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私共和国《訳読》― 第3回

“ボケ”ずに生きる

どうすれば脳の健康を保ち、認知症を予防できるか


第3章
健康な心臓は健康な脳をつくる



血流と脳機能の関係
 誰においても、人の体のなかで、脳ほどエネルギーを使う臓器はありません。脳細胞は、すばらしく複雑なシナプス連結によって、他の脳細胞と交信する必要があります。そうした信号を伝達するため、情報は神経符号のかたちで送られます。この符号は周波数よるに言語で “書かれ” 、起こされた信号が神経軸索の電線を伝わり、シナプス接合で細胞間をわたる伝達が行われます。このような形で行われる情報の伝達は極めて高価なものを意味します。自然の技術は美的なものですが、他方、維持するのも容易でなく、もし糖分が不足した時、私たちの思考がどれほど “ぼやけてしまう” か、たちまちに理解できます。
 個々の脳細胞を小さな電池と考えてみましょう。その細胞から陽電子が流入するより多く放出されることで、電位差――もしくは電圧――が細胞の外膜上に発生します。周波数による情報はこの電圧を変化させ、細胞の軸索の長い電線にそってその変化を波のように伝達してゆきます。このようにして、足先を動かしたいとの運動命令が頭の先から足の先まで達するのに、千分の50秒もかからないのです。
 ひとつの細胞のもつ電位差は計測可能で、なんとそれは、千分の70ボルトという小ささです。その70ミリボルトという電位エネルギーが、6ナノメーター(1ナノメーターは1ミリメーターの百万分の一)という微細な距離を横断します。これは、もし神経を通常のテレビセットほどの大きさに拡大すると、200メガボルトの電位差を発生するということに相当します。これは、落雷の際の天地間の電位差が50メガボルトと推測されていることと比べると、とてつもないことです。科学者の中には、ただの神経のなすことがこの地球上に存在する最高電圧の集積にも相当すると思いをはせる者もいます。つまり、脳の各々の細胞膜上のそうした高電圧を維持するため、脳細胞に陽電荷を繰り返す何兆回ものイオンポンプ動作を働かせる必要があります。脳のエネルギー需要の主要部分を占めるのは、こうしたイオンポンプなのです。
 神経の世界では、あらゆる必要を働かせるために、ぶどう糖を燃やしますが、重要なことは、10億個もの脳細胞の各々の膜上に、安定しかつ充分高い電圧を維持するということです。それがどういうことかと言いますと、それは、必要な時、私たちの身体機能の統制や、意識、感情、思考そして想像という深淵で神秘的ですらある機能をおこす、細胞同士の互いの交信のためなのです。
 したがって、良好で質のよいエネルギーの供給が適正な脳の働きのためにどれほど重要であるかは明らかなことです。同様に、あらゆるエンジンと同じく、各々の脳細胞は、排気ガスを除去する必要があります。つまり、各脳細胞は、燃焼のためにぶどう糖と酸素の安定した供給と、二酸化炭素の排出を必要とします。それを行う唯一の方法は、血液の流れを経ること、つまり専門用語では、脳血管機能なのです。
 二つの太い内頚動脈が、大動脈――心臓を出た酸素とぶどう糖に満たされた血液を送る主要血管――から枝分かれした後、首をのぼって脳へと血を供給します。脳に入ったあと、内頚動脈は三つの動脈に分かれ、さらに、無数のか細い毛細管に枝分かれします。各々の脳細胞は、栄養豊富な毛細管の微細なネットワークと直接に接触して、ぶどう糖、酸素、ビタミンおよび他の必要な化合物の供給を受けます。そして、細い静脈は廃棄物質と残余物を集め、より太い静脈へと運び出します。こうした太い静脈は集まって頚静脈となり、栄養を抜かれた血液の心臓の右心房へと排出します。この汚れて黒く貧栄養な血液は、肺を通って若返り、そして左心房に入って酸素を与え、再び、元の血流循環を始めます。
 読者は必ずしも、適正な血流や栄養のどういう阻害が脳の働きに悪く働くかを理解する脳科学者である必要なありません。また、血管の健康と精神の健康が結び付けられて注目されるようになったのは、このほんの10年から15年のことです。しかし、その成果は革命的とでも言えます。


 血管の健康と血管性認知症
 明らかなことから始めましょう。血管性認知症は、その定義から、何らかの脳卒中の後、およそ四人に一人の割合で発症する認知症の一種です。血管性認知症はまた、先進国では、認知症のうちの二番目に多発するもので、発展途上国では最も多い認知症です。そこで、血管性認知症を予防するには、私たちはまず最初に、脳卒中の発生を予防する必要があります。ここに、脳と心臓との最初の結びつきがあります。事実上、どちらも同じ血管系統の部分であることから、心臓血管性疾患に関連した病理学とほとんど同一のものが、脳血管疾患にも適用されます。
 今日、心臓病、狭心症、および心臓マヒの原因として知られる脂肪性コレステロールの蓄積、垢、固まりそして炎症過程は、また、脳の主動脈の中の少々上流でもことを起こします。つまり、主要な心臓動脈がはがれた垢片でふさがれると、私たちは心筋梗塞(心臓マヒ)の痛みにおそわれます。同じことが脳の中の動脈で起こると、突如、会話、歩行、あるいは世界の理解ができなくなります。これは、そうした機能を果たす脳の部分がエネルギーの供給を失い、死にはじめるからです。脳卒中を医学用語で脳梗塞というのは、ただの偶然の一致ではありません。
 ということは、血管性認知症を防ぐ最良の方法は、第一に脳卒中にならないことで、それには、広く、血管病を避けることが必要だということです。そして、私たちはすでに、そのためにはどうすべきかを知っています。たとえのん気な人でも、自分の健康の問題となれば、最重要な五つの血管の危険因子のいくつかは知っているでしょう。それらは、喫煙、肥満、悪玉コレステロール、糖尿病、そして高血圧です。
 ですから、血管性認知症を予防できる可能性を最大化するためには、腹の贅肉をとり、規則的な運動を行い、コレステロール、血糖そして血圧を検査することです。私たちはこれらの緩和可能な危険因子について、後に一つの章を丸々用いて論じます。なぜなら、それらと認知症との関連は、極めて密接なものがあるからです。
 ここで、重要点を整理しておくと、もし読者が中年時代に肥らず健康でいたならば、あなたの後年での脳卒中の危険は半減し、したがって、血管性認知症を発する確率もより少ないということです。

 
ちまたの神話、 “喫煙は認知症を予防する” は本当か
 以上から、喫煙者は認知症にならないという、広く言われている誤解は捨て去る必要があります。初期の研究に、非常に高齢になった場合、生涯喫煙し続けてきた人には認知症の発生率が低まる傾向があると述べたものがありました。そうした非常に高齢な人を対象とした研究の問題は、 「生存者効果」 と呼ばれる要素が作用していることです。つまり、90歳とかそれ以上の年齢の人は、明らかに、きわめて丈夫な人で、認知症ばかりか心臓血管病にも耐性をもつ何らかの長生きの遺伝子を備えた人だと考えられます。喫煙がことに人を早死にさせると解った以上、私たちはこう考えてきています。すなわち、 「生存者遺伝子」 をもった喫煙者――タバコを吸い、酒を飲み、他の体に悪いこともいろいろしながらでも生き続けている人――とは、喫煙で 「正常に」 50や60歳代で死んでいった仲間をふるい落としてもなお生き残っている、選りすぐれということなのです。
 ともあれ、正解はこういうことです。オーストラリア国立大学のカーリン・アンステイ(Kaarin・Anstey)教授は19の精密な人口調査――生存者効果を除外し、数年間にわたって結果を追跡(6)――を対象にして、喫煙する高齢者は、喫煙しなかった人より、認知症を発症する危険を80パーセント高める、という発見をしました。つまり、喫煙は心臓病や心臓マヒの深刻な危険因子であるばかりでなく、脳卒中や認知症でもそうであるということです。読者が認知症を避けたいと願うのなら、明白に、喫煙はすべきでないということです。
 
 血管の健康とアルツハイマー病
 私たちは、心臓血管性疾患と血管性認知症との直接の関係をみてきましたが、それでは、心臓血管性疾患とアルツハイマー病との関係はどうなのでしょうか。これは、認知症の分野でもっとも注目され、また論議をかもす問題のひとつです。
 第2章でアミロイド垢――アルツハイマー病の主要特徴のひとつをなす異状物質――がどのように形成されるのかについての古典的理論を見ました。しかし、脳血管性疾病がいわゆるアミロイド連関と結び付けられる場は見られないでしょう。この古典的考えは、いくつかの局面において、もう克服されつつあります。ではまず、人口的傾向から見てゆきましょう。
 心臓に関わる危険因子 (喫煙、高血圧、糖尿病、高コルステロール血症など) をいくつも持つ人が、また、アルツハイマー病 (当然に血管性認知症も) を発症する高い危険をも持っているということは、もはや誰もが認めるところです。だとすると、それはどれほどの危険なのでしょうか。
 多くの心臓の危険因子を持った人は、そうした因子を持たない人と比べ、その後の人生に認知症を発症する確率は、2から3倍も高いと、多くの研究が指摘しています。そしてさらに、脳卒中をもった場合は、血管性認知症ばかりでなく、血管の不健康とアルツハイマー病の関係から、
アルツハイマー型認知症を発症する確率をさらに高めます。
 ここでさらに生物学的側面を見てみましょう。脳の特定の部位に行く血液量を減少させる影響を見るために、人間の異形アミロイド垢をもつように遺伝子操作されたねずみを使った実験が行われました。つまり、こうした動物実験は、アルツハイマー病と脳卒中の両方の一種のシュミレーションです。そうした実験が示したことは、アミロイド蛋白が細胞の間隙に分泌されればされるほど、虚血(血液供給減少) が進むことです。
 
これはじつに注目すべき発見でした。というのは、血液の供給の変動が、アルツハイマー病の病理学的主要特徴であるアミロイド垢の形成に関係しているかもしれないとの、初めての手掛かりを与えるものであったからです。今日では、いくつもの異なったグループや研究者が、さまざまに違った動物モデルを使って、同様な結果を発見しています。ただ、ねずみ類モデルは、人間の脳に起こることのシュミレーションとしてはまだ貧弱なところを残しています。そこで、私たちは人間を研究した証拠をつかむ必要があります。
 英国の諸集団から献体された数百の老人の脳の研究によると、アルツハイマー病の病理学的特徴 (垢やもつれ) と心臓血管疾患の双方の共存に、認知症はもっとも共通して関連していました。これは、何かを方向付けていますが、混乱も与えてくれます。ただそれが私たちに告げていることは、アルツハイマー病のいわゆる純粋なケースは、実際の世界ではまったく一般的ではないことです。もっと一般的なことは、両方の病気の同時存在で、いわゆる、混合認知症であることです(7)。また、血管性認知症がアルツハイマー型認知症の原因となるのか、また、アルツハイマー型認知症が血管性認知症の原因となるのかどうかはまだ解明されておらず、また、両者に共通する第三の要素があるのかどうか、あるいは、ふたつの独立した過程が単に同時に起こっているだけなのかどうかもまだ解明されていません。この分野での伝統的見解に立つ者はおおむね、それらが独立した過程であると見ていると言っても差し支えないと思いますが、私は、血管性認知症はアルツハイマー病の発症――したがってアルツハイマー型認知症と――と密接な関係があると確信しています。
 シドニー大学のカレン・クレン(Karen Cullen) 准教授は、事象をあらたな角度から見た議論にもっと焦点を当ててきています。彼女は、単に、患者の検死解剖による脳のサンプルの病理学にもとづいてアルツハイマー型認知症かそれとも血管性認知症病理かと注目するより、むしろ、両者間に、〔脳内の〕空間的あるいは部位的な関係があるのかどうかを見るようとしました。クレン博士とそのチームは最初、脳組織のサンプルを顕微鏡で観察した時、鉄分の沈着部を明瞭に示す組織着色法を用いました。脳の中で鉄分は、血液中の酸素を運ぶ蛋白質であるヘモグロビンの分解物と考えられます。もし、微細な出血のような血液の漏れがあるなら、鉄分は脳血管の外に見られるはずです。微細出血は、個々の神経に血液を供給する毛細血管に小さな破裂が生じたところに起こります。微細出血は基本的に症状をもたらさず、私たちはそれに気が付くことはまずなく、その病理学的な意味はいまだ未解明です。
 しかし、クレン博士とそのチームがその次に行ったことは、きわめて巧みなことでした。すなわち、鉄分を印した同じ脳の薄い断面を用い、それにアルツハイマー病の旗印であるアミロイド垢を見やすくするため、ベータ・アミロイドに着色をほどこしたのです。ここで読者は、同じ風景を描いた二枚の絵を想像してください。一枚は微細出血を描き、他はアルツハイマー病垢を描いています。この二つの絵を重ねることで、それらがどれほど重なり合っているものかどうかを見ることができます。その結果は、きわめて決定的でした。微細出血とアルツハイマー病垢は 「脳空間」 の中で、偶然の一致と見るより遥かに多く、互いに符合するものでした。微細出血は、事実上、毛細血管の枝分かれ部で、アルツハイマー病垢がその上に直接付いている箇所にきわめて頻繁に発見されました。〔原著には、ここにその “二枚の絵” 写真が例示されているのですが、そのコピーが鮮明でなく、やむなく割愛します。〕
 クレン博士の仮説は、毛細血管の枝分かれ部は弱点部で、血管の壁は加齢と共にもろくなり、微細出血を起こしやすい、というものです。脳細胞の間への出血により、正規な部分への酸素、ぶどう糖、そして他の栄養素の供給がそこなわれ、その付近の神経は虚血状態となります。それは、きわめて局部的な 「微小虚血」 なのですが、アルツハイマー病の発症へといたるアミロイド連関の出発点となることを示唆しています。
 これはきわめて革命的な考えで、垢の発生は、発症過程のなかでもきわめて後期の出来事を意味し、 「初めの口火役」 に微小血管疾患を取り上げるものです。さらに注目されるべきことは、微細出血が、アルツハイマー病の際に最初に影響される部分である、海馬の中で始まるという観測結果です。クレン博士は、どうして微細出血が脳の部分のうちの記憶に重要であるところから始まるまるように観察されるのか、次のように述べています。
 もしこの考えが正しいとすれば、その意味するところは甚大です。第一に、古典的なベータ・アミロイド連関仮説は葬り去られるでしょう。アミロイド垢自身は結局なんら本来の毒性はもたず、むしろ、一連の長い生物学的変化の最後の偶然の出来事であるか、それとも、それに先んじて起こった虚血に対する脳による一種の防御的な産物であるのかもしれません。第二に、アルツハイマー型認知症治療薬の標的は、垢の存在より、微小血管疾患に向けたものへと転換される必要があります。
 しかしながら、私たちはまだ、こうした重要な結論に達するその途上にあります。というのは、たとえ、微細出血とアルツハイマー病垢が似通った地図で描けるとの収穫があったとしても、それは、ある時点での断面にすぎません。ですが、人体の死後解剖による組織を扱う以上、こうした問題は回避できません。したがって、再び、鶏が先か卵が先かの問題に舞い戻り、微細出血がアルツハイマー病の原因なのか、それともその逆なのか、あるいは、そのいずれでもないのか、という問題をかかえることとなるのです。


 認知症予防のための高血圧治療薬
 原因問題に挑み、それと取り組むために、私たちは、人の臨床的な試みに話題を転ずる必要があります。医学においては、要素 X が結果 Y の変化の原因であるかどうかは、厳密に扱われた無作為有対照試験を通じて最終的に結論付けられます。そして、微小血管疾患の危険因子のひとつが高血圧であることが導き出されました。幸い、私たちは現在、高齢者を対象として長期の追跡調査をしたいくつもの高血圧治療薬の大規模な無作為有対照試験の結果を得ています。こうした試験は、心臓マヒや脳卒中から守るように高血圧を制御できるかどうかを決定するためのものでありましたが、認知症の発症率も合わせて分析されました。
 六つの無作為有対照試験は、高血圧治療とその後の認知症の発症あるいは認知障害の程度との関係を調べました(9)。それによる朗報は、こうした試験の全般にわたり、その効果が有効との傾向を示していることです。高血圧治療薬による対象は、その偽薬による対象より、何年か後に、認知障害あるいは認知症により良い効果を示す傾向がありました。ただ、あまり良くないニュースは、これらの傾向のすべてが、統計的な閾値を越えていなかったことです。つまり、三つの試験では、認知症ケースの7から16パーセントの減少という、統計的には意味あるものではないものでした。しかし、その他の三試験は、もっと好ましいものでした。
 PROGRESS (Perindopril Protection Against Recurrent Stroke Study) 試験では、そうした高血圧薬の効果が、再発脳卒中をもつ人の認知症の〔発生率の〕34パーセントの減少という、統計的に有意な値を示しました。同様に、HOPE (Heart Outcomes Prevention Evaluation) 試験は、事前に脳卒中をもつ患者の認知障害を著しく(41パーセント)も引き下げたことを発見しました。したがって、高齢者の高血圧の治療は血管性認知症の発症を抑えるために、非常に効果的であるということです。
 しかし、アルツハイマー病の場合はどうなのでしょうか。意外なことですが、なんらかの薬物を用いたアルツハイマー型認知症予防の根拠をさぐる大規模な無作為有対照試験は、高血圧治療薬の研究からのみえられてきたことです。ヨーロッパのSYST-EUR (Systolic Hypertension in Europe Trial) は高血圧を持った60歳以上の患者、4,695人を試験したものです。試験の主体となった投与高血圧治療薬は、ニトレンジピン (nitrendipine) でした。当初、SYST-EUR試験は四年間にわたる計画でしたが、脳卒中へのたいへん顕著な効果が見られたため、途中二年で終了しました。投与集団では、無投与集団より脳卒中が28パーセント減少しました。また、重い心臓発作は15パーセント減少しました。そしてさらに重要なことは、認知症の発症――アルツハイマー型認知症と血管性認知症の両方――も、50パーセントの減少を見たことでした。こうした統計的に重要な結果は、四年後に出された別の追跡研究報告で確認されました。
 つまり私たちは、SYST-EUR試験から、高齢者への高血圧治療は、アルツハイマー型と血管型の共のの認知症の発症を抑えうる強い根拠をえたわけです。一定の想定上の世界を含めば、六つのすべての試験で同じ結果をえたことであり、医学――ことに臨床神経学――では、これほどみごとに整った結果が得られるのはまれです。ともあれ重要なことは、そのすべてある適正な方向をさす傾向があり、少なくとも、一つの主要で多焦点的で厳密に実施された試験が、そうした結果を確認していることです。このようにして、認知症のほぼ100年にわたる研究の後、私たちは遂に、医学的な武器を獲得することとなったのです。即ち、従来からの良好な高血圧錠です。
 読者は、こうした発見にメディアは大騒ぎで、あらゆる老人たちが、大して高血圧でなくとも、高血圧治療薬を求めて薬局に殺到しているとお思いかもしれません。しかし、私の力の及ばぬ理由から、そうしたことは起こっていません。素人は勿論として、開業医ですら、高血圧治療薬の投与が認知症の発症を抑えることができることに気付いている人は、ほとんどいないように見受けられます。ある研究によると、オーストラリア人の80パーセントまでもが、高血圧と認知症の関係に無知でいます。考えられるひとつの理由は、1990年代にこうした試験が行われた時、私たちは高血圧治療薬の投与と認知症、ことにアルツハイマー型認知症の減少とが関係あると説明するすべをもっていなかったことです。
 だがいまや、脳血管疾患とアルツハイマーの病理を結びつける理論、実験を行う研究団体が増加しています。それには、もちろん、微小出血仮説だけでなく、高血圧治療薬の効用についての考えも織り込まれています。たとえば、高血圧を持たされたネズミを用いた研究は、そうした状態で通常おこる神経消失が、カルシウム拮抗剤の投与が少ないネズミにも認められました。したがって、人を用いた試験で見られる結果は、血圧への直接的な有益効果とともに、脳血管や脳細胞への防御的効果にも関与するものと思われます。こうした二つのメカニズムは協働的で、互いに打ち消しあうものとは思えません。自分の血圧を正常に保つことは、脳卒中と脳血管疾患の双方を防ぎ、かつ、神経を直接に守ることで、認知症をも予防しうるのです。
 メディアの関心の薄さのもう一つの理由は、高齢期の血圧管理自体が混同されがちであることです。中年期においての高血圧は、20−30年後の血管性およびアルツハイマー型認知症の両方の発生率を高める関連があります。これは、今日、いくつかの大規模な疫学的追跡調査で確認されています。だが、逆説的に、すでに認知症を持つ人の血圧は健常者より低い傾向があるのです。ある調査によると、それから下がり始め、そして、認知症発症の前数年で低血圧症にすらなるとの発見をしています。
 高齢者の血圧を測定することは、若い世代より、いくらか高齢者ではいっそう一定していなく、ことに、体の位置によって異なります。また高値(心臓収縮期)と低値(心臓拡大期)の差はいっそう異なります。血圧はいくつかの要素に影響される複雑な数値で、医者を前にすると緊張する 「白衣高血圧」 のように、人為的に高い血圧を示す場合も少なくありません。
 そうしたことから、開業医や外科医は、高齢者に高血圧治療を行う知見には、収縮期高血圧の人のうち、約75パーセントがその治療を受けていません(10)。私の見解では、これは悲しい状況です。しかし、明らかに、高齢者が正常な血圧を保つことは、心臓マヒや脳卒中の発症の面で、彼らの一般的な健康を改善するのです。また、血圧の適正な管理――中年および高齢の両時期での――は、血管性認知症やアルツハイマー型認知症の発症を減らす、高い確からしさをも持っているのです。私は、すべての人が、医師のもとでの血圧測定を定期的に受け、もしそれが正常より高い場合、適正な処置を受けるように薦めます。あなたの心臓にいいことは、あなたの脳にもいいことなのです。


 脳血管-アルツハイマー認知症連続体
 この章から浮かび上がるイメージは、脳血管疾患やアルツハイマー病が、同じ連続体の上に存在しているらしいことです。その両端には、 「純粋」 な形の脳血管性認知症とアルツハイマー型認知症が位置し、それらを古典的な神経病理学者は金科玉条の基準としがちです。しかし現実は、どの高齢者の脳も、両方の病気をも表しうる存在であるらしいことです。
 そうした表層的偶然を克服して、脳血管認知症がアルツハイマー型認知症の発症ともっと深く関連しているらしいことを示す新たな研究が進行中です。ではここで、こうした知見を支持する二つの目覚しい成果を紹介しましょう。
 米国のマウント・サイナイ・メディカル・センターのギウリオ・マリア・パシネッティ(Giulio Maria Pasinetti) 博士は、人間の異形アミロイド垢を生成するよう操作されたネズミに、広く使用されている数百の薬品を与える試験をしました。彼とそのチームが発見したことは、7種以上の高血圧治療薬がその動物の脳のアミロイド垢の発生を抑え、記憶試験の結果を向上させたことでした。この結果がすぐさま人体に適用できるわけではありませんが、古典的ベータ・アミロイド連関仮説は、この発見を説明できません。ある程度、血管とベータ・アミロイドの通路は関連し合っているように見受けられます。
 二つ目は、2007年末に北アメリカで開かれた放射線学学会において、脳映像の実証が示すところでは、高齢者の高血圧が、逆説的に、海馬――記憶を左右しアルツハイマー病で最初に影響される脳の部位――への血流を減少させていることが発表されました。そこで考えられことは、高血圧は、海馬の中に局部的な虚血をおこし、微細出血と他の血管上の病理に立つことで、アミロイド連関〔の考え方〕をアルツハイマー病の方に動かしえたということです。この着想は、それが血管性およびアルツハイマー型認知症の病理と、初期のアルツハイマー型認知症の記憶消失症状との両方を、ひとつの 「整合した」 形に結合したということで注目されました。私が思うところでは、この仮説は今後数年で、いっそう注目されることとなるでしょう。
 そうした機械的憶測を越えて、脳血管-アルツハイマー認知症連続体のもっとも説得力ある実証は、きわめて特定した血管障害――高血圧――の治療が、脳血管およびアルツハイマー型の両認知症の危険をもっとも高い確からしさをもって減らしうるということです。これが起こりうる唯一の道は、血管疾患とアルツハイマー型認知症が何らかの共通要素を分け合っていることです。ゆえに、私たちはここに、最初の教訓を学び取り、また、最初の推薦事項を提示いたします。

 教訓 その1 血圧を健康な範囲に保つことが認知症の危険を減らすことには、高い確からしさがある
 この 「高い確からしさ」 が実際に何を意味するいかについての説明は、この章の最後の焦点を見てください。健康な心臓は健康な脳を意味します。ゆえに、心臓血管病を予防するための推薦事項と同じことが、脳にも適用できます。

 推薦事項 その1 正常な血圧を保ち、それを定期的に検査することを目標とする。

  どうすればよいのか

焦点――医学的確からしさを理解するための実用的尺度

 読者は、医者や医療科学者が 「確かに」 とか 「保障された」 とかとの言葉を少しも使っていないことにお気づきのことと思います。ほぼどの表現にも、 「おそらく」 とか 「多分」 とか 「らしい」 との限定が付されています。それは、当然な慎重さと考えてください。なぜなら、もし、医学において、ある事が確かに保障されてしまうと、不確かさはない、ということになってしまうからです。
 私たちは従って、確からしいことを扱う実用上の言葉を必要とします。この本の全体を通じ、あることがおよぼす特定の結果について形容する場合、私は以下のような用語を使うよう努力をしています。それらの用語は、確からしさの程度によっています――各々のより高いレベルのものは、それ以下のものより、より厳密でより一貫した事実根拠を必要とします。
 例えば、先に、血圧を生涯にわたって正常に保つことは、認知症の危険を減少させる高い確からしさがあると述べました。高い確からしさとの表現は、以下のような〔4段階の〕尺度に照らすと、〔「2」 の〕一貫した疫学的研究、関連する実験に支持された可能な生物学理論であって、支持可能ながら臨床実験による普遍的で一貫した実証を欠くもの、との意味をもったものであることが分かります。認知症の分野では、それは得られたものとほぼ同然です。
 もっとも高いレベルの確からしさから、もっとも低いレベルものを以下にならべます。

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