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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第21回)

ある種の「迂回」だった江戸時代

 お忙しい読者には繰り返しとなりますが、前回掲載の部分に関連して、あらためて触れておききたいことがあります。
 日本と近隣諸国との関係ですが、日本の海外侵略の皮切りは、秀吉の朝鮮出兵(1592-96 および 97-98)でした。蒙古の二波にわたる日本侵攻が失敗したように、秀吉の二度にわたる試みも失敗に終わりました。そしてその後の日本は、20世紀前半の戦争の時代まで、押し寄せる西洋の波により、むしろ “受け身” となって海外への進出意欲は内封されます。(ついでながら、江戸文化の爛熟は、この内へと閉じ込められたエネルギーによって花咲いたのではないか。)
 本稿第18回の「付き合い下手」 では、もし西欧が来なかったら、日本でも遅かれ早かれ産業革命がおこり、日本の西進がおこっただろうとの “空想” を述べました。つまり、日本の 「受け身」 の時代はおこらず、外への進出はその度合いを高め、アジアの東、南部のいくつかの拠点を植民地化しながら富を蓄え、それが産業革命をおこす物的基盤となっただろうとの想像です。
 むろん実際の歴史はそうとはならなかったのですが、そうしたある意味での 《迂回》 を経て、20世紀に入って、この 「空想」 は事実となります。
 こうして訳読を続け、他の史料にも当りながら思うのですが、実は、この 《迂回》 の期間が江戸時代の二世紀半で、ここ数回の訳読のように、幕末の大混乱を経験しながら、その迂回が修正されて行ったのではないか。つまり、日本というアジアの東端で独自にかつ隔離されて発展していた島国が、充分に大きかった地球のそういう時代が終わり、狭くなって混ざり合い出した変化の中で、西洋というひとつの “世界標準” に平均化されていった過程が、江戸時代から明治そして、大正・昭和の時代であったのではないか、との見方です。
 歴史に触れることは、いくつもの可能性の中から、そのたったひとつしかが結果的に成立しなかったという、歯がゆさや恨みあるいは哀惜の感覚を伴わないではいられない体験です。そういう意味で、江戸時代がなんともいとおしく思えてくるのですが、その他方、日本人は、明治、大正、昭和の時代――それはまさしく 「西洋化」 の時代であった――も事実としてくぐってきているのであり、その 「和」 と 「(西)洋」 という、対極的ともいえる両面の融合こそ、江戸以降の日本の歴史であったのでしょう。
 言い換えれば、その 「和」 という内向した平和(あるいは懐柔)の要素と、 「洋」 という外向した攻撃(あるいは戦い)の要素の混在です。そういう異質な両面が混ざり合ってゆくきわめて入り組んだ過程が、幕末以降、今日までに至る歴史であったのでしょう。それはあるいは、後者が物理的、暴力的であったのに対し、前者が、文化的、調和的であった対比とも見えます。
 前回の 「 『二元論』 」の向こう」 も、その辺にあるのでは。
 
 では、そうした入り組んだ混ざり合いの詳細、今回の訳読へとご案内いたします。
 

 (2010年4月15日)

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