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敗戦
(その4-2)


神の死


 土地改革、国家神道の解体、婦人参政権、独占禁止法――これらは、国会に提出される改革であり、一言の不平もなく可決されるはずであった。地主、神主、政治家、そして産業人のいずれも、新しい法律の抜け穴を見つけ、現状を維持することをもくろんでいた。天皇自身も、自らの資産の多くを譲り渡すつもりであった。しかし、国の根本的憲章であり、統治の日本式形態である憲法については別だった。米国憲法のまねごとを受け入れさせられることは、屈辱でも危険なことでもあり、日本の支配階級のだれもが望んでいないことであった。戦犯容疑者が刑務所で意気消沈しているうちに、憲法改正案が委員会に提出され、くり返し、くり返し、検討された。独自の立場から、裕仁は自身の宗教的地位の再定義を受け入れることにより、妥協と暫定化を求めた。そこに、ある提案が、元米国YMCA(キリスト教青年会)リーダーという、奇妙なところから出てきた。
 9月の最初の週、宮中がマッカーサーとの合意に関し、有効な妥協策を探っている際、近衛公は、ウィリアム・メリル・ヴォーリズという、最も著名な在日アメリカ人の援助を求めた。ヴォーリズは、福音主義の建築家であり資産家だった。カンサス州育ちで、1905年にYMCA事業のために来日し、特許のメンソレータム軟膏を売って資産を築いていた。そして同時に、彼は、日本で幾つもの大規模な近代的ビルを設計、建設し、最も盛況なキリスト教一派、近江兄弟社を創設し、さらに、彼は一柳子爵の娘と結婚して日本に帰化していた。裕仁はヴォーリズを味方と考えていた。というのは、太平洋戦争の始まる少し前、彼はヴォーリズと私的に会う機会を「偶然に」作った。つまり、ある侍従がヴォーリズのもとを訪れ、ある特定の日の特定な時刻に、京都御所の御苑のある花の咲いた木の下で待っていれば意義あることが得られるだろうと告げていた。そこで彼が言われた通りにすると、京都を訪れていた天皇が、そこを散歩しながら通りかかり、彼に話しかける機会となった。彼らはほぼ一時間あまり、日本と宗教について語り合った。裕仁はヴォーリズの帰化した国への愛国心と日本語の流暢さに感銘させられた。(110)
 この1945年の9月7日、裕仁の引退後の地を京都に探している際、近衛はヴォーリズに、マッカーサーを訪ね、彼の意図を伝えてくれるように依頼した。ヴォーリズはそれを了承し、二日後、横浜の総司令部を訪ねると、彼はまるで利敵協力者のごとく扱われた。マッカーサは彼に会うことを拒否し、もし、裕仁や近衛が何か言いたいのなら、使者を使うようなことはせずに直接言うべきであり、もし譲歩を望むなら、改革の具体的提案をもって来るべきである、との言葉を従者を通じて彼に与えた。ヴォーリズはこのはねつけを近衛に伝えた。近衛は彼に、引き続いて東京に残り、ふさわしい改革が何かを考える手助けをしてほしいと頼んだ。
 9月12日、ヴォーリズは、第一生命館から一区画半ほど南の帝国ホテルで、天皇の神性を公式に放棄したらどうかとの、天の賜物のようなアイデアとともに目を覚ました。裕仁自身も含め、教育を受けた日本人は、天皇を西洋人のいう意味での全知全能の神〔ゴッド〕であるとは考えていなかった。むしろ、彼は「神〔かみ〕」であり、不滅の霊であった。日本では、万象は、たとえ石でも樹木でも女性でも、何らかの「神」を宿していると考えられていた。天皇は、そのうちの最高かつ最有力な存在だった。日本人にとって、「神」は超人間的なものでも倫理的なものでもなく、人間の凝縮された要素であり、特別な魅力であり、能力であった。それが持つ霊魂世界は、現実世界の文字通りの影〔の世界〕だった。それを支配する神〔ゴッド〕は存在しなかった。「神〔かみ〕」は、生命あるもので、ことごとくこの世のものであった。日本の身分社会はそこまでにも及んでおり、天皇は、死んだ時、その世界を統括するこれまでの天皇の霊魂に加わった。そうした信念に立つかぎり、天皇が西洋でいう神性を放棄することは、容易であり、意味のないことですらあった。
 ヴォーリズはこの考えを近衛に伝え、近衛はそれを天皇へ伝えた。辞書によれば、英語でいう 「神(ゴッド)」の意味は、「一神教の精霊――すべてのものの創造主」である。裕仁はこのいずれでもないことを認め、近衛はその翌日、マッカーサーに会った。そこで彼は、連合軍総司令部がこのヴォーリズの考えを大いに歓迎していることを発見した。しかしながら、その後の二ヶ月間にわたって、この考えに進展は見られなかった。11月には、戦犯リストについての最終交渉において、一種の切り札として使えるよう修正がほどこされた。そして12月、皇室最高齢者の梨本宮と、天皇の主席顧問の木戸内大臣が無事連合軍の手中に入った時、総司令部は、裕仁の手になるかのような、「人間宣言」の草案を作った。(111) 裕仁は、新憲法に対抗させえることを期待して、宮内省に対案を作らせた。二つの草案は、議論の後、一体化された。裕仁とマッカーサーは、それぞれ、日本語と英語の文面に手を加え、両者の合意をえた草稿が、内閣での検討のため幣原首相に示された。首相は、その言葉遣いが「余りに日本感覚的すぎる」ことを発見し、彼式の格調あるゲティスバーグ演説風英語に改め、それが再度、格式ばった日本語に訳し直された。(112)
 裕仁はその日本語版に、マッカーサーはその英語版にそれぞれ許可を与え、両方は、1946年元旦の祝賀の挨拶とともに発表された。その肝心の部分は、1868年の春に祖父の明治天皇が行った誓約憲章
〔五箇条の御誓文〕にくり返し言及した、長い勅語の最後に置かれていた。その誓約とは以下の五項目である。 1 国の統治は世論にのっとり議会を通して行う。 2 国民は一体となって国益を追求する。 3 すべての個人は自らの選択を追求する機会があたえられる。 4 「旧来のすべての基本慣習」は放棄され、「天と地の法」に従う。 5 「天皇の基盤を拡大するため、世界のあらゆる知識を追求する」。この勅語の大半は、国民に、日本は1868年当時のみすぼらしい状態に逆戻りし、日本が再び隆盛するのは百年後のことかもしれない、と暗黙に告げるものであった。そしてその後に、おびただしい手が加えられたその重要なくだりがあった。たとえ外国調に秘められ、それに託されていたとはいえ、それは、多くの日本人には意外な事実であった。(113)
 その数日後、裕仁は、新年の歌会始で自身の短歌を発表し、国民に、諸般の状況によって強いられた偽装の姿に混乱させられてはならないと暗示した。
〔訳注(英原文からの邦訳では以下の通り。「冬の雪の中でも色を変えない勇敢な松のように、日本人は真に松の森とならねばならない」〕


民主主義の君臨(115)

 最も高齢の身内で、敬うべき71歳の梨本宮が、毎夜、刑務所の藁布団に禿げた頭を寝かせている時、裕仁とマッカーサーは、各々の仲介者を通じて、日本の憲法をめぐって、厳しく闘っていた。憲法改正の検討は、1945年10月8日より始まった。そして、木戸内大臣、近衛公、そして幣原首相は、第一に、旧憲法はたとえ必要としても数語の変更を除いては改める余地がなく、第二に、日本側が数語以上をはるかに上回る変更をしない限り、連合軍総司令部は一方的な行動を起こすだろうと考えていた。幣原首相は、「言うとおりにするのが最も容易で、やり取りの書類を保管しておいて」、後になってから押し付けられたマッカーサー憲法を拒絶することもありうると考えていた。裕仁は、自らの責任についてより高度な視点において、祖父より引き継がれた神聖なる文書を書き改める共犯者にはなりたくないということを、最初の段階から明確にしなければならないと考えていた。その結果、二つの委員会――ひとつは近衛公を長とする宮廷関係者によるものと、もうひとつは、憲法の権威、松本丞治を長とする閣僚と学者によるもの――が設立された。比喩的に言って、第一生命館と皇居の間のお堀が凍りつくような、11月半ば、近衛公委員会は、旧憲法は実質的な変更は必要としていないとの報告を天皇に行い、盛大に解散してみせた。このように、自らの責任に一応の形をつけた上で、裕仁は内閣の憲法改正委員会に、「詳細検討」を図るよう命じた。
 内閣委員会が、類語辞典を用いて旧憲法の語句を違う言い方に書き換えているうちに、数ヶ月が経過した。一月末、ついに総司令部による強い圧力のもとで、内閣委員会は、用意してきた改定の「要旨」と「説明」を提出した。マッカーサーがそこで発見したものは、改定の不十分さだった。彼は、天皇がもはや「神聖かつ不可侵」ではないものの、「至高にして不可侵」であることに注目した。また、あまりにたくさんの条項が、「他法による規定ある場合を除き」という抜け穴で終わっていた。そこでマッカーサーは、以下のような、彼の期待する最低規定についてのメモを作った。すなわち、「天皇の権力と職務は・・・、憲法にのっとって執行され、憲法の定める国民の基本的意思への責任を負う。国家の主権的権利としての戦争を放棄し・・・、交戦権はいかなる日本の軍隊にも与えられない・・・。日本の封建的制度を廃止する。」(116)
 1946年2月3日、マッカーサーは、日本の宮廷と内閣が仔細な指導なしでは彼の要求を満たすことがないことを確認するに至り、彼はホイットニー大将に走り書きのメモを渡して、彼の民政局が緊急態勢をとって、満足しうる憲法草案のひな型を作るよう命じた。ホイットニーは、この任務を彼の右腕のチャールス・L・ケーデス大佐に委任した。
 九日後、アメリカ人の手になる日本国憲法が用意された。そしてその日の午後、ホイットニー大将はそれを、吉田外務大臣邸で行われた内閣憲法改正委員会の会議の席上で提示した。彼は、「紳士諸君」と切り出し、こう述べた。「最高司令官は、諸君の用意した改正案は受け入れがたいものと判断した。諸君の草案は、日本が戦争とその敗北の教訓を学び平和な世界の責任ある一員として行動することに備えている明確な証拠と連合軍がみなしうる、広範で寛大な政府体制の再組織という面では、余りに乏しいものである。したがって、最高司令官は、それが最低のものとみなす原則を用意した仔細な声明を作った。それをここに憲法草案としての形で諸君に提示する。私は諸君に、最大の再考をされるよう助言するとともに、改正憲法を用意する新たな努力への基準として使われるよう要望する。もちろん、諸君に強制するものではないが・・・、最高司令官は、憲法論争は4月の総選挙に十分先だって国民の前に提示されるべきものである、と決断している・・・。もし内閣が、その時までに、適切かつ満足しうる草案を用意できない場合、マッカーサー元帥は、この原則声明を、国民の前に直接に提示するつもりである。したがって、私は諸君に、私が外で待っている間に、それを直ちにこの場で読むよう要望する。」
 しばらくの間、日本人の息を殺した異様な〔シーという〕制止音を除き、場は静まりかえっていた。白い服装をまとった、小柄で恰幅の良い吉田首相は、黒いニーベルンゲン
〔ドイツ中世の英雄叙事詩、悲劇的宿命観が主調〕のしかめ面を浮かべた。吉田の住み込みの助手で、獄中の木戸内大臣の12年来のゴルフ仲間である白洲次郎が、ホイットニーとその部下を、手入れの行き届いた庭園へと案内した。そこで白洲は、彼らにこじんまりとしたあずまやを見せ、そこにくつろいでもらって、ある皮肉った苦々しい言葉――「どうぞ原子の日光のひなたぼっこをお楽しみください」――を残してそこを去った。およそ一時間後、白洲は彼らを呼び戻すためにそこに戻り、長く待たしたことに大いに詫びた。「いえいえまったく、白洲殿。貴殿の原子の日光を大いに楽しみました」、とホイットニーは答えた。その瞬間、一機のB-29が爆音を轟かせて頭上を飛び去り、彼の言い返しに重みを添えた。同委員会は、その原則声明を憲法改定の新たな準備の基盤とすることを約束した。
 二日後の2月14日、外務大臣助手の白洲は、ホイットニーに一通の手紙を送った。それにはこう記されていた。「貴殿の方法はいかにもアメリカ的で、直接的でまっすぐです。彼らの方法は日本的で、うろうろし、ねじれていて、せまくるしい」。同じ手紙で白洲は、ホイットニーにこう言い添えた。「このたわごとを書くことで、紙不足を助長したのではないかと恐れておりますが、私の欠点が、一部、亡き父親譲りであることをもって、お許しいただけると信じております」。
 4日後、ホイットニーは、内閣委員会よりのもう一通の手紙を受け取った。それには、「西洋のバラには、日本で育てられると、その香りを失ってしまうものがあり」、ホイットニーの考案であるアメリカ版憲法は、まだ日本語には未翻訳である、と述べられていた。ホイットニーはマッカーサーに会い、マッカーサーは裕仁に会った。ワシントンの誕生日
〔2月22日〕、ホイットニーは再び内閣委員会におもむき、天皇による検討のため、アメリカ版草稿を直ちに宮中に提示するように命じた。吉田外務大臣は、その日の午後、その命令通りにし、裕仁が、緊張のうちにも、「この原則が我が国民の幸福と日本の再建に真に帰するだろう」と述べるのを聞き、非常に驚かされた。
 受け身となった内閣委員会は、ホイットニー版憲法の翻訳に奔走し、いくつかの書き換えを行い、そして、それを立派な羊皮紙に書き込んだ。3月4日、それはマッカーサーに提出され、些細な条件を付して承認された。ホイットニーは、それを編集し、英文と日本文を突き合わせる別の突貫仕事に取り掛かった。36時間を要して、彼の民政局は、日本の委員会の同席のもと、翻訳者チームを率いて、最終的な翻訳版を完成させた。K号携帯食やコーヒーの5ガロン
〔約19リットル〕缶がひっきりなしに持ち込まれていた。3月5日の午後5時30分、マッカーサーは、完成した文面を承認した。翌日、マッカーサーは、「天皇と日本政府は、新たかつ時代を隔する憲法を日本国民に発布することを決定」、と報道陣に発表した。(117)
 この憲法への判断を下す総選挙が、4月10日に実施されることとなった。その選挙運動が最高潮に達している騒々しさの中、裕仁は静かに、前年の10月に東久邇宮によって最初に提案があり、以来、それをなんとか避けようと奔走してきたことに、さらなる譲歩を決めた。それは、裕仁およびその息子と兄弟を除き、他のすべての皇室親族の身分を返上し、平民となることであった。総選挙の四日前、幣原首相は海岸地域にある葉山の御用邸に裕仁をたずね、その最初の一段階――内閣は貴族院から15の親王の辞任を承認――が終了したことを告げた(118)。この過程は、二年後の1947年10月、裕仁が、宮中での盛大なお通夜、つまり、51人の妹や従兄、おじが集まり、その身分を平民に格下げとなることへの最後の同情の乾杯を行う、を催して完了となるものだった。そうした報酬は、かれらの身分とともに消え去り、膨大な皇室の資産が没収となり、かくして国民に返されたのであった(119)。皇室の森林や庭園は、国立公園となった。皇室の財宝は博物館に引き渡された。おびただしい皇室所有の株式や債券、数え切れない量の金や銀は、抜け目なくそれを運用しうる君主の忠友たちに秘密裏に託され、木戸が勧めた百年間の静謐の後に、その得られた収益とともに返還されるはずのものであった。連合軍最高司令部の経済局の調査官は、そうした地下隠匿資産のいくらかを突き止めたが、残りの部分は、戦後のインフレによって――対ドル変換レートにして、1ドルが15円だったものが、50円、270円、ついには360円と下落――ほとんど無価値になったはずである(120)
 1946年4月10日、選挙の投票率の記録的高さは、新憲法への国民の支持を表していた。「へー、この憲法は日本語なのかい?」、と有権者は冗談を言った。そして彼らはそれに熱狂的に賛意を表し、11月3日、裕仁は、それが国法(国の根本法)であることを宣言した(121)。それはこう謳っている。「日本国民は国権の発動たる戦争・・・は、永久にこれを放棄する。・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。これは、マッカーサーがあえて入れさせた、彼お気に入りの条文であったが、三年後、ソ連の脅威に直面してその条文に背き、憲法の解釈し直しを日本に求め、日本に自衛力を強要した。この陸・空の警察予備隊は、二十年も経ないうちに、アジアにおける最も訓練された、最も最新的な軍隊へと成長した。そして1970年までには、それは、独自の士気高揚法を身につけ、伝統的な「万歳」、つまり万年の天皇の生存を叫ぶことに代わって、物質主義的な教理問答に終始するようになった。
 「カラーテレビが欲しいか」
 「はい!」
 「諸君は皆、電気炊飯器が欲しいか」
 「はい!」
 そういう自衛隊の人たちは、その訓練の際、アメリカ人士官が誰も観閲していなくても、
〔アメリカ式にオウム返しに応える〕あるシーンを繰り返す。それは、数年前〔米軍の駐留が始まった頃〕、新しいアメリカ式の「かしら右 〔英語では「目を右」 と言う〕」が整列中の〔日本の〕連隊に最初に命じられた時に見られたものだ。彼らは、あたかも通り過ぎる娘を目で追うように、顔は真正面を向けたまま、完璧に訓練された冷徹な態度で、目だけを右に動かすのだ。(122)


天皇のかけ引き

 日本国民がアメリカ製憲法を是認するやいなや、老梨本宮は、刑務所での四ヶ月にわたる無説明の拘留から、ようやくにして解放された。皇室にとって、不安な日々はこうして終わった。天皇は、その身代金を支払った。彼は、自己の財産の大半、彼に忠実な家臣の全員、その特権、地位、神格の主張、そしていまや、旧憲法のもとでの最高の権力を断念させられた。それは、とてつもない代償であったが、その交渉を終わらせて、裕仁はその約束を破ろうとの積りはなかった。彼は、国を旅して、国民と親しくなりたかった。彼は、国民の間で、「ああ、そうですか」さん、として親しまれようとしていた。彼が、原爆投下の記念日に広島を訪れた際、「ここでは、考え難い破壊があったようです」、とそっけなく言った時のことを、誰もが記憶に留めていた(123)。そして、人間〔天皇〕としての役割が果された後は、裕仁はざんげの人としての背後に引退し、国事の高度の相談役になろうとしていた。彼は、趣味である海洋生物学者として生涯を尽くそうとしていることを衆知させるため、彼の研究所員の助けをえて、美しい挿絵入りの学術書、 『相模湾の後さい類図譜』 を出版した。日本の国内政治は、彼に大した関心を抱かせず、以来、数十年にわたって、日本は国際政治においても、自国の役割を述べる声をほとんど出さなくなっている。
 いかなる犠牲を払っても、天皇を法廷にかけないことは、マッカーサーとしての交渉の要であった。5月3日、梨本宮の釈放から20日後、極東国際軍事法廷は28名の裕仁の家臣を、A級戦争犯罪人として法廷に召喚し、その後、2年半にわたる裁判の開始となった。それは、歴史究明を操作する類まれな実験ともいうべきで、その政治的成功を図るため、壮大な努力が払われた。甘言を弄し、賄賂を送り、脅迫も駆使しながら、宮中による占領政策への協力を工作しつつ、同時にマッカーサーは、天皇の存命のために奮闘した。だが、裕仁自身が知る以上に、また彼が信じられることをはるかに上回って、アメリカ人の一部と連合軍の各政府の大半には、天皇を一般の犯罪人として扱うべき切実な必要があった。
 裕仁の事例について、それぞれに異なった各国の立場は、降伏の時点で、アメリカ合衆国に通知されていた。国家主義の中国は、歴史的把握においては最上の分析をほこり、裕仁を絞首刑にすべく、復讐心にもえ、断固とした決意をもって、最も強い理由をかかげていた。共産主義のソ連は、全般的には天皇に反対する理論的原則をもっていたが、裕仁の権力を維持して変革の道具としようとのアメリカの政策に、驚くべきほどに従順だった。オーストラリアは、「国際法は国家主権者に免罪を与えるべきではなく」、日本の「戦争法違反」は、「余りに甚だしく」かつ「余りに広範囲なものだったゆえ、天皇やその大臣はそこから学びえたはずで」、しかも「それを防ぐべく手段すらとらなかったとするなら、それは彼らをそそのかしたのも同然で」、「他のより罪が重かった者に免責を与えつつ、一般の日本人あるいは朝鮮人護衛を処罰したのであれば、それは国連に深刻に打撃をもたらす、審判の戯画化と言うべきものである」、と主張した。ニュージーランド政府も同意見だったが、より穏やかな表現においてであった。(124)
 マッカーサーには、日本における天皇の絶対権力を継承し、連合軍各国の主張を無視する余裕があったが、米国の国務省はそうではなかった。だが、幸いなことに、審判されるべき戦犯の選別は、「日本での証拠調査にあたっている」、米国の情報局員によってなされるべきであるというのが国務省の見解だった。不満の強いオーストラリアのみが、そうした確認によって埒外にされることを拒否した。キャンベラのファイルは、占領の初期、日本を訪れた将官や報道関係者による苦言で満たされていた。オーストラリア人たちは、マッカーサーが戦前の日本の歴史をほどんど知らず、彼の戦犯局によって発掘される断片的な情報にすら関心の薄いことに驚きをあらわにしていた。天皇を免責せよとする証拠は、何を行ったかではなく、何を言ったのかのみでしかないと彼らは正論を述べた。オーストラリア人たちは、マッカーサーが歴史的事実や法判断に、浅はかにも無関心であると感じていた。だがマッカーサーは一方、オーストラリア人は未来より過去に、再興より復讐により関心を注いでいると感じていた。彼は、天皇がたとえ毒牙をもっていたとしても、毒は除去されて無害とされ、利用も可能だと信じていた。(125)
 もしマッカーサーが自分の道をとれていたなら、彼は天皇に示さざるを得ないと感じた同じ寛容さを、すべての日本の指導者にも与えただろう。しかし、ワシントンやロンドンの政治家は、大量殺人や日本の捕虜収容所での拷問を理由としたいけにえの羊を必要としていた。マッカーサーはその政治的必要と妥協したが、上官を赦し、部下を罰する矛盾は彼を悩ませた。後に彼が書いているように、「戦争に敗れた政治指導者に犯罪責任を負わせようとする原則は、自分自身を背くものだった」。
 1945年の十月、国務省のディーン・アチソンのグループの主張によって、統合参謀本部(JCS) はマッカーサーに戦争犯罪人の処罰を開始するように命じ、これに対してマッカーサーは、「いかなる犯罪責任も日本の政治指導者に科されるとする」、「性急かつ繰り返される請求は・・・、真珠湾攻撃に対する告発にのみ限られるべきである」、と反発した。マッカーサーの計略は、東条と1941年当時の内閣々僚の審判を素早く舞台に乗せ、捜査の範囲が天皇に波及し改革を進めようとする占領政策をつまずかせることにならぬよう、その広がりを防ぐことだった。統合参謀本部が完璧なこれ見よがしの審判を求めた際、マッカーサーは、「審判実務遂行に伴うあらゆる責任からの解任」を求めた。日本社会を改革するという膨大な責務を負って、それを鼓舞する指導者であるとの、日本人に共有されたイメージを彼は傷つけたくなかった。(126)
 そのため、11月14日の審判は、ワシントンより派遣されてきた米国本土の検事によって行われた。11月25日、逮捕されるべき者の選別をめぐり宮中と第一生命館とが一時的に険悪な関係にあった際、連合軍総司令部の情報担当官は日本の報道陣に、マッカーサーが戦争犯罪人に代わってワシントンと戦っている、との見解を発表した。この記者発表は二重の効果をもった。ひとつはマッカーサーの日本人との関係を明瞭なものとし、他は、もし裕仁が総司令部に協力をしなかった場合、その検事のもとの危ない儀礼にさらされると警告していた。裕仁はただちに黙従し、木戸内大臣と近衛公の名が、米本土からの検事が東京に到着したまさにその日、容疑者リストに掲載されたのだった。(127)

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