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私共和国 第20回



縁は異なもの味なもの


 今回、タイトルに掲げたこの 「縁は異なもの味なもの」 ( 「・・・粋なもの」 との言い方もあるようですが) とは、 『広辞苑』 によると、それは、男女の仲について言っている言い回しのようです。そうではありますが、私は今回、それをもっと広く、 「人と人、または人と物事とを結び付ける、不思議な力」 という、同辞書が 「縁」 の意味の?に掲げている意味で使いたいと思います。
 そういう、 「不思議な力」 が働きまして、先日の日曜日、このおんぼろアパートに、四人の若者たちの来客がありました。男女半々で、年齢層は20歳から30歳、国籍は日本人が二人、韓国人が二人です。私にとっては、もしあったとすれば、自分の娘や息子の世代にあたります。そういう意味で、彼ら彼女らを、 「仮想息子」 「仮想娘」 と考えたりもしています。
 この 「不思議な力」 の由来は、彼ら彼女らとはいずれも (ただし、四人のうちの一人は韓国人 “息子” のガールフレンドで例外)、私の修業中の店でいっしょに働いたことのある人たちです。そうして、日々の労働の中で接触しているうちに互いに馴染みが生まれ、若者たちの勘というのでしょうか、それとも、爽快な厚かましさというのでしょうか、家に来たいという、彼らのたっての希望となり、それを受け入れることとなったものです。
 正直言って、最初その話をもらった時、むろん私は韓国語がだめですから、会話は英語とならざるを得ず、その面で、やり取りが舌足らずになりがちで、そこがうっとおしくも面倒くさくも思えていました。
 ただし、来てもらった結果、それは私の杞憂でした。確かに、言葉の上での言い足らなさは生じていたはずなのですが、そこは、面と向かいあう強み、あるいは、そこに醸し出される雰囲気が大いにプラスに作用してくれまして、言語上のコミュニケーションにも、それなりのプラス効果がありました。むろん、日本語同士であるなら、もっと踏み込んだことも言えたでしょうが、その不足で終わったことは、今後追々、深めてゆけることでもあります。

 自分の分も含め、五人分の食べ物を用意し、自分も仲間に入りながら、それらを同時提供するのはそれなりに大変なのですが、私が寿司だのキッチンだので修行をしてきた狙いの一つは、いわば、こうした場での、もてなしの技量をえるためです。
 ところで、寿司職というのは、コック (キッチンにこもりがちとなる) とちがって、お客さんと対面しながら作りもするという、接客と料理との両面の専門家になることです。そういう意味では、けっこう高度な料理人となることであり、芸人にも似た要素を感じます。この日も、みんなとわいわい会話を交わし合いながら、寿司を握り、手巻きを作っていました。
 人間、おいしいものを食べれば、それだけでもハッピーな気分にひたれます。そして、そのくつろいだ気分を土台にして、いっそう踏み込んだ交際、交友関係が発展できるというものです。
 店のお客さんたちを見ていると、そこでパーティーを開き、あるいは友人たちとの語らいの場とし、あるいは家族の団らんを深めて、それぞれに満足してくれている様子がありありとうかがえます。
 むろん店では、そうした効果が商売として有償で提供されているのですが、私の場合、もう、それを商売にしなければならない狙いはなく、むしろ、その技量をもって演出しえる、商売ぬきのエンジョイ効果こそを、これからの自分の持つ能力のひとつとしたいと願って、やってきています。

 そうして、私の 「仮想息子・娘」 たちとの縁が一歩、深まったのですが、こうして、わざわざ自分ですすんで作ろうとしている 「仮想親子」 関係は、一体、何なんだろうと考えたりもしています。
 彼ら彼女らのうち、ことに日本人息子の場合、彼はいわゆる氷河期世代の一人で、30になるまで、定職に就けないできた一ケースです。父親の借金を背負ったりもしながら、いわゆるフリーターでいるしかなかった世代です。私も同じ年代の頃の自分を、 「元祖フリーター」 だったと考えたりもしているのですが、ただそれは、あえて選んでそうしていたわけで、当時の日本の経済状況はまだまだ、恵まれていたものがあったと思っています。その分、今は時代が時代だけに、その危なっかしさが、何とも気になります。
 また、日本人娘の方は、高校を卒業してすぐ、中国に留学して、中国語を身につけ、その後、モスクワにも留学したという変わり種です。私達の時代では、留学先とは即、欧米でしたが、そちらへの留学は考えもしなかったという彼女の生き方を見ても、時代の変化は明瞭に見てとれます。
 韓国人の彼は、中でも一番、学研的な雰囲気があり、私の書棚などを熱心に見て、少なからぬ興味を示してくれているようでした。

 さて、こうして始まったこの 「縁」 は、この先、どのように至ってゆくのか、楽しみでもあり、こわいようでもあります。
 どうも 「仮想親子」 だの何だのと、自分を親にみたてて彼ら彼女らに勝手に世話を焼きたがっているかの自分があり、他方、こうした私の自分都合な思い入れをよそに、仮想だろうが何だろうが、親を親とも見てくれない彼ら彼女らがあって、けっこう失望したりもさせられています。

 (2009年10月15日)

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