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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第93回)


(続)罪意識の共有


 今回の訳読の初めの部分で、日本人が無条件降伏を受け入れられなかった理由を、バーガミニは、 「アメリカからの制限のない報復への恐れから」 と書いています。前回に述べた 「罪意識を共有」 させるためにあえて残虐行為の実行を命じ、それによって日本人にトラウマとして根付いた 「自縛」 が、今度は、日本人全体にも及んでいたとの認識です。
 この部分を訳読しながら、私は、子供の頃に周囲の大人たちが言うのを聞いていた、遠い記憶を思い出しています。それは、敗戦間際のありさまとして、 「アメリカ軍が進駐してきたら、何をされるかわからないから、ことに女は隠れなきゃならなかった」 といったことを、たぶん一度ならず、聞いていたことでした。そして私は子供心ながら、何か “過剰な警戒心” がそこにあるように感じていました。
 そしてこれは、今は亡き母親が、家庭の団欒か何かの折りに、英語のえの字もしらぬはずの母親が、その英語の断片を含めてこう話していたこともあって、はっきりと記憶していることです。それは、私を宿して大きなお腹をしていた時のことです。母親が外出先かどこかで、若い米兵たちとすれ違った時、彼らが母親のそのお腹を指さして、 「 『ラージ、ラージ』 と言われて怖かった」 と言っていたことです。むろんそれだけで、母親の身の上には何もおこらなかったのですが、そう話す母親には、どこか自分の抱く恐怖心と、米兵たちのいわば当り前な平穏な態度とが、不似合なギャップを作っていた、何かそんなニュアンスが漂っていた話でした。
 私は66歳のこの年まで、日本人同士間のさまざまな 「ニュアンス」 について、それはそれで当り前なことと思って過ごしてきました。ただ、上記の母親の語るエピソードに漂う 「ニュアンス」 の意味について、それがそうとはっきりと気付かされたのは、上記のような、バーガミニの記述の訳読がゆえにでした。
 つまり、多々ある日本人同士の 「ニュアンス」 のある一部に、ことに日本人がどうも特異に持っているものとしか考えにくいものがあり、その一種、過剰にかたくなな身構えやその “音感” が、その他のたいへん健全で好ましい国民性と比べて、やはり確かに不似合なのです。
 それは、上記のように、 「自縛」 というキータームを与えることで、納得するところが多いのです。


 今回で、山本五十六が “戦死” します。劇的な死です。
 この死について、バーガミニは、それを 「暗殺」 と表現し、さらに、この 「暗殺」 を目的とする作戦を、ルーズベルト大統領は許可していたと論じています。
 この、山本五十六の “戦死/暗殺” が、ホワイトハウスをも巻き込む 「大統領命令」 によるものであったのかどうかについては、少なくとも著者の執筆の当時までは機密事項とされて、関連資料は公開されていないことです。それをあえてバーガミニは、自分の調査から、 「暗殺」 と断定しています。
 バーガミニのこの 『天皇の陰謀』 は、日本社会では一種のげてもの本扱いされていて、とんでもない悪書のひとつです。
 むろん、そう扱われるに足る厳しい追及や分析がこの本には含まれていますが、それは、日本側だけに向けられたものでなく、アメリカ側にも、同じく向けられていることです。
 そういう意味で、この本は、偏った見方のものではなく、実に、バランスのとれた “良書” であると私は考えています。
 その点では、類書の中で、たとえば、Sterling Seagrave の The Yamato Dynasty や、Herbert P. Bix の Hirohito and the Making of Modern Japan (両書とも邦訳あり)は、その西洋史観への偏りや設定の疑問の浅さにおいて、両国からさほど “悪書” 扱いは受けておらず、無難な地位を保っています。
 前回にも書きましたが、そのバランスとれた突っ込みの鋭さのゆえ、それが彼の 「命とり」 ともなりました。

 それででは、「崩壊する帝国」(その4)、へご案内いたします。

 (2013年6月21日)

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