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私共和国 第22回



「遷都1300年」というプロジェクト


 それは偶然のようでもあり、またそうでもないようなのですが、私の別掲載の 「訳読」 がちょうど日本の歴史の、しかも、710年の平城遷都あたりを扱い始めたところで、 「せんとくん」 にお目にかかりました。
  
「せんとくん」 と呼ばれるキャラクター
奈良名物の大仏と鹿を組み合わせたもののようです。
 確かに、今年の2010年から710年を引いたら 1300年で、その1300周年を記念する行事のマスコットが 「せんとくん」 です。この遷都が、当時、中国との密接な関係のもとに成されたことを再度振り返り、「NARASIA」 とのテーマを掲げて、日本と東アジアとの相互の繋がりを再認識しようという、言わせていただければ、新手の万博風イベントです。

 この符合についてですが、私としては、2010年を意識して 「訳読」 を再開したり、その平城遷都のくだりがちょうどこの一月に来るように計算して作業したりしてきた訳ではありません。
 ただ、私がそのように、自分の出自にからんで、その出生国の 「出国」 を追究する自分自身のプロジェクトを進めてきたところ、その日本では、奈良を中心にした大規模な1300年記念プロジェクトが推進されていたというわけでした。
 そういう次第で、まあ、この鉢合わせ自体は偶然なのですが、私の作業の方はさらに進んで、今回では、794年の平安遷都を扱っています。794年ということは、今から84年後に、今度は京都が 「遷都1300年」 となるわけですが、いわずもがな、これはそうとう先の話です。

 そこで今回の訳読内容に少々踏み込みますが、原著者のバーガミニは、その京都の日本の首都の地位が、794年から1868年の明治維新まで続いたとしています。これは、1603年の江戸幕府の開設をもって、日本の首都は京都から江戸へ移ったと見る日本の常識からすると、明らかな異論あるいは誤論です。ただ、天皇が、 「御簾の背後」 に隠されながらも、そういう形での天皇制支配が依然維持されていたという観点に立てば、バーガミニの見方もうなずけます。(そして今後、そうしたバーガミニの見方がどのように展開してゆくのか、いっそう楽しみでもあります。)
 そこで抱くひとつの仮説なのですが、私は、そういう天皇制の 《隠蔽された支配形態》 の歴史的産物という意味で、私の中に現在も確かに存在しているある日本人的心情、つまり 《他者へ投げかける柔な同朋意識》 ――これはおそらくその強い個人意識によって、どうやらもう西洋人では崩れている――との関連が大いに気になります。つまり、この 《隠蔽された支配形態》 と 《他者へ投げかける柔な同朋意識》 とは、一対の関係にあるのではないかと。

 話は一見、無関係とも見えることに飛びますが、そういう日本が、明らかに中国や朝鮮と異なっている歴史上の制度のひとつに、 「宦官」 があります。宦官とは、皇帝に仕える重要な官吏に性器を切り取った、つまり去勢した男を着かせたという制度です。そのことの起こりは刑罰だったようですが、科挙という極めて難しい試験にパスしなければなれないその要職に、それにパスせずとも、去勢によってそれが可能ということで、自ら去勢して宦官に志願するものも大勢いたということです。
 私は、聞くだけでもグロテスクなそうした制度を持たなかった日本の歴史に、ある安堵と自然な誇りのようなものを抱きはしながらも、そんなことだけではなかろうと、ずっと疑問に思ってきました。
 日本人の農耕民としての発達のし方が、放牧民としてなら当たり前な動物の生殖や去勢技術に由来するそうした発想を持ちえなかったとする説や、大奥にも出入りするそうした男への悪戯予防の措置などとの説もありました。
 そうした諸説の中で、その目的は皇帝側近の要職者の世襲禁じにある、というものがありました。その説を、今回の訳読で述べられている、日本の天皇を背後であやつる藤原一族の存在と対置したとき、 「そういうことだったのか」 と納得するものがありました。つまり、日本のそうした “操り人形劇” において、その人形としての天皇と、その人形師としての藤原一族のそれぞれの歴史的役回りにおいて、その藤原一族がそれほどまでの権力を獲得、維持できたのは、その役が一代で終わらず、幾代にもわたって世襲されたことです。つまり世襲とは権力の形成において、それほど有効であったということです。しかも、それはただの世襲にとどまらず、自家系の女たちを総動員させて、男としての天皇に不可欠な後継者の生産元である女の供給を一手に独占しようとした閨閥手法の繰り広げです。かくして、血縁の断絶が絶対に生じないように考慮された制度が日本の制度であったようです。考え方しだいでは、こうした制度・慣習も、別様なグロテスクと見ることもできましょう。
 ここに、宦官を必要としなかったのは自明なことで、それは、無発想とか無知だったとかということではなく、権力の維持の方法の違いであったことがわかります。言いかえれば、 「万世一系」 とは、まさに、その日本的世襲の実行の結果であったということです。
 あるいは、日本では外敵による侵略の危険が少ないという環境がゆえに、支配者に一代なりともの権力の極大化の必要は求められず、むしろ、時間的な権力の蓄積を阻害する、病気とか不産とかという生物的障害による断絶の予防のほうが、より重大であったとも言えます。
 加えてこうした、方や常に外敵の危機にさらされる環境、方やは平和な中で生物的な発展が継続する環境があって、そういう後者に、その民族が一体であるとする同朋意識をたとえ人為的にも形成させることは、前者がそれを追求するよりはいっそう容易であったことでしょう。
 そういう視点では、中国あるいは大陸文明という外敵同士が接触しやすい環境における 「剛」 な文化・文明と、日本のような海によって保護、隔離された環境における 「柔」 な文化・文明が、それぞれに異なって形成されてきたとしても、理にかなったことであったでしょう。
 したがって、先にあげた天皇という 《隠蔽された支配形態》 と今日の自分がもつ――おそらくおおかたの日本人の意識の基盤に見られる―― 《他者へ投げかける柔な同朋意識》 の対関係も、こうした 「柔」 な文化・文明のもたらした産物ではないかと思われます。

 そのように考えると、 「遷都1300年」 というイベントと私の訳読作業との符合は、「剛柔1300年」 とも言い換え可能となって、重たい課題を示唆しているようです。

 (2010年1月14日)

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