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私共和国 第24回



続-最適配分


 前回の 「最適配分」 の続きです。その解説版とでも言いましょうか、前回のものを書きながら、私には自明なのでその説明は抜きにしていたのですが、 「 『じか播き』 という方法」 を述べるにあたって、実はそこがミソであることもあり、その意味や含みといったものを解説してみることにしました。考えてみれば、そこのところが、その 「最適」 がなぜ最適であるのか、その要点でもあるからです。以下、その要点を三つの角度から説き分けたいと思います。

 その第一は、 《どちらが先か》 、つまり、順序が逆では意味をなさないことです。
 そうした順序の重要性が、 「一日」 と 「人生」 という、人の暮らしにとって最短と最長の “単位” において、如実にあらわれます (ということは、その中間の月や年においても、それは変わらないということでしょう)。
 たとえば、一日での 「配分」 で、私の場合、その午前の頭脳労働と午後の肉体労働が、逆に、午前に後者がきて午後に前者が来たとすると、それはほぼ意味をなさない配分ということになります。
 で、なぜ無意味なのかですが、そこに眠りと目覚めの問題が絡んできます。
 私にとって 《眠り》 とは、脳という臓器が、昼間や過去の活動によって取り入れた無秩序な情報を、身体が眠りについている間に、ある種の整理作業を行ってくれている時間のようです。( 「脳」 と 「眠り」 めぐっては、先にも書きましたが、あらためて述べたいと考えています)。
 そういう次第で、どうやら、夢とは、その整理作業中に発生してくる試しのまとめ方の結果、そういう夢のごときのストーリーを作り出してくれているようで、時にはそれが大いに “当り” な夢宣告となっている場合もあるわけです。ですから、その夢の世界が醸し出していたある印象や感触をもとに、暗闇の中での半覚醒した意識との協業によって、明るくなって他の五感が稼働し始めた後では賑やか過ぎてとても扱い切れない、そうした、邪魔のない、静謐で盲点をつくようなアイデアに到達することが可能なのです。それは多くの場合、かすかな、ほんの手掛かりのようなもので、それをそのままに放置しておいたりすれば、とたんに蒸発して霧消してしまいます。ですから、その吹けば飛ぶようなものは、できるでけ速やかに有形化されねばならず、それは絶対に午後まで、ましてや夜までなど、とうてい放ってはおけない作業なのです。
 そういうわけで、私にとって、この頭脳労働というのは、午前でなければならないのです。
 他方、肉体労働というのは、身体全体の協調作業であって、頭だけさえていてできる作業ではありません。まして筋肉というのは、目覚めてそうとう時間がたたないとフルな働きをしてくれません。そういう意味では、頭は少々疲れていても、午後の時間帯にそれを持って来るというのは、 「最適」 な配置であるわけです。
 また、これはやや後付けの理屈ですが、レストランというその仕事柄、夜はかき入れ時です。したがって、日本で 「ゴールデンタイム」 と呼ばれるテレビ視聴率の最も高い時間帯に家にいることはなく、そのため、テレビを見る機会はたいへん限られるようになりました。お陰で、休日など、時間が取れる場合でも、今やそういう 「ゴールデンタイム」 番組に馴染めなくなってしまい、むしろ、敬遠さえするようになっています。そういうわけで、かっては、この夜の時間帯、毎日何時間もテレビに付き合っていたと思うと、なんとも無駄なことをさせられていたものだと思えてきています。
  「じか播き」 の方法のじか播きたるところは、この、自分の内のささいな訴えを、後回しにせず、それが生きているうちに、ありのままに取り上げることにあります。

 続いて、今度は最長の “単位” である 「人生」 の上での順番における、 《どちらが先か》 の問題です。
 通常、現社会の経済システムでは、人はその青年から壮年時代のいわゆる現役時に、社会にあっての生産の役を務めます。そして、一定の長さのその期間を終えた後は、その貢献への見返りとして、その現役の時に公私ともに蓄積しておいた金銭的たくわえを基礎に、いわゆる定年後の、そうした役割から解放された第二の生活に入ります。そういう順番がその経済システムでは想定されています。あえて言えば、そう強制されており、現役後は、まさか使い捨てというわけにも行かないのでしょう、せめて、消費の役を担なわせられているという寸法です。
 これも、今になって思えばという話ですが、定年を境に、人生の午前と午後とを分けるとすると、以上のような社会のしくみは、上に言った日内の配分になぞらえれば、 「午前にその強制された時間を、午後に自分の時間をもってくる」 話で、私にしてみれば、まるで順序の逆な話です。むろん、最初についた仕事で自分にとっての理想の仕事にめぐりあい、 「午前」 「午後」 の逆転なぞ経験しないですむケースもあるにはあるでしょう。でも、残念ながら私の場合、そういう具合にはなりませんでした。
 その最初の仕事をわずか半年で辞める決心をした際、私が体験した恐怖心は、そういう社会の順序に逆らおうとする者への圧力――「村八分になってしまう」と思えたものでした――が故にでありました。むろんその当時、それを手持ち資源の配分に関する順序の話なぞとは受け止められませんでしたが、しかし、そうした強制に対して、どこか頑くなな反発を感じていたのは確かです。その結果が、ある時点以降、あえてそうした想定から外れる、脱線あるいは脇道ルートをたどるという私の選択でした。今から思えば、圧倒的な多勢に無勢の非力な身ながら、よくぞやったものだと、その無謀さと思い切りの良さをほめてやりたいところです。そして、あえて言いますが、その “甲斐” あって、自分自身の 《商品化の程度》 に、ある歯止めをかけることができました。
 今年の年賀メールに、友人のひとりが、「人生は、常に油断がならないということはもう知ってしまいましたから」 と書いて送ってきたように、私にとって、その商品化に油断をしないでこれたのは、決定的な教訓だったと考えています。
 今日の経済システムの想定では、その自身の商品化を順番として先にすることを前提としています(逆の選択は結局は自殺――少なくとも自損――的行為を意味します)。むろん、誰しも、自分の人生の楽しみのことは頭にあり、そこには、そうした商品化によって換金しそれを蓄積することで、後になってその楽しみを味わおう、あるいは買い戻そう、との配分思想、言いかえれば、それが約束されている社会であるとの建前え、があったはずです。だからこそ、そういう生き方が、広く受け入れられたてきたわけです。
 しかし、私の場合、そうした仕組みに馴染めず、その順番の強制から自分を防衛しようとしました。当然、お金は蓄積できず、その分、自分の資源を、非お金や非商品的なもの、すなわち、 「じか播き」 の対象に振り向けてきました。それは、私にとっては、そうするしかない、どうしても譲れぬ選択でした。そうした模索の到達したところで、たとえば、四年前の 「健康という年金」 と題した両生講座のひとつが書かれたわけでした。
 要するに、 「人生上」 の順番における 《どちらが先か》 の問題となると、社会の強制の規模が大きすぎ、日内で可能であったようなその順番の入れ替えが、個人の努力の範囲ではまず不可能です。そういう圧倒的に不利な試みの中では、ある現実的妥協線を引かざるを得なくなります。そこで、次の議論が出てきます。

 それが、第二の要点である、その換金に関しての 《量的制限》 です。
 私は何も、お金や換金がもつ利便性を否定するものではありません。そうではありますが、それは万能ではないことを忘れないでいたい。つまり、そこでは、換金が有効なものと有効ではないものを区別する思想、あるいは、度の過ぎた換金を避ける、少なくとも、それへの過信はしない、との見方が必要と考えます。
 今日の経済システムには、上記の講座に書いたように、年金制度が重要な役割として組み込まれているのですが、それをその講座では、そうした制度の隠蔽された狙いを指摘しようとしました。つまり、それは、その順番を強制しているばかりでなく、人にそうした想定へ全面的に没頭することを意図していることです。
 今日、現行の年金制度の欠陥や破綻はさまざまに露呈してきていますが、それはあくまでも量的、つまり、必要財源の不足問題としての議論を越えていません。しかし、私がここで 「隠蔽された狙い」 というのは、たとえそれが制度的にうまくいっていたとしても、そこには、お金で買えないものも、あたかもお金で手に入るかに思わせてしまう、つまり、人生の総体がその想定で代替できるかの、大いなるすり替えが企図されていることです。
 すなわち、あちらさんは、この人生上での順番を――私にすれば逆に――強制することで、そうした決定的すり替えが可能であることを見抜いているのです。
 今日の資本主義体制下では、商品とのかかわり抜きに生活することはまず不可能ですが、それを、その利便性の範囲内に抑制しておく 《量的制限》 は、 「じか播き」 の方法のじか播きたるところの第二の要点です。つまり、量的な制限を与えて限界線を越えさせないことも、 「最適配分」 という判断の重要な基準となるわけです。
 定年退職に関係させて言えば、長い現役時代が終わって、定年を境に 「お金と暇」 問答が起ってくることの意味とは、そうした長年の譲歩を、いよいよ根本的に取り返せる時が、ようやくにして、やってきたということであるのです。
 
 要点の第三は、以上の二点を踏まえた、より実用的な視点です。すなわち、私たちの手持ち資源といっても、それは、種類としても量としても、まことに限られた貧弱なものでしかありません。したがって、その限られた資源はそれに個々別々に頼っていただけでは効果は薄く、そのなけなしの自前の資源から最大の効果を引き出せるよう、それらを上手に 《組み合わせ》 る 「最適さ」 も必要となります。
 たとえば、私が寿司修行としての仕事を開始した時、その通勤手段に自転車を発想したのは、一日に長時間の拘束を強いられるその仕事の開始にあたり、その時間的不足を補い、健康維持のために不可欠な運動に代えられ、信頼性・利便性に乏しい公共バス利用を避け、かつ、お金の節約ともなり、そして、車依存をなるべく避けたい自分の傾向などを組み合わせた結果でした。
 それに、その寿司修行という仕事は、それが午後から夜の仕事であるという、日内の順番上の配置という意味でも、午前の仕事を乱さない、都合のいい組み合わせでありました。
 また、ある効果的な組み合わせは、一種のシナジー効果とも言える、相乗する成果をもたらします。これも自転車にまつわることですが、そうした統合した新体験に取り組み始めた結果、それらの相乗効果として、精神面での落ち着きや穏やかな自信感が増進してきていることです。
 あるいは、往々にして相反しがちな、自分に関わる身体的必要と精神的必要を、二者択一的にとらえるのではなく、時間的配置や優先順位を工夫したりして、それぞれに深みを与えうる状況を呼び込む判断を入れることは、一言でいえば、最適な組み合わせを作ることと言えます。
 さらには、単純かつ一時しのぎの対応に終わらず、長期的で多義的な取り組みを実現させるためにも、いろいろな要素の特徴を組み合わせた幅や奥行きのある取り組みは有用です。ことに、一日内でも、あるいは、もっと長期的な期間においても、人間、いつも上調子かつ生産的で居られるわけではありません。時には低調で、気分転換が必要な場合もあります。そういう不活発時向けに、ルーチン仕事や暇つぶしに近いような手仕事などを含ませ、高低粗密いろいろ取り混ぜた生活メニューを用意してておくことが肝要です。

  「 『じか播き』 という方法」 は、ある意味では、手ごわい人生作戦です。一筋縄ではなかなかうまくゆきません。しかし、捉えよう次第では、極めて明瞭かつ単純な方法でもあります。むしろ、盲点のような純朴さを見失わないための方法であるとも言えます。その自らの最適点を発見しそこに到達するために、上記の、優先順序、量的制限、組み合わせ、の三要点を吟味していただいたらどうだろうか、と思う次第です。

 (2010年2月25日)

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