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            巻末脚注(9)

 (2012年1月22日現在)


(第四部   満州侵攻)

 第十六章 追放国家(1932年-1933年)

 (1) Grew, Ten Years, 13-14。
 (2) New York Times, Jan 24, Feb 10, 1932。
 (3) Grew, Ten Years, 17-21。
 (4) 同書、38-39。
 (5) 同書、76。
 (6) この節は、第6章の最初の「未熟児」の節の脚注(1)でも登場した、ある貴族とのインタビューに基づいている。再び注記するが、筆者(バーガミニ)が、そのインタビューの際、小泉信三の話をすると、彼はその内容を否定しなかった。そうした密通の話は Koyama, 73-87 および Mosley, 104-7, 116-18 でも部分的に確認できる。本節に述べる筆者の見解には、さらに、人工授精の話と正確な日付を加えてある。筆者は、日記物にある関連言及あるいはあいまいな日付の正確性については、自昨の年表によっている。そうした日記物には、木戸 『日記』、185-91, 123、および 原田、8: 305, 2:344-55 がある。筆者は、木戸の 「胎中天皇」 という引用用語をすべて、人工授精の話の確認として用いた。木戸はこの用語を、1931年5月11日 (木戸 『日記』、76) の見出しに使い、その最後の使用は 1937年11月27日(同書、605)で終わっている。 「胎中天皇」 とは、天皇のことに個人的な私事についての宮廷日記係の古代からの婉曲表現である。木戸がそれを試験管皇子の特定用語としてあえて採用しているのは、筆者にとっては、いくつかの理由があるように思われる。第一に、「胎中天皇」とは極めて適切な表現であること。第二は、原田も本庄も、その用語を持ちいていないこと。第三に、木戸はそれを彼の意味することとして、 「天皇の個人的問題」 と明快に書いていること。第四に、木戸はその用語を、その試験管皇子が養子年齢に達した1937年まで使っていること。第五に、木戸はその用語を、天皇の個人的問題が引き続いて起こった1938年から1945年には二度と使っていないこと。第六に、木戸はその用語を1931年11月に初めて使うにあたり、極めて明快に、 「胎中天皇の皇位継承の問題」 と書いていること。この人物 〔試験管皇子〕 は、Richard Ponsonby-Fane の権威あるどの著作にもそれに言及がないように、宮廷世界での皇位奪回が期待されている古典的潜王ではないことを筆者は確信する。
 (7) Koyama, 76。
 (8) 木戸 『日記』、190。
 (9) Koyama, 82。
 (10) 同書、85。
 (11) 原田、9: 139。
 (12)
Koyama, 89-90。
 (13) A. M. YoungImperial Japan, 146-8。
 (14) 本庄, 98-106 の要約。
 (15) Vespa, 161-63。
 (16) Pernikoff、102。
 (17) Rappaport、180, N. Y. Times, June 5 1932。
 (18) A. M. YoungImperial Japan, 148-50。
 (19) 藤沢および梶浦とのインタビュー
 (20) Pernikoff、102。
 (21) 同書、241。
 (22) 同書、32, 47, 261-67。
 (23) 田中静証言、IMTFE "Proceedings", 20459。
 (24) 同書、28312, 2708。
 (25) このパラグラフおよび以下2パラグラフは、Chamberlain、27-、Schere, Manchukuo, 50-56 を基にしている。
 (26) Pernikoff、74。
 (27) Vespa, 89。
 (28) 詳細は、Vespa, 231-65。
 (29) このパラグラフおよび以下4パラグラフは、Frederick Merrill、3-9, 72-110 を基にしている。
 (30) 1934年2月24日の Saturday Evening Post の Edgar Snow の記事。
 (31) Pernikoff、98、Vespa, 102, 255-59, 272-75。
 (32) Pernikoff、143、Vespa, 25。
 (33) 多くの文献からの実証の著者による要約。
 (34) 1932年8月から1934年4月までのこと。木戸 『日記』、186, 321 および Who's Who in Japan, 1933-34 edition の入江貫一の項を参照。。
 (35) おがわ まさお とのインタビュー〔著者の挙げた面会者の中にこの名は見つけられない〕。
 (36) IMTFE "Proceedings", 2903-3001。 その計画の簡略な図については、木戸、 『関係文書』、163 を。
 (37) この節の大部分は、1932年9月6日付 New York TImes の Hallet Abend と Hugh Byas の派遣についての記事、Rappaport、ch. 7 および、Rappaport のAppendix に再録されている、 George H. Blakesless より Stanley Hornbeck への米国国務省 14 1932 メモランダム、による。
 (38) 1932年1月24日付 New York TImes
 (39) 秦郁彦とのインタビュー、"Honma Traal Proceedings" in National War Memorial, Canberra..
 (40) 伊藤金次郎、1:203。
 (41) Appeal by the Chinese Government: Report of the Commission of Inquiry (League of Nations Publication VII, Political, 1932. Series VII, No. 12), 107.。
 (42) 同書、127。
 (43) Byas、1932年9月6日付 New York TImes の記事を外務省が引用。また、同新聞記事の内田の報告の要約。
 (44) Byas、1932年9月6日付 New York TImes
 (45) IMTFE "Proceedings", 2982-。他の秘密三条項は同書、29789-。満州国は、通信その他施設の建設費用の負担、日本人顧問への全面的治外法権の授与、関連する条約、契約および解釈における食い違いの判定は、中国語によるのではなく、日本語によるものによる、に合意した。
 (46) IMTFE "Proceedings", 2972-。
 (47) A.M. Young, Imperial Japan, 161-63。
 (48) 原田、3: 72-73 および田中とのインタビュー。また、原田、2: 403、および、A. M. YoungImperial Japan, 202-3 参照。
 (49) 1932年11月から1933年1月のNew York TImes 関係記事を参照。
 (50) 原田、2: 421 より引用。
 (51) 1933年1月3日付 New York TImes。および、Harry Carr, Riding the Tiger: An American Newspaperman in the Orient (Boston: Houghton Mifflin, 1934), 123-29.
 (52) 本庄, 160 および 原田、2: 427-8。また、その情況については、原田、2: 419、422-23、426、430 を参照。
 (53) 原田、3: 4-5。その会議はその夕方に平沼宅で行われた。黒龍会を代表していた中野正剛は、極右主義者でヒットラー崇拝者だったが、二次大戦中、東条英機によって自殺に追いやられた。その会議の終わりで、平沼は近衛に言った。 「我々の中国政策について、南方に向かわねばならないと信じる。私は吉田大使の見解を聞いてきたが、私は完全に賛成だ」 。吉田茂の研究者のために、原田のページが牧野内大臣とその義理息子の吉田が海軍と薩摩藩と見解を一致させた詳細を記していたことを指摘しておきたい。この点については、先の第9章(蒋の求婚) 〔著者はもう一箇所の根拠箇所を示しているが該当不明〕 に述べた吉田の張作霖に対する好戦的な態度や、木戸 『日記』、215-16 も参照。
 (54) 木戸 『日記』、216 は、やや違った見解を示している。このパラグラフの私の根拠は、先のページでのべた。これに関しては、彼〔牧野〕は裕仁の側近集団への積極的関わりから身を引いた。しかし、彼の内部情報の収集はその後数年間継続され、その後のノートに、時に応じて反映されてゆく。
 (55) 原田、2: 428-33, 3: 3-4 を基礎にした要約で、インタビューで補完。原田の記述によると、荒木の出席した会議は連絡会議で、閣僚会議ではなかったようである。熱河作戦を決めた2月13日の閣僚会議はまた、国際連盟からの脱退を承認している。荒木の出ていた2月17日のものは、単に、一般幕僚の紹介だけのものだったようだ。いずれにせよ、一、二日後、原田は、連盟問題の終結について書いている。 「我々の態度はすでに決定された。」
 (56) Clarence Streit 記者による、1933年2月25日付 New York TImes の記事をもとにしている。


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