「天皇の陰謀」 もくじへ 
 「両生空間」 もくじへ 
 HPへ戻る
 

<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第83回)


青年期の蹉跌


 この訳読とその解説は、その初回が2006年6月ですから、途中、2年半ほどの中断があったとはいえ、すでに6年半ほどの長きにわたっています。
 もし、このロングランの作業に、ずっとお付き合いいただいている読者がおられたとすれば、この間に、私の姿勢も微妙に変化してきていることに、お気付きかと思います。
 まあ、他者の視線の意識はともあれ、その本人としての “自覚症状” を端的に申し上げれば、この 「戦争」 つまり1945年8月に終結した 「中国・太平洋戦争」 への理解の深化にともなう見方の変化です。それなりの全体像がなんとかつかめるようになった結果の、なんとも不可解だったその “怪物” への自分なりの見方の醸成です。還暦を越えるこの年齢になってのようやくの到達で、なんとも恥ずかしい限りですが、少しは、長年の課題の荷を下ろしつつあるとの感はあります。

 そこで、ここから先が微妙なのですが、誤解を恐れずに言えば、この戦争へのある種の否定的見方の見直しです。少々象徴的に言えば、 「よくやった」 とでも当時の日本人に声をかけたい、そういう心境の形成です。もちろん、その戦争を賛美する意味では決してありません。先にも、私はこの真珠湾前夜までに至ってくる曲折を、 「切ない」 という表現でもって表しましたが、何か、そういう個人感情を抱かせる、一連の他人事でなさがそこにあります。少なくとも私はそういったものを発見してきています。ことに、同じく先に書いた擬人化した表現―― 「二重 “国” 格」 からくる一種の成長上の歪み――を改めて念頭に置くならば、それはあたかも、日本の “青年期の蹉跌” のようにも見えてくるのです。
 つまり、私として、そういうきわめてアンビバレントな心理の出現です。むろんこういう私の変化は、今日の日本の動向である、いわゆる 「右傾化傾向」 と同列のものと受け止められかねないものです。それを承知の上で、それでも、そのように表現したい、私の心境があります。

 一方それは、ともあれ戦争行為にほかならず、国が率先して行う官制人殺し、国家暴力行為の話です。つまり、 《国際紛争解決の手段》 として、その戦争は、選択すべきであったのかどうかという問題です。むろんこの問題は、どこまでも現実政治上の判断の是非で、厳密なる軍事、経済、国際政治上の勝ち負けの計量の問題であったはずです。それにそもそも、そういう手段にうったえなければならない、大義があったのかどうかとの問題も含むはずです。
 今回の訳読に述べられている開戦への最終議論にあって、真珠湾とか南方方面とかという個別作戦上の計量では、その厳密性は貫徹されていたようです。しかし、総体的、つまり、長期戦必至の国家戦略においては、実に空論的であった様子が述べられています。さらに、その結果の理念と現実の空隙は、最終的には、国民に対する締め付けと精神論で充填されるという、そら恐ろしい辻つめ合わせもみうけられます。

 それまでにして開戦の決定がなされるのですが、最終決断に際しては、もはや引き返すことができない地点に至ったという 「止む無い」 選択であることが真面目に強調されています。つまり、本来ならそれは責任追求の極みの話であるはずなのです。だのに、戦争を国際紛争解決の手段として許容し合っている時代――つまりそういうパワーポリティックスの中――に舵取りをしてきたはずでありながら、そこで天皇を含む国家首脳たちに共有されていた意識は、なんとも情勢分析においてのしたたかさと冷徹さを欠く 「空論さ」 であり、おそらく、だからこそ、引き時を見誤り、深追いをしすぎて、もはや、「引き換えし不可能」 に至っていた有様なのです。言い換えれば、そうはめられてしまった、選ばされてしまった戦争であった、と言うしかないような、そうしたお粗末な経緯であったことです。
 そこで、いくらなんでもそんな不甲斐ない経緯がありえるのかと、植民地政策を進める西洋と、それの犠牲になる東洋という対比で見ると、日本は、片や、現実行為としてはその植民地開拓にまぎれもなく関わりつつ、他方は、自らの植民地主義者としての側面を、そういう東洋の庇護者、あるいは、同列な被害者としての理念で合理化していた二重性に気付かされます。そして、そういうどっちつかず性、あるいは自己矛盾がゆえ、枢軸三国同盟というそうした西洋の “異端” 部分への安易な合流と依頼の一方、英米蘭、ことに米国の熟達した国力の圧力に真っ向からさらされます。これがその 「止む無い」 の現実的意味であり、そして最後には、戦争という打ち出してみた自己の苦難の政策も、完敗を舐めさせられるわけです。
 前回訳読の冒頭に掲げた地図、 「日本帝国の拡大」 を見るにつけ、その瞬時のあだ花のような広大な国土に、実に複雑な思いを抱かされます。
 ちなみに、その勝者としての米国は、国際紛争解決の手段としての戦争を、当時は言わずもがな、今日でも使用している国です。それが、東京裁判では、 “後出しじゃんけん” ともいうべき、「ヒューマニティへの犯罪」 という論理を持ち出して、こうした日本の持つ自己矛盾を、人道上の犯罪者としてまつりあげ、完膚なきまでに叩きのめしました。しかも、天皇という、戦勝国側の論理を通せば最も罰せられるべき最高国家指導者を放免して、自らの戦後日本の君臨支配の道具にしたという用意周到さをもってしてでした。
 つまり、そういう国際政治力学上の意味では、日本は、なんとも成り上がりの “小僧っ子” に過ぎませんでした。言い換えれば、経験豊富な西洋列強が、自分の勝てる土俵を常に形成、維持し、相手を常にそこに引き込んで勝負してきた、近代における趨勢を見落とすことはできません。
 そうであったからこそ、戦後の私たちが信じさせられてきた一連のその戦争談とは、結局は、そういう日米支配者層同士が結託した、日米の国民向けの、フィクションであったのでしょう。

 そこでです。もし私が、発達障害を負った子を身内にもっていたとするなら、その子のたどった 「蹉跌の道筋」 を、切なく、いとおしく、受け止めてしまうことでしょう。
 もはや現代の日本を、そうしたハンディキャップを与えうる国として見るのは妥当ではないでしょう。しかし、少なくとも、昭和前半までの日本には、その末期ながらも、そうした地球史的なギャップの反映はまだ残されていたと思います。
 そうであるがゆえに、私は当時の日本の歩みに、 「よくやった」 と声をかけたい心境にかられるのです。

 本訳読上では、日本は、これから、まさにその 「はめられた」 戦争の真っただ中に突っ込んでゆきます。今日の私たちには、その結末が自明であるがゆえに、その敗れてゆく光景はともかく、痛ましい限りのストーリーであるでしょう。

 それでは、第26章 真珠湾 (その2) へ、ご案内いたします。

 (2013年1月22日)


  「天皇の陰謀」 もくじへ 
 「両生空間」 もくじへ 
 HPへ戻る
 

          Copyright(C) 2013 Hajime Matsuzaki All rights reserved  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします