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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第81回)


近衛首相と阿部首相



 一国の元首の選択を、片や世襲による不動で固定した人材にたより、片や名乗り出による動的で幅広い人材にたよる場合、むろん前者に選挙手続きは不要――その代り分厚い取り巻き集団が必要――で、他方、適材適所な人選となれば後者が優ります――選出制度の維持が必要ですが。
 前回に述べた一国の育ちが「一人っ子」か「兄弟っ子」かという違いは、政治制度上では、上に挙げたような、元首の選出方式上の違いにも置き換えられていたのでしょう。つまり、「一人っ子」という争いの少ない環境では、自ずから、元首の選出方法や元首自身への疑問や議論は発生しえません。他方は、兄弟争いあってこそであり、それを前提とした産物であるわけです。
 そういう、形式的威厳や伝統がゆえの選択に重きを置く国家と、実務的最適な人物や政策の選出に慣れ親しんだ国家とが対峙した場合、古代のシャーマン先導の戦争ならいざ知らず、近代の科学技術を駆使した戦争においては、どちらがその有利さをもっているか、戦わずにして明らかです。
 19世紀の世界において、帝国主義的覇権が争われていた時代、「一人っ子」育ちに甘んじていた国家が、兄弟争いに百戦錬磨な外来者と遭遇した時、幸か不幸か、にわか仕込みの舶来品のコピーに長けてしまっていたがゆえ、本心は不本意でも、にじり寄るその外来者の挑戦を受けて立たざるをえないことになってしまいました。いうなれば、追い込まれた、あるいは、挑発に乗せられてしまった、戦争です。
 この訳読も、いよいよ、真珠湾攻撃前夜までにやってきました。しかし、ここまでの経緯の中に見出される光景は、まさしく、やりたくもない戦争に追い込まれてゆく、なんとも切ない国のありようです。少なくとも、その時の世論の多数を反映させた国家政策決定がもう少しでも採られていたならば、世襲君主の威信も面子問題もなく、健全かつ抜け目なく、戦争回避の道を進んでいたことでしょう。
 蛇足ながら、この間、国家装置の中で、実務的政策判断をまさに近代的に示し得ていたのは、唯一、山本五十六の真珠湾攻撃計画であり、それはその現実性と論理性を踏んでいたがゆえに、短期での勝利は見込まれながらも、長期での敗北は断言され、ゆえに、そうした無謀な開戦は自ら否定せざるをえないものでした。そういう意味では、彼は近代的な装置として、軍人の責務と立場を全うしたわけですが、その精神は、政治界にはありませんでした。
 そうした国全体の政策実行に、実務的、組織的整合性が貫徹されていない時代、リベラル、学術、陸軍、海軍などの各部分的使命を背負った実務的指導者たちは毛嫌いされ、結局の首相をつとめたのは、優柔不断がゆえに角がない、三期にもわたる、近衛文麿でした。
 実質的判断力を欠いたイエスマン閣僚たちがいくら議論を重ねても、しかも、その頂上に天皇の大権が天をおおい、進められる話とは、最終的には天命にあずけるとの姿勢でした。かといってその天の側も、建前ほどには万能ではありえず、結局は取り巻き達の助言に頼るといった形で、一種の堂々巡り体制とでもいえる、最終的には誰も責任を取るものがいない仕組みとなってゆきました。
 ことに、1941年9月6日に行われた御前会議では、訳読に描写されている如く、天皇出席の会議ということで、議論は極めて形式的な流儀でしかなされていません。しかも、最高権威者の存在をおもんばかる配慮が不可欠であって、個々の発言者の議論の内容に、発言の実質的意味とそれに付随する責任との関係の一致が、誰にも欠如しています。自分の判断と良心からでは、大国米国を相手とする戦争に、多少の温度差はあれ、誰もが疑念を持っているのは確かであるにも拘わらず、誰も、 「王様が裸」 だとは言えなかったのです(解任させられた元外相の松岡がそこにいたら、彼特有の引っ掻き回し議論をぶっつけたのでしょうが)。

 ところで、12月16日の総選挙は、かっての自民党全盛時代のよみがえりを思わせるかの結果となりました。
 この自民党の大勝は、その党自身、どうしてここまで勝てるのか不思議なほどの、 “ミラクル” な結果でした。与え過ぎです。
 私のようになポスト還暦の世代から見れば、60〜80年代の政治シーンの再来かの思いさえ頭をよぎります。おそらく、消去法式にふるい残された結果としての先祖帰りなのでしょうが、 「いつか来た道」 の感はぬぐえません。こちらのニュース報道に言わせれば、「Back to the future.」 です。
 しかし、この訳読で、太平洋戦争前夜を見てきていると、時代背景に差はあれ、三たび引っ張り出された近衛首相と、二度目ながらも、やはりかつぎ出された感ありありな阿部首相との間には、ともに権力者というにはおよそ軟弱な、神輿に乗せるに最適な御曹司像が重なり合います。すなわち、どこか通底する、かつぎ手側の近似した都合が感じさせられます。
 ただし、二人をかつぎ出させた元締めという点では、戦前と戦後の、主の違いが明確に働いており、今度のは、もっと遠くの主が、再度かつより露骨に、この従順な国民を、難儀に向わせようとしています。
 「一人っ子」育ちは、どうも、人付き合いにブレが出る。オール・オア・ナッシングに傾きやすい。日本人も、もうそろそろ、その辺に洗練されてきてもいいのではないか。


 それでは、第25章へ、ご案内いたします。全章通しての掲載です。

 (2012年12月21日、写真はウィキベディアより、写真に修正あり



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