をそのように、自ら表出していたのだった。
 また、こんな体験もあった。
 この行動は、何もことさらに東洋、西洋を分けるものではない、男なら共通の行動様式だと思うのだが、我われは、アジアの夜の繁華街で、よく、女を買いにくりだした。
 それまで、そうした行為をしたことのなかった僕だったが、この場に至って初めて、そうした行動をとった。それは単に、その値段がプレッシャーにもならないほど安く、また、いよいよ男の習性を露わにできるほどの年齢に達しただけのことだったかも知れない。だが、騒音に混じってどこからか人の声が聞こえるように、僕にとっては、そうするに足るある意識があった。それは、仲間たちと同一の行動をとる、つまり、西洋人たちと同じく行動することに、僕自身の気まじめな限界を乗り越える、ある跳躍台の役目を与えていたことだった。おそらく、それが日本人同士のグループだったら、僕はそうしなかったと思う。つまり、僕は、西洋の衣を借りるようにして、女を買うという “決意” を実行していたのだった。
 僕はこの体験を、モラルの次元で取り上げているのではない。人間を商品売買する是非を問うのなら、僕も長年にわたって、自分を売って何がしかの収入を得てきている。問題は、日本人のままであったならしなかったであろうその 「決意」 を、西洋の衣を借りることによって、それが行い得たということである。つまり、西洋とは、それほどに便宜に規範とされる。少なくとも僕にとって、そうした効用が確かに働いていたことである。

 バエ界をエイブ界の 「広さ」 に対する 「深さ」 と特徴付けるのは、彼が僕に、彼特有の問いを問いかけてくるからだ。
 というのは、こうして、二十年にもなろうとするオーストラリア体験――僕はそれを 「西洋体験」 とも言い換えたいのだが――を経て、地理的は言わずもがな、国家制度的な境界は克服してきた気はしている。つまり、国籍という絡みでは、自分を中性化し、無国籍化させてきたつもりではいる。だが、そうでありながらも、そこでも見出さざるをえない新たな境界がある。
 それは多分に言葉に関わっている。これはむろん僕に限ってのことだが、僕のもつ、英語と日本語の二つの言語による表現能力には、それこそ、雲泥の差がある。とってもではないが、一方が他方に成り変わることなどは任せられない。だからこの新たに出現してきた境界を 《語境》 と呼ぼうと考えている。つまり、僕にとっての英語による 「語境」 の領域は、日本語による 「語境」 のそれより、はるかに狭く浅い。地理的、国家制度な越境はしてきたつもりだが、この 「語境」 上の越境は、いかんともし難いのだ。
 だが、本来なら 「語境」 が障害となるはずの僕とバエさんとは、日本語で “交信” している。より正確に言い直せば、バエさんという “非” 日本人と、英語でもなければ、その国の言葉でもない、日本語で交信を行っている。この交信は、僕とバエさんとの間の理解度という点に関しては、たとえば英語による交信と比べても、そうとうな深度が築き得ていると思う。つまり、バエさんにとっての日本語は、僕にとっての英語とは較べものにならない力量をもつ。それほどの日本語レベルをバエさんは持っている。そしてそれは、単に言葉の能力をいう域を超え、社会や文化の理解度という、個人と等身大の世界における親密度という域において、バエさんは、日本のそれに信を置こうとしている。かつて植民地支配という蹂躙を行った、その日本に。それにしても、こういう 「日本」 とは、一体何なんだろう。
 仮に、僕にとっての英語の地位が、バエさんにとっての日本語ほどでありえたとしても、僕がそこまで、英語世界に信をおけるものなのか。少なくとも、僕にとって、その英語世界、ひいては西洋世界と、二十年を越える付き合いをしてきていながら、その信というものに、年月を重ねれば重ねるほど、ある距離を置かざるを得ないものを見出してきている。だからこそ、 「語境」 などという新語をあみだして、それが何かを探ろうとしている。
 そこに、バエさんの、日本語界への、そうした投入とその姿勢である。
 それは、韓国、朝鮮という、特殊世界のもたらす一特異現象なのか。それとも、日本と韓国、朝鮮との間には、そうした共有できる基底が存在しているということなのか。あるいは、僕にとっての英語世界にも、そのような投入と成果がありうるという話なのか。
 エイブ界という面的な広がりに対し、バエ界は、それに垂直に突き立つ天地の座標軸を与えてくれている。むろん、僕にはうかがい知ることもできない、バエさん自身の 「語境」 の向こう側はありうるのだが。

 つづく
 
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