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私共和国《訳読》― 第9回


“ボケ”ずに生きる

どうすれば脳の健康を保ち、認知症を予防できるか


第9章
身体と精神の運動



 ネズミに回転輪を与えると、心臓がはちきれんばかりに走ります。本当にそれが好きです。若いネズミは、自発的に、一日に数キロを走ります(実際には、ほぼ夜間に)。歳をとったネズミでも、盛んに走ります。また、走るネズミはその脳の機能をより発達させるとの報告が最初になされた時、それが人間の健康にとってどんな潜在的意味をもっているのか、私は疑わしく思っていました。ともあれ、ネズミ類はそのほとんどの時間を食べ物を探しまわり、また、天敵から逃れようとして過ごすのが普通です。従って、自発的に走ることが、研究室で飼育されている実験用ネズミの脳に大きな影響を及ぼすことは驚きではなく、ことに、その特定条件下のネズミが、一生を何もせずに過ごしたネズミと較べた場合はなおさらです。でもこれはネズミの場合で、人間では違うのでしょうか。そうではありません。〔それを疑った〕 私が、完全にかつ見事にも、正しくなかったことが証明されています。


 
人間の運動テスト
 一ダースほどの無作為臨床試験 (最高度の医学的実証) が、高齢者の認知能力におよぼす身体的運動の効果を調査してきました。そして、その結果は明瞭です。身体的運動は、人の精神的能力、ことに、問題解決や多重実行能力や集中能力といった、いわゆる 「実行上の」 認識野に、実に大きな影響を与えます40。さらに、最近の無作為臨床試験は、軽度認知障害――認知症になる可能性を増やす中間的な認知障害の非臨床的状態――を持つ人たちの中で、運動が認知劣化の率を効果的に引き下げることを示しています 41。従って、身体的運動は、人間においても、ネズミ類と同じように、健康維持に役立つのです。
 精神的あるいは認識的活動についての科学的研究 (第7章で既述) を比較してみると、幾つかのことが浮かび上がってきます。第一に、議論の多い効果移転――精神的活動についての文献を混乱させている――の問題は、身体的運動には当てはまりません。つまり、歩行、ランニング、自転車乗りは、記憶テストとかパズル解きとかといった精神的プロセスには少しも関与していません。ですから、身体的運動による認知能力へのプラスの影響は、試験の仕方の影響との恐れもありません。このように、身体的運動の性格は、認知能力の向上とは大いに分離されているために、効果移転の模範的事例となっています。即ち、一つの活動が別の全然ちがった活動を向上させます。私の見方では、これは、身体的運動の分野の最大の強みです。
 その一方、身体的訓練に関する研究からえた効果規模は、認知訓練のそれより小さいように思われます。医学における効果規模は、特定の処置が特定の効果を現す強さあるいは程度を意味します。たとえば痛み (例えば頭痛) を扱っている場合、二通りの処置、つまり、ひとつはパラセタモルの服用、他はコデインの服用とします。どちらの薬剤も鎮痛効果がありますが、対象グループの人数やタイプがよく一致している場合、コデインの方がその効果は大きく現れます。つまり、この方が効果規模は大きいとするわけです。この結果についての別の解釈は、コデインのより大きな効果規模とは、統計的に有意義な結果を得るために、より少ない対象人数ですむという意味です。つまり、気持ちを安らげる音楽を聴くことは頭痛に効果があることかも知れませんが、しかし、この仮説的効果規模は余りに小さいもので、ある効果を証明するには、その実験対象グループを数千人も必要とすることを意味します。
 こうしたことを頭に入れて、高齢者の認知能力について見てみると、身体的運動の効果規模はやはり、認知活動のそれよりいくらか小さいようです。私が、恩師のシャクデフ教授や同僚と伴に行った体系的調査の中で、健康な高齢者の認知訓練の効果規模はおよそ1.1(強い効果)で、一方、身体的運動の同様な調査では、その効果規模はおよそ0.5から0.6(中程度の効果)でした。同じ調査で、私たちはまた、認知訓練がより強い効果をもつのは、訓練後の少なくとも3ヶ月しか続かないことを発見しましたが、いくつかの調査は、訓練中止後もそうした強い効果が続くかどうかを調査中です。従って、認知訓練が(手法的な意味で)移転が適正に示されているかどうかの批判を受けてはいるものの、精神的能力にはより強い効果を生むようであり、どんな訓練の後も、それは長く継続するようです。
 もちろん、最適な方法は、身体と認知の両方の訓練を行うことでです。第8章で三要素を説明した際、ネズミ類は、身体的、精神的そして社会的関わりを組合せた方が、いずれのひとつのみの場合より、より強い効果があることを示しました。それと同様なことは、人間にも適用できるのでしょうか。現在のところ、私たちは極めて暫定的な結果しか得ていません。実際には、シドニー大学のマリア・フィアタロン (Maria Fiatarone) 教授が率いて、私を含むオーストラリアの同僚たちが行っているSMART調査が、断言できる結果をもたらすものと思われます。この無作為臨床試験では、認知症の危険をもつ高齢者が無作為に身体的と精神的の四つの組合せ条件のいずれかを与えらています。それが完結すると(2012年末の予定)、認知訓練、身体訓練そしてそれらの組合せの効果規模を計算できるようになります。私たち医師は、動物のように、患者たちに身体プラス精神活動を組合せて与えることで、それぞれ単独の場合よりより大きな効果が得られるようになるでしょう。


 論争―エアロビックか耐性運動か

 身体的運動の分野で、まだ未解決の論争のひとつは、どのような運動が脳に最適か、というものです。その基本的な論点は、エアロビック運動という脈拍や代謝を上昇させたまま持続するもの(たとえばジョギング)か、さもなくば、耐性運動という短時間に筋肉を最大に使用する(たとえば重量挙げ)か、というものです。
 この論争には長い歴史があり、身体の健康に関して、それらの運動タイプの相対的効果をめぐって、その口火が切られました。最初、エアロビック運動が主体で、ネズミ類の一連の研究が中心となり、生理学や病歴をめぐって、回転輪の使用の効果がほぼ唯一の焦点とされました(ネズミに重量挙げをさせるのは実に困難)。つぎに、身体の健康に関し、耐性トレーニングの効果についての人間を対象とした研究が行われ、何年もの間、 「自分に合った運動」 が焦点となりました。幸い、今日では、ある共通認識ができあがり、少なくとも一般的な健康のためには、エアロビック運動と耐性運動の両方の組合せが最適とされています (なんとも平板な答えですが)。たとえば、米国でのHART−D検査は、糖尿病患者に、エアロビック、耐性、そして組合せの三種を個別な条件としました。血糖値を下げるためには、組合せ型のみが効果的でした。組合せ型の同様な効果はまた、高血圧、骨粗しょう症、肥満症といった、一般的な健康条件に向いていることも発見されました。スポーツ医学アメリカン大学や米心臓学会は、一般的健康に、組合せ型を推薦しています。すでに第3章および第6章で述べたように、そうした典型的な心臓血管への危険因子 (ことに高血圧) は、認知症の危険を引き上げ、また、心臓血管病を避けるどのような処置も、認知症の危険を減少させます。従って、この理由からでは、適正な脳の健康のために、私は、エアロビック運動と耐性運動の両方を推薦します。ただし、高齢者の認知劣化や認知症を予防するために、エアロビック、耐性、組合せ運動を直接的に比較した無作為臨床試験は、まだ実施されていないことを頭に入れておいてください。


 
身体運動後、脳にどんな変化が生じるのか
 驚くべきことに、身体的運動をするという単純なことが、私たちの脳の大きさや機能に直接的で測定可能な変化を与えます。基礎的な段階では、持続的な身体的運動の習慣は、体の代謝効率を向上させ、心臓は血液をより有効に送り出し、肺は空気から酸素をより多く取り入れ、より多くのCOを取り出し、血液をいっそう養分に富ませます。脳細胞を含む体内のあらゆる細胞は、この基礎的な適合の恩恵を受けます。脳は、体が休息している時、身体の代謝の最良部分を要求するので、代謝の健康度の総体的な向上は、運動が脳の働きを良くさせる、もっとも早く直接的な経路です。そこで注目されるのは、高齢者の身体的運動が特に海馬――緊密に記憶に関与し、アルツハイマー病で最初に影響をうける脳の部位――への血流を増すことを、最近の研究が示していることです。
 さらにもっと驚かされること (少なくとも私にとって) は、身体的運動が特定の脳の部位を大きくしうることを報告する研究が増えていることです。この点に関し、米国、イリノイ大学のアーサー・クラマー (Arther Kramer) とその同僚は、この分野を先導しています。彼らは、全脳画像技術を使用して、広く活動的で健康な高齢者は、前頭葉 (実行能力に重要) と側頭部 (記憶に重要) により大きい部分を持っていることを、初めて報告しました。さらに、6ヶ月の中程度のエアロビック運動訓練の前と後の脳をスキャンして、その訓練のないグループと比較して、脳のいくつかの部分の容積が増加していることを発見しました。ことに、前帯状部――込み入った問題に適正な集中力を与える前頭葉の部分――の容積が増加していました。最新の報告では、彼らはまた、一年にわたる活発な歩行習慣は、海馬の容積を明らかに増加させ、それをしなかった比較グループでは予想通り縮小していました42。さらに加えて、その訓練グループでは、海馬の容積増加の程度は、記憶の向上と相関していました。したがって、こうした結果は、身体運動が高齢者に、その海馬の大きさと機能を直接に向上させることで、精神的な効果をもたらしていることの、今日で最も良い立証となっています。さらには、動物研究をもとに、こうしたことが、厳密にどのように生じているのか、もっと詳しい理解をえる研究が進められています。


 
脳の変化の意味
 身体運動と認知能力の間の効果の関係が初めて取り上げられた時、それは純粋に一般的な身体的健康の結果と推定されました。多くの人が、良い血流のせいとか、代謝の良好性のためとか、血管病の減少のせいとかと論じました。これらは、確かに事実の一要素で、既述のように、身体運動は、糖尿病、高血圧、肥満などといった病状を退治する大きな力をもっています。であるなら、こうした血管の危険因子を減少あるいは消滅させることが、いつ脳の機能におよび、何らかの効果へと結びつくのでしょうか。
 また、ネズミ類の自発的ランニングの研究は、運動が、いくつもの中枢機構――脳は中枢神経系を形成している――を直接に通じて、脳機能を向上させていることを明らかにしました。簡潔に言えば、いずれも脳の新たな成長に関連している、三つの最も注目される構造変化がみられます。すなわち、神経発生(新たな脳細胞)、シナプス発生(脳細胞間の新たな結合)、そして、血管発生(新しい動脈)です。
 前章で説明したように、神経発生は神経可塑性の最もみごとな実例で、新しい脳細胞が成人となっても常時産生されているという革命的発見によるものです。環境条件向上は神経発生の強い推進要因であることが発見され、それにより、研究者はすぐに、ランニングだけでも、神経発生を進める刺激となることを発見しました。さらには、高齢のネズミを走らせることで、わずか数ヶ月後、神経発生のレベルを、若い動きのないネズミのレベルまで引き上げることができました。
 神経発生によって、海馬に作られた新たな細胞は、古い部位にではなく、毛細血管にじかに接する特別な部位――いわゆる神経脈管凹部――に現れます。スタンフォード大学のテオ・パルマーは、ランニングが新しい神経を産生するだけでなく、血管発生を通じて、新たな毛細血管を産生していることを、極めて明快に示しました。これは直観的にも納得のゆくもので、もし、新たな脳細胞が生存し続け神経網を形成し続けるためには、こうした細胞は追加された血流をへて栄養分の供給が必要であるからです。そしてさらに、研究者は、健康な高齢者に、ある長さのエアロビック訓練の後、海馬の特定の部位に、おそらく血管発生の増加によると思われる、血流の大変特異な増加を確かめました。
 そうであるなら、運動に関連した神経発生や血管発生は、一年間の訓練の後の人間の海馬の容積の増加を説明できるものなのでしょうか。その説明は大変難しいもので、おそらく、それらによってではないでしょう。というのは、脳の組織容積の最大の構成要素は、圧倒的に、神経発生によてもたらされた毛細血管でも新たな神経でもなく、脳細胞間の膨大なシナプス網であるからです。従って、2年前、私の関心は、シナプス発生と運動との可能な関連におかれていました。そこで、ニュー・サウス・ウェルス大学のフレッド・ウエストブルック (Fred Westbrook) 教授の監督のもとで、私と博士課程の学生ジョイス・シエッテ (Joice Siette) によるハードワークを通じ、私たちは、どのようにして運動が高齢者の脳に特異な効果をもたらすかについての興味深い新たな着想をえることができました。
 それは第一に、高齢のネズミが若いネズミに比べ確かに劣化があることを示すために、ネズミの精密な記憶テストを行う必要がありました。そこで私たちは、意外に単純な行動課題を用いした。それは場所認識記憶課題とよばれるもので、一匹のネズミはまず、自分の住むカゴから二つの全く新しい物体からなる新たで馴染みのない環境へと移されます(図-7参照)。そしてそのネズミは数分の体験の時間が与えられ、そして自分のカゴに戻されて5分間置かれます。この間に、その物体のひとつが新しい位置に動かされ、そしてそのネズミは戻されます。あなたが家に戻ると冷蔵庫が寝室に置かれていた場合、あなたがそうするように、おそらく、そのネズミもそう行動します。この物の位置が違う違和感覚は、格好の検査対象となります。この種の先行体験行動はとても便利なもので、ネズミの記憶を測る物差しとして使えます。言い換えれば、もしある動物に先の体験の記憶がなければ、動かされた物体を探索する余計な時間は取らないでしょう。この課題は、いくつかの変形ができます。たぶん、もっとも有用なのは、その過程では明快単純な変化――物体を動かすより、新しい物体に置き換える――とすることで、これは物体認識記憶の測定ということになります。重要なことは、海馬に関心を集中している人(私のように)は、場所認識記憶は海馬の機能に完全によっていることで、他方、物体認識記憶はそうではありません。ここに私たちは、記憶体系を分別する二つの方式――ただ対象にわずかな変化を与えるのみ――を得たわけで、それは私たちに、脳の機能の二つの異なった側面への考察を可能とさせることとなりました。

   
図-7 年齢とランニングがおよぼすネズミの記憶能力への影響
 
   
 A この図は、位置認識記憶 (通常、動物は物の位置の変化を優先して探索する) テストのために、ネズミのテスト環境の中での物体の位置と順序を表す。
 B 物体認識記憶テストでは、物体の位置は変わらないが、一つの物体が新たな物体と置き換えられている。
  高齢の動物は、位置テストで明瞭な劣化を示し、新しい位置への関心がない (一つの物体に0.5つまり50パーセントの探索時間を使う)。

  物体テストでは、高齢の動物も若い動物と同じほどの関心を示し、位置記憶の障害は高齢のネズミの特性を示唆している。
  このグラフは、位置記憶テストを、高齢と若いネズミに、12週間のランニングをしたものとしなかったものの、その前(Pre) 後(Post) の違いを表している。ランニングは、若いネズミには何らの効果も示していない。
  このグラフは、海馬のシナプス(脳細胞同士の連結)の密度を表している。若い動物の通常のシナプス密度レベル(およそ130)は、ランニング後もほとんど変化がないことに注目。
  それに比べ、高齢の動物がランニング前はその密度が低く(およそ65)、それが自発的ランニング後に劇的に上昇(およそ155)している。したがって、高齢のランニングする動物は、その結果、若い動物より高いシナプス密度をもつ。
 注記 
印を付した水平の線は、統計的に意味ある違いを示す。これらすべての図は、NSW大学のジョイス・シッテの好意による。

 図-7が示すように、これらの行動上の実験から、加齢はネズミの位置認識記憶を劣化させる一方、物体認識には影響しないことが確認されます。そこで、私たちは、若いネズミと高齢のネズミの3ヶ月間の自主的ランニングの影響をテストしました。このタイプの運動は、高齢のネズミの位置認識記憶を若いネズミの水準まで回復させました。私たちはさらに、海馬に何が生じているかを調べると、大変興味ある効果を発見しました。事前の調査から得ているように、年齢は神経発生にネガティブな影響を与えましたが、ランナーの場合は、年齢にかかわらず、およそ50パーセント神経発生を増加させていました。言い換えれば、高齢のランナーは自分の神経発生のレベルを、運動しない若者のレベルまで回復していましたが、若者のランナーのレベルよりははるかに低いものでした。しかし、従来の知見に反して、私たちはまた、神経発生のレベルと位置記憶との間には相関がないことを発見しました。そこで、ランニングはどんな年齢でも新たな脳細胞の産生を増加させるために極めて有効であるものの、ネズミの周囲の物体の位置の記憶力とは関係していないようです。
 一方、シナプスについては、たいへん違ったパターンが見られました。図-7が示すように、運動につづくシナプスの変化のパターンは位置認識記憶と似ており、若いネズミのシナプスの数は変化しませんでしたが、高齢のネズミは劇的に(150パーセント以上も)増加していました。事実上はじめて、私たちは、ランニングが高齢の海馬でのシナプスを、若いネズミのを越えるレベルまで増加しえることを確認しました。さらには、海馬のいくつかの部位でのシナプス数が、位置記憶能力と極めて高度に相関しており、これは、海馬の中の脳細胞の数それ自身ではなく、短期の位置記憶に重要な脳細胞間の連結の密度に現れていました。
 では、ランニングは、海馬の中のシナプス結合をどのように増加させるのでしょうか。少なくともネズミの場合、その答えは、たいへん興味深くまた意外なものでした。ニュージャーシーのラトガース大学のギョージー・バズサキ (Gyorgy Buzsaki) 教授は、以下のような最も注目される実験を行いました。すなわち、彼は、ネズミを回転輪の中で走らせ、迷路を克服させ (右や左へ選び直して曲がるたびに餌を与え)、そして回転輪にもどしてさらに走らせ、さらに迷路を行わせるなどと繰り返しました。そのネズミの海馬には電極がつながれていて、こうした全行程をリアルタイムで、各脳細胞の興奮の様子が観察されました。そこで発見されたことは、回転輪の中をネズミが走っている時、迷路中に学んだ神経の興奮の順序を 「再現」 していることでした。そして、ただ再現しているだけでなく、次にしようとしている迷路での道順の取り方を 「考えて」 いるかのようでした。そしてまさに驚かされることは、回転輪の中で走っている際の海馬の興奮パターンのコンピュータ解析によると、次の迷路での右や左への曲がり方を、極めて正確に、しかも迷ったり間違った曲がり方まで、予想できたことでした。つまり、少なくともネズミの場合、ランニングは認知能力と密接に関連し、外部環境での生命にかかわる事柄を、予想したり再現することを支援していたわけです。
 それではこれと同じことが、人間でも言えるのでしょうか。いまのところ、私たちは、それに答えるべきほぼ何らのデータも持ち合わせていません。しかし疑いなく、海馬は人間の記憶の構成に決定的に関わっており、その海馬の脳全体における容積比率は、ネズミの場合は3.5パーセントであるのに対し、人間の場合は0.5パーセントにもなりません。私たちはその脳を用いて、ネズミたちがするように、走ったり、食べ物をさがしたり、食べたり、眠ったりする以上の多くのことを行っており、海馬の役目は、そうしたことことに関わっています。
 一つの興味深い説は、眠っている時、記憶は、短期記憶 (深く海馬がかかわる) から長期記憶 (大脳皮質全体に分配されておこると考えられている) へと統合されているというものです。私たちは、運動をすればいっそう良く眠れ、この記憶統合をいっそう促進します43。私は毎日歩くことが好きで、その間に私の頭の中のたくさんのことが整理されているように感じます。ネズミ類とおなじように、人間においても、運動と認知過程が関連しているのは極めて確かだと思います。
 近年、私たちはまた、中枢的および身体的成長因子―― (身体的および精神的) 運動によって直接に活性化された分子で、上で説明した細胞成長過程の引き金となる――の役割について、多くの知見を得てきました。米国カリフォルニア大学のカール・コットマン (Carl Cotman) 教授は、この分野での世界的指導者です44。彼は脳由来神経栄養成長因子 (brain-derived neurotrophic growth factors, BDNF) の活性化の重要性を、増加した神経発生、シナプス発生そして血管発生に終る分子経路を起動させることで確認しました。そこでたとえば、もし何かが脳由来神経栄養成長因子を妨害すると、こうした成長過程はランニングの後でも正しく活性化せず、動物は精神的に恩恵をうけないようです。脳由来神経栄養成長因子の産生には、およそ3日間、身体的運動を増加させておくことが必要で、運動中はそれを高く維持し、そして中止の後は、およそ2週間でその効果は消え始めます。つまり、脳の健康という意味では、運動の後のその効果は短命なようですが、この問題に答えるにはいっそうの研究が必要です。
 注目されるのは、運動の後、脳由来神経栄養成長因子そして他の幾つかの成長因子とそれに関連した分子もまた、血液循環全体の中で増加することです。脳由来神経栄養成長因子は、血液脳関門を通り抜けることはできませんので、なぜ、こうしたことが起こるのかは不明です。そうなのですが、それは、脳以外のどこかで、筋肉の成長の引き金となるのを助け、あるいは、血液脳関門の外側から脳内の脳由来神経栄養成長因子へと、成長信号を伝える何らかの分子 (まだ未発見ですが) があるのかもしれません。いずれにしても、まだ証明はされていません。しかしながら、他の成長因子はこの関門を通過し、したがって、身体的因子に運動がもたらした変化は、最終的には脳の健康に影響を与えることが、しだいに広く知られつつあります。たとえば、血管内皮成長因子は血管を刺激し、身体の血管発生を助け、筋肉の成長に血流供給が追いつくようにしています。また、血管内皮成長因子もまた血液脳関門を通過することができ、血管発生や神経発生を助け、神経発生がおこっている神経脈管凹部に 「栄養補給する」 効果をはたします。
 全身的と脳の両方の健康に関連する身体的因子のその他の例は、インスリン成長因子です。運動は血流の中のインスリン成長因子に強いプラス効果を与え、続いて血糖値を下げるように働き、糖尿病の発病を予防します。また、インスリン成長因子は血液関門を通過し、運動が過度な血糖の与える有害な影響 (第4章で述べたように) から脳を守るというメカニズムを果たします。それと対称的に、運動は多くの炎症性シトキニン (別種の身体的因子) を減らし、関節炎、アテローム性動脈硬化症や再び糖尿病といった炎症性疾病の予防を促進する変化をおこします。こうした炎症性因子のいくつかも血液脳関門を通過でき、運動後のそれらの減少は脳を炎症性損傷から守るように働きます。
 このように、身体運動はいくつかの異なった生物学的経路をへて、プラスの脳の変化をもたらします。それらのいくつかは中枢的――脳内および脳にのみ関わる――で、他のものは身体的――身体総体の健康が脳の健康へと反映する生理学的適応に関わる――です。中枢的なメカニズムと身体的メカニズムのどちらが重要かは、答えるのが困難な問いで、脳に与えられる多くの二分法のように、誤ったもののように思われます。コットマン教授がそれを以下のようにうまく要約しています。


 図式的モデル
 運動が脳の健康にどのように影響をあたえるのかについて、図-8は、それを図式化したものです。身体的そして中枢的という二つの経路は必須で、多くの身体的因子が血液脳関門を通り抜けて、脳の構造と機能にプラスの影響を与えます。

 
 図-8 身体的運動が脳の健康と機能を向上させる多元的メカニズム 



 身体的因子が脳の機能を変化させるとの考えは、薬品業界に並々ならぬ関心――錠剤化した “飲む運動” の開発――を引き起こしています。米国のあるグループ (オーストラリアのマイケル・ダウンズ博士を含む) は、運動したネズミの筋肉に発生する身体的因子の特定類種を研究することに着眼しました。これらの分子類はすべての細胞の代謝を整えるために必須で、こうした複合物を過剰産生するよう操作されたネズミは、(運動なしで) やせはじめ、また、走る機会が与えられると 「スーパーランナー」 となり、普通のネズミの二倍の走る能力を示しました。こうした分子複合物を普通のネズミに餌として与えると、それらも細身の身体となり、ランニングの耐久力を増しました45。さらに別のグループは、2011年に、同様の薬剤が投与されたネズミもまた、記憶について (その他は行っていない) の脳機能を助け、海馬の神経発生を増加させたとの報告をしています。
 ただここで重要なことは、これらのいずれの効果も、日常的な 〔本当の〕 運動ほどには向上しなかったことです。さらには、これらの代謝薬にはさまざまな副作用があり、薬局で買える商品となる以前でも、人間対象の試験にこぎつけるまでにさえ、多くの研究が必要です。これは個人的な見解ですが、私は、身体的運動が全身的健康ばかりでなく脳の健康にも影響する驚くべき多元的な効果を、一つの薬剤が全面的に代替できることには、懐疑的です。



 結論

 様々で良好な臨床試験や基礎科学は、身体的運動が脳の健康を促進させることに効果的であることを示しています。それはまた、運動が高齢者の認知能力の劣化を減らすことが大いにありうることと示しています。こうした理由から、身体的運動は、認知症予防のための三要素の一つとして挙げられています。

 教訓 その6 身体運動は脳の健康と関連し、日常的な身体運度のレベルを上げることは認知能力を維持する助けとなります。

 推薦 その7 身体活動と運動を毎日の生活に取り入れましょう。


 では、どれくらいの運動をすべきなのでしょうか。そしてそれはいつ脳の健康へとおよぶのか、私たちはまだ、どれだけをし、どのタイプの運動が最適なのか、充分には解っていません。しかし、はっきりとしていることは、身体的運動の比較的穏やかな増加であっても、たとえば散歩を、活発に週三回、各45分することは有効です。前章では、運動のいくつかの例をあげました。それらは、ただ良い身体運動を代表しているだけでなく、精神的かつ社会的かかわり――三要素による理想的混合――をも含むものでした。
 それが、いつ全身的健康に効果をもたらすのか、アメリカン・スポーツ医学大学と米国心臓学会は、エアロビックと耐性運動の組み合わせを、以下のように推薦しています。

 65歳未満の人は、少なくとも、週5回、30分の穏やかな運動をすべきです。穏やかな運動とは、最小、活発な散歩です。それに加えて、少なくとも週20分の、重量挙げ、腕立て伏せ、仰向き腹筋運動をすべきです。
 65歳以上の人は、週3から4回の30分の穏やかな運動が薦められます。ここでの穏やかなとは、重すぎとも、軽るすぎとも感じない運動のことです。それに加えて、主要な筋肉群を強めるための運動が、連続しない週2日、推薦されます。日常的なストレッチとバランス運動もまた、転倒を防ぐために望ましいものです。


 つづき
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