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 憲法改正考(その4)


「憲法論争」ほんの小手先



 先日、当地シドニーで、私の息子世代にあたる日本人の若者と、別掲の訳読解説で私が取り上げている 「罪意識の共有」 について話し合ったことがありました。
 大変な働き者で、かつ、自称 “右翼” という彼は、「自分にも、以前にはそういう意識はあったけれど、もう、今はない」 と断言します。
 彼は典型的な 「氷河期」 世代で、社会に出て以来10年以上、フリーターの職歴しか持てませんでした。
 3年前、そういう日本に嫌気がさしてオーストラリアに渡ってきたのですが、その当地も、世界中から同じ思いでやってくる同類なハングリー人種たちで、この広い国土も、次第に満杯になりつつあります。
 すなわち、生存競争は国内はおろか国際規模のものとなり、気象上は温暖化かも知れませんが、その生活条件は、まさに、グローバルな 「氷河期」 に入っています。

 そういう彼が続けます。「そんな意識で、下手に出るようなことをしていたら、何をされるかわからない。やつらは本当にあぶないやつらですよ。ことに韓国人は。いいやつもいますけど。」
  「バッパ宿」 と俗称される、バックパッカー向けの安宿で、一部屋に四人も五人もシェアーして雑居していると、プライバシーなどあったものでなく、それどころか、もめごとや言い争いなどは日常茶飯事で、携帯やノートパソコンなど、私物が盗まれるのも平常事です。そういう一刻たりとも気の許せない、苛烈な現実の中で生きているのが彼らです。
 そういう彼が、現実に鍛え抜かれて、そうした 「罪意識の共有」 を “克服” してきているのは確かです。そしてそこには、まさに、 《戦って》 生き抜いている姿があります。

 このようにして、作為的に作られた 「罪意識の共有」 がともあれ乗り越えられてゆくのは、歓迎されるべきことです。しかし、その克服の仕方が、そうした “グローバル生存競争” の結果であるとするならば、それは、命令下ではなく今度は自主的に、いずれも、 《強兵》 となるべき必要の産物、とでも言うべきことのごとくです。
 だとするなら、むごたらしいことも “お互い様” のことで、その実行を、 「罪意識の共有」 を媒介としてなした日本人とは、それが 「共有」 として働くほどに、実に特異な “やわな” 心性、少なくとも顕著な “きずな”の持主ということとなります。
 2013年の今が、ほぼ一世紀のサイクルをもつ歴史の繰り返しと想定すると、前サイクルは、1913年ごろということとなります。そして、当時の世界は、大恐慌を経験して行ったのですが、そのサイクルが働くとすると、これからやってくるのは、 《世界大恐慌 Part 2 》 です。
 もしこの想定が当たっているとするなら、 「憲法論争」 なぞ、ほんの小手先、ということとなります。

 憲法第9条が、 《世界大恐慌 Part 1 》 の、そのいかにも重たい教訓の産物であるとするなら、そこに謳われた 《平和原則》 こそ、それを 「2/3条項」 や 「押し付け憲法」 といった目先の次元でなく、人間が膨大な犠牲の上に歴史から学んだ原則として、1945年までの15年間に何が行われたのか――アジア太平洋ばかりでなく、ヨーロッパにおいても――、再度、思い起こす時を迎えている、ということとなります。

 (2013年7月7日)


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