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敗戦
(その5)


まやかし裁判

 マッカーサーの良心の呵責を肩代わりした検察官は、ジョセフ・ベリー・キーナンという、元副検事総長の弁護士政治家だった。1930年代初め、キーナンは、マシンガン・ケリーを刑務所に送り、リンドバーグ法(訳注)を草案したことで名を売った。しかし、ワシントンでの政略と酒と賭け事の十年間は、その名声を犠牲にしたものだった。まだ在米中、彼は友人の一人より、「派手で攻撃的だが、不親切ではない男」と形容されていた。また彼の敵は、法廷では常に自分勝手に事実を曲げ、彼の言葉は往々にして不正確かつ独立宣言演説調に満ち、彼の答弁、ことに午後の法廷のそれでは、時に鈍くぼやけている、と彼を指摘した。(128)  11月15日、ワシントンを去るに先だって、キーナンは、トルーマン大統領およびトム・C・クラーク検事総長と「彼の使命」について協議した。12月7日、東京着任の翌日、彼はマッカーサーと午前中を過ごした後、第一生命館を出ようとする際にこう宣言した。大統領と最高司令官の見解には、「確固とした一致がある」。数日後、彼は報道陣に、マッカーサーと彼が「天皇の戦争記録を厳密に洗ったが、有罪に値するようなものは何ら発見されなかった」、と発表した。そして彼は、1937年7月〔7日〕の対中戦争の勃発以来の出来事に関し、東条とその一派が有罪とされる迅速な審理がなされることを望む、と述べた。彼はその日付が、政策決定の責任を負う東条の隆盛の始まりの日として銘記されるとした。その三日後、彼は、連合軍最高司令部が日本政府に、1932年から1937年の間の五大主要事件について、その警察と裁判記録をまとめるように命じたことと、それを特に急いだことを認めた。(129)
 12月15日、キーナンは木戸内大臣の義理息子〔都留重人〕と昼食を供にし、収監の前夜の木戸を元気づけるようなことを伝えた。その数日後、キーナンは、木戸の元秘書で、内大臣の後継者となった松平康昌〔やすまさ〕と知り合いとなった。今や松平は、戦争犯罪問題のあらゆる面での専門家となっていた。彼は、その最初から、連合軍最高司令部と宮中との間の連絡にあたっており、それぞれのA級戦犯容疑者が自ら出頭する前、彼は彼らに面会していた。松平は、キーナンを助けて、彼らの仕事を采配できる適切な日本人秘書を探していた。その職に採用されたのは、貴族的な独・英哲学の若い教授で、戦争中は小戦争宣伝者で、日本の日陰文士たちの一人として、同人グループを主宰していた。キーナンは、法廷においてアメリカ検事部の中核となるべく、ワシントンから24人の法律家と14人の助手からなる部下を連れてきていた。彼は、総司令部の戦犯局の書類と逮捕した被疑者を引き継ぎいだ。今や、その新任秘書の努力しだいでは、キーナンは、戦犯局のほとんどの接触先との関係も引き継ぐことが可能となった。和平派の人々は、占領が始まった当初、マッカーサーの部下の古びた日本の知識を改めるべく横浜へ日参していたが、今や、その成果を引き継ごうと、キーナンへの接触を求めていた。彼は自身の好評判に満足し、彼にもたらされる援助を歓迎した。彼は、法廷での審問に用いられる証拠書類と証言者を必要としていた。彼は、日本という閉鎖社会において、いかなる審判であれそれをつかさどることは、公正であろうと不公正であろうと、立派に成し遂げられるべき任務であると感じていた。
 1946年元旦、裕仁が人間であることを宣言し、マッカーサーが受入れ可能な新憲法の草案が日本人の手になって提示されるのを待っている時、キーナンと彼の法律家たちは東京に腰を落ち着け、迎える大審判の準備に精を出していた。マッカーサーは、国務省を通じ、日本と戦った他の主要国に、審判に参加し、法律議論を主宰する人物を招へいした。1月18日、ワシントンで、判事団メンバーが発表された。それぞれの名前はほぼ、連合国の各国では高い地位を占める法律家たちであった。彼らは、以下の11カ国を代表していた――アメリカ、英国、オランダ、フランス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ソ連、中国、フィリピン、インド。(130)
 東京駐在の特派員たちは、法廷の準備について報じながら、マッカーサーが天皇をかばっていると、米国の読者たちににおわすこととなった。ヨーロッパの弁護士や判事たちはみな、米国を経て東京へと移動する途上、裕仁の罪についての彼らの見解を聞かれた。米国務省のディーン・アチソン派は、統合参謀本部への圧力を強め、来る審判のすべては、用意周到に公明正大かつ公平なものでなければならないと要求した。(131)
 1月27日、マッカーサーはそれに真っ向から立ち向かい、彼の部下たちに明言した。「過去の十年間において、日本政府のいかなる決定についても、天皇の責任に結びつく特定かつ明確な証拠はない。日本国民は天皇の告発を深刻な裏切りと考えるだろう。彼らは、ポツダム宣言の受諾を天皇の地位の保全のためと理解している。天皇の裁きは、政情不安をもたらすだろう。叛乱分子たちの行動も起こりうる。それを占領軍が阻止できたとしても、日本政府の構造を根本的に崩壊させることもおこりうる。そうなれば、占領政策そのものが変えられなければならない事態となる」。そしてマッカーサーは付け加えた。「天皇についてなんら推奨するものはない」。だが、もしその裁きの開始が決定されたなら、百万人の部隊が日本に駐留する必要を生み、二万人を超える民政職員をさらに投入しなければならず、「しかも、すべての計画は一度に実行されなければらない」、と強く警告した。
 こうした警告が発せられた二日後、ワシントンで日本の占領について米国政府に助言する連合軍の委員会である極東委員会が、第一生命館のマッカーサーを訪れた。同委員会は、占領の進展を現場視察するため、その最初の来日を実行していた。そのうちのオーストラリア人委員は、マッカーサーが天皇を罪なしとする理由について、以下のように詳報を本国に送った。
 極東委員会は不平をもらし続けたが、記者たちは他の話題に矛先を変え、マッカーサーとキーナンは次の関門――連合軍判事たちの到着――に立ち向かった。11の異なった国を背景にした11の鋭利な法的精神を、なかば隠蔽された日本の歴史の流れへと導き、全員一致の合意へと至らせることは、キーナンがかって――たとえアル・カポネの跳梁するシカゴでも――体験したことのない使命への挑戦だった。キーナンが裁判にかける者たちは、「侵略戦争にうったえた策謀」と、「人道に反する組織的犯罪」つまり残虐行為を行った罪として問われることに合意がえられた。そうした行為が行われたこと自体は疑問の余地のないことだった。しかし、彼らが犯罪者であることは、日本人のなかのほんの一部の人たちだけが感じていることであった。そして、ことにそうした行為の責任により被告席に立つ者たち――過去20年間の裕仁の助言者以外のあらゆる指導者たち――の選別は、その証明が極度に困難な問題だった。分別ある日本人が言うことはおおむね、1941年の米国を相手とした負ける戦争を天皇に進言した責任は東条にありそうだということだった。虐殺に加担した日本兵は、通常、ゲルマン民族風には上官を告発しなかった。また、そうした犯罪行為に際し、加虐趣味を楽しんでいる風でもなかった。むしろ、彼らの言うところでは、彼らは社会がそうするように望んでいたことをしたのであった。
 日本人のふるまいは――社会的にも思考的にも法的にも――、どの司法関係者にとって、顕著な疑問を与えていた。28人の被告のだれ一人として、1937年にパナイ号を沈没させた橋本欣五郎を唯一の可能な例外として、ヒットラー級の非道資産階級はいなかった。裕仁への生涯の忠誠を除き、だれひとりとして、互いに共通するイデオロギー的基盤をもっているわけではなかった。そしてかれらの誰もが、日本中で最高位で、最も優雅で、最も裕福で、そして英語を使える一族への、服従的な献身をささげていた。
 キーナンにとって幸運だったのは、日本人の残虐行為が、各々の判事が代表する、そうした国々の一般市民に加えられたことであった。そうした恐怖の目撃者を羅列することで、彼は少なくとも、なぜ日本人はゲルマン民族のような罪意識を持たず、なぜ自分の上官を告発しないのかといった不可解な疑問から、判事の関心をそらせることができた。裕仁の治世下でおきた日本人が関与する虐殺事件は、1928年、中国、済南
〔山東省の首都〕のそれが最初だった。その当時、告発された者たちの誰も、指揮責任を持つ地位にはおらず、最高位でも大佐だった。東条は、彼が満州の秘密警察の責任を負ったとみなされる1935年までは、まだ未熟で、軍部官僚として、まず告発されることのない生活を送っていたといえる。1928年以降に日本人が行った恐怖政策の指令責任を実証することは、的確に言って、1928年の指導者たちがまだ若かった1910年にまで立ち返って日本の歴史を仔細に審査する必要があった。だがキーナンにしてみれば、もしそこまでさかのぼれば、公判は入り組んで果てしなく続く恐れがあった。そこで彼は、まず、審査の範囲と基本原則を定めて、彼の権威を打ち立てなければならないと決断した。
 キーナンは、ワシントンの後ろ盾を得て、全判事に、彼らがその着任を引き受けた段階で、キーナンの検察部が、裁判にかけられる者と提示されるべき証拠を選出する独占的権限を有することを周知させた。これは、大半の先進国での検察の権利であり、異論なく受入れられた。この扱いが確立し、「証拠の選別」が済んだところで、キーナンは、「東条の軍閥」に対する「犯罪的陰謀」の罪に関し、証人や証拠を1928年以降の時代の残虐行為に制限することを一方的に進めた。こうして、キーナンが認識していたかどうかは別として、彼は、もっとも謀略的な時期を、審査の対象から外してしまった。1928年以前、本書の後で述べるように、東条や宮廷内部集団の一味は、皇居に自由に出入りする無垢な若手将校であったようだ。それが1928年以後、彼らが繁忙な官僚や大佐や大将との重職に着くようになった時――つまり海外での軍事的冒険を組織し始めた時――、彼らは宮中との表向きの関係を断ち、裕仁との見せかけの距離を保つようになった。
 検察側における1928年を境にしたキーナンの制限に、弁護側のごたごたがさらに加わった。被疑者の各々には、少なくともアメリカ人と日本人の各一人の弁護士がついた。こうしたアメリカ人弁護士は、現実にうとくはあっても、おおむね、腕の立つアメリカ軍所属の志願弁護士であった。彼らの英語と欧米の法律制度への理解力により、法廷での弁論にはほとんど彼らがあたった。しかし、訴訟書類の実質は、日本人弁護士によって用意されていた。日本人弁護士はみな、東京帝大か京都帝大の法科の卒業生で、裕仁の官僚の指導層の同窓生か同僚であった。彼らの多くは、1930年代、そのテロ行為によって裕仁の軍閥の専制ぶりを日本国民が受け入れるようになった、暗殺やクーデタ画策者を弁護する、つるんだ裁判に関与していた。
 1946年初め、戦犯裁判が開始される前、こうした日本人弁護士は、東条や木戸や他の依頼主に代わって証拠を示す原則を作るため、秘密裏に会合をもった。そこに二つの考慮点があった。ひとつは、依頼主に有利な証拠を用いても、それが天皇を「傷付ける」ものとならないのかどうかで、他は、依頼主に有利な証拠を用いても、「日本国民の名誉を害する」ものとならないのかどうか、であった。そして彼らは、天皇に不利な証拠と判断されるものは一切除外することに合意したが、上の第二の考慮点である、国全体の評判のために依頼主を犠牲にすることは「人権の侵害」となるということを根拠に、これを投票のうえ否決した。そしてそれに代わって、彼らは、「国を救済することの重要さを忘れてはならない」と誓ったのみであった。アメリカ人弁護士は、自分の同僚たちのこうした合意については知らされておらず、彼らに与えられる情報の選択についての判断理由も明らかにされなかった。(132)
 キーナンが検察団に提示する証拠を制限し、日本人弁護士が弁護団に提示する証拠を制限しながら、なおかつ両者は法廷で証言を望む者を探すという、共通の目的をもって動いていた。すべての証拠の生殺の場は宮廷であった。内大臣省は、すべての弁護証人を認可し、キーナンの手に渡す大半の検察証人をあやつった。日本兵は、以前の敵に情報を明らかにするのは反逆行為と受け止め、また、彼らの敵意と武士道が複合した、特異な感覚によって真実を話すという傾向があっため、証人を探すというのは容易なことではなかった。そうした証人には、予断された日本の歴史を明らかにできる人、正確で説得力ある詳細をもってそうできる人、賢明で知識豊富な人、そして、矛盾に陥ることを避けうる冷静な人であることが求められた。第八軍のアイケルバーガー大将は、横浜に上陸した際、避けられない戦争犯罪人裁判に証人を見つけることは困難なことにならないかと恐れていると、最初の面会人のひとりで、1920年にシベリアで知己となった老いた
〔日本人〕退役中将に語った。そして、この言葉が、和平派の宮廷人を通して、日本で最適の人物を見つけることになった。
 その理想の人物は、退役少将田中隆吉(133)――その名を英訳すれば田中 Top-luck ――だった。田中は、足を引きずって歩く、ラブレー風
〔たくましい想像力と豊富な言葉づかいが特徴〕の大男で、下品なユーモアと、通常人の四倍も大きな剃り上げた卵型の頭を持っていた。彼は、1921年から45年までの日本陸軍の策謀についての、膨大でほぼ完璧な資料を持っていた。彼は、陸軍情報部の元スパイとして、その多くで自らの役割を果たしてきていた。1923年には、皇居内で行われた特殊教化課程に参加していた。1928年には、満州国統治者の暗殺計画を後押ししていた。1931年には、日本の代表的女性スパイ――満州国の王女〔日本名「川島房子」〕――を愛人とし、その彼女とともに、1932年の上海での小事変を起こすための挑発に手を下していた。後の1938年、彼は裕仁を助け、ソ連への未承認の陸軍偵察――ハーサン湖事変――を止めさせた。「怪物田中」と仲間内で呼ばれるように、彼はその膨大な記憶と知識をとっさに呼び起こす能力を持ち、かつ、情況に合わせてその瞬時の適用と転用が図れた。多くの場において、田中は勇敢であり、天皇に忠誠であり、東条を嫌っていた。1942年、アメリカ攻撃をめぐって東条と対立し、その戦争中は、退役の身となっていた。
 新任の天皇の顧問、松平康昌宮内省大臣の承認をえて、1946年2月、田中はキーナンの尋問官のもとに出頭した。田中はただちに戦勝者への嫌悪をおさめ、彼はキーナンの最も価値ある人物であり、検察、弁護の区別なく証言するマッカーサーと天皇への忠僕となり、たとえ敵対する目撃者としてでも、その正確さと丁寧さを維持した。彼のその二年間の役務中、十年ないし二十年昔の出来事の詳細を思い出すよう尋問されながら、あらゆる方面からの容赦のない非難のもとでも、たった一つの誤り、しかも取り上げた日の日付が誤っていたのみ、しかおかさなかった。1970年に至っても、日本人の間で、怪物田中が東京の米国大使館や皇居からの保護を受けていると思われているのも、不思議なことではなかろう。
 大柄で武骨な田中は、すぐに、主席検事キーナンに親しいボディーガードとなった。二人は、両者に共通するフランス語を使い、田中はバーボンをあたかも「特級酒」ように楽しむことを覚えた。田中が出版した回顧録――彼が残した未出版の膨大な覚書きには比べようもないが――によれば、キーナンは田中を日本暮らしのガイドのように使った。もし、キーナンが女性関係を望んだ時は、彼はただ会話に 「Je suis fort.
(私は強い)」 とだけ言えば、田中は電話をかけてその段取りをととのえた。実際、田中は何事にも明るく、靴を脱ぐのを嫌うキーナンが、靴のまま畳の間に入り込んでも問題を起こさないような、そんなくつろぎの場をも手配した。キーナンは、アメリカ人将校と日本の上流婦人との間の関係を良しとしていなかった。彼はよく言った。「私もちょっとしたあそびは好きだが、素人に手を出したりはしない。それはよくない。」
 日本人劇作家とせりふ係によって、筋書きが作られ、役者がその役回りを学び、監督キーナンと演出家マッカーサーがもっぱらユーモアをもって描かれる一方、その公判の真剣さと高い目的において誰をも印象つけうる一つの舞台装置が準備されていた。二年半にわたるその法廷劇は、阿南陸軍大臣が最後の日を過ごした建物に隣接する、市ヶ谷台の旧陸軍士官学校の講堂で上演された。証言席は暗い板張りの講堂の中央に置かれ、日本、アメリカ双方の法律家の席がそれを取り囲んでいた。部屋に入ると、証人席の右手には、被告の位置する急な三段の席があった。左手には、荘厳な暗がりの中に、判事の位置する不自然にそびえ立つ磨き上げられた席があった。壁に沿ってバルコニー風の傍聴席がもうけられ、ガラス張りの部屋には記者と通訳者が収まっていた。延数キロにもわたる電線で結ばれた各々のヘッドフォーンは、裁判の進行を、選択した言語――フランス語、ロシア語、中国語、英語、日本語――による同時通訳で聞くことができた。60個所の照明が、部屋を昼間より明るく照らしあげた。数百人の翻訳者と法律家が投入されて、審問、答弁、修正、証拠物件が、東条、松井ほか5人が絞首刑とされるまでに、20万ページにもおよぶ暗欝とした記録としてまとめられた。検事陳述は、1946年6月13日より開始された。弁護陳述は1947年2月から1948年4月にわたった。判事による判決は、1948年11月12日に下され、その判決は1948年12月23日に執行された。(134)


苦しい判決

 裁判に携わる11人の判事のうち、ただ一人が法廷内での発言を許された。さもなければ、法廷は混雑の場となるおそれがあった。他の判事は、自分の質問や意見を書いて手渡さなければならなかった。事前の政治的措置をへて、裁判長の発言権は、1946年2月14日、オーストラリア人判事、ウィリアム・ウェッブ卿――オーストラリア北部のクイーンズランド州の主席判事――に授与された。彼はほぼ二年ほど、ニューギニアとラバウルで日本人戦争犯罪人を裁く経験をしてきており、そうした地域での日本人が行った残虐行為について熟知していた。そこで、弁護側の米国人弁護士は彼の予備知識を理由に解任されるべきだと動議を出したが不成功に終わっていた。(135)
 ウェッブ裁判長は、大男で、疲れを知らぬ、鋭い執念を持つ男だった。その青い目が濃い眉毛の下から射るような視線をおくり、深いしわが口のまわりに刻まれていた。彼の鼻は大きく、彼の指揮は英国のチャーチル風だった。彼は自分の職務に、高い尊厳、完璧さ、独立不羈の気概を抱いていた。もし、出勤の際、彼の秘書が時間通りに迎えに来なかったり、あるいは、彼の運転手がアメリカ人MPから不正な交通券を受け取ったりしたならば、総司令部は彼からの手厳しいメモ書きを覚悟しなければならなかった。もし、法廷のエアコンやイヤホーン装置が故障したなら、これまた、ウェッブの報告事項に取り上げられなければならなかった。東京のどこにも、ウェッブとマッカーサーほどの無味乾燥したスタイルを受け入れている場所はなかった。(136)
 ウェッブは、天皇――マッカーサーが「立派な自由主義的な紳士」として鍛え上げようとしていた――が実際の日本で最初の戦争犯罪人であることを確信していた。1945年の初め、自国政府の求めに返答して、ウェッブはオーストラリアの外務大臣、H.V.エバット博士に、「天皇の件は一見して明らかなケースであるが、このケースは最高の政治的、外交的水準において扱われるべきである」と打電した。というのは、法廷が開始される前に、そのように表明することで、ウェッブもまた、自国政府に、天皇を裁くいかなる判決からも自分が除外されるべきであると感じていることを知らせておくためだった。そして彼は、その最高の政治的外交的水準において天皇が排斥された裁判を担当する際には、彼はそれを統率したいと、自らを鼓舞していた。(137
 ウェッブの裁判手続きに向けた考えは、列席するの法律家のうちで最もはっきりものを言う、アーサー・ストレッテル・コミンズ・カー氏によっても、その一部始終がほぼ共有された。コミンズ・カーは、法廷の英国法曹団の長だった。彼は、40年の経験を持つロンドンの名高い法廷弁護士で、法学院の幹部だった。痩身で背が高く、豊かな知識とユーモアを含む皺がちの顔を持ち、法廷での魅力――額に垂れた茶髪、円熟した声、席に着き弁論を始めるまでの穏やかな機知――に富んでいた。コミンズ・カーは、28人の被疑者の告発草稿をまとめた。ウェッブ裁判長のように、歴史的事実を熟知し、ウェッブと同じく、法廷手続きは英国式に行った。検察側としてキーナンにつくか、あるいは弁護側として被疑者につくアメリカ人弁護士と違って、彼は天皇を防衛することにことさらの関心はなかった。彼とウェッブ裁判長は、裕仁にまつわる体の良いまねごと裁判を大目に見ていた。コミンズ・カーは
〔天皇の〕罪状情況に触れ、くどくどと引き延ばし、そして、行き過ぎた時には、ウェッブの忠告を素直に受け入れた。ある時点では、彼は戦時御前会議の記事録の写しを総司令部が隠蔽しようとしているとさえほのめかした。そうした文書は、たとえ存在したとしても、裕仁の戦争犯罪を有罪とも無罪とも決められないものであったろうし、法廷でその存在が否定されることにもならなかった。コミンズ・カーはただ、自分のほのめかしをひっこめ、議事違反が命じられた際には、他の事項へと話題を移した。彼の指摘は後に公判記録から落とされ、その未完の原稿のみに発見できるだけであった。(138)
 ウェッブ裁判長とコミンズ・カー英国検事は、合衆国主席検事キーナンを、はじめから、その法律スタイル、弁舌法、そして何よりも、天皇を救う使命を果たそうとするその独善性がゆえに嫌っていた。やがて、アメリカの報道陣がそう呼ぶ、「キーナン-ウェッブ確執」は、専門職間の法廷儀礼を破って、法廷内で公然と交わされるようになった。キーナンは法的やり取りでは見劣りしたが、彼はウェッブの当てこすりの冷風に抗して、したたかな反撃に成功していた。一、二ヶ月に一度、キーナンは記者会見を開き、天皇を有罪とする証拠はないと、くり返し発表した。
 キーナンは、落ち着き始めた日本と、ウェッブ-コミンズ・カーの執拗な当てこすりを除いて反対勢力のないことを背景に、裁判開始から最初の数ヶ月を無事にこなした。しかし、裁判が進行し、証拠が提出されるにつれて、アメリカの報道陣が以前の批判から方向を転じ、ますます難しい質問をぶつけはじめた。キーナンは、それを黙らせるため、1946年9月25日、1941年末の真珠湾計画を天皇は事前には知らなかったとの証言を、退役海軍総督で元首相である岡田証人から引き出そうと試みた。彼は、岡田の、天皇は「戦争を好まない」でいたが、それを避けるのは不可能であり、「その勝利にも敗北にも無関心だった」との言葉を引き出すことに成功した。(139)
 「この裁判とそれはどう関連があるのか」と、ウェッブ裁判長は問うた。
 ウェッブは、不同意げに「ふん」と言いながらも、それ以上なにも言わなかった。木戸が弁護士事務所で幾度も指摘したように、彼の日記は、真珠湾の八日前、弟の高松宮による攻撃計画を再考するようにとの最後の嘆願を裕仁は拒絶したことを記している。裕仁は、参謀本部長たちから、日本の勝利の機会、すくなくとも、優勢に立って和平交渉にのぞめるとする確認をとった上で、そうしていた。色々な証言から、ウェッブは、裕仁が真珠湾攻撃の計画を、仔細に検討し、それを承認し、そして、自らすすん、その攻撃に十分先だって宣戦布告書に署名していたことを知っていた。ウェッブはまた、キャンベラの自国政府が、誰が法廷に立つかを選ぶ権利において、アメリカの検察部に同意していたことも承知していた。キーナンにしてみれば、合衆国の名誉は、被告席の一握りの被告以外に日本には戦争責任を真に負うものが誰もいないという奇異な論法にかかっていた。より多くを知り、より悪くを働いた何千人もの日本人は、周到に情勢を嗅ぎまわり、自らの自由と利得ある追求を得ようとしていた。(140)
 次の日、キーナンは法廷外で記者たちに彼の何百回目かの見解をあらわしていた。「徹底した調査は、天皇が謀略に加担していたとの告発を支持するいかなる証拠もないことを、検察団をして確信させるに至った」。(141)
 一方ウェッブは、彼を担当する記者に、こうもらすことでそれに応じた。「誰が告発され、誰が告発されないかについての決定がきわめて迅速になされ、天皇が裁きにかけられなことが決った。これが正当か否かについては、いろいろな見方がされるべきだ。ことに、一国の元首は、その閣僚たちがなした行為に責任を負うとの原則が維持されるなら、その元首は少なくとも法廷に立たされるべきであるということに照らして」。(142)
 裁判の終結が近づき、絞首刑とか禁固刑とか無罪放免とかといった被告席にある者たちに下される判決の瑣末事項に注目が集まってくると、キーナンは自分の立場が次第に困難となっていることに気付いた。1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は限度を越えていた。中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた。(143)
 要するに、東条は不当な扱いへの不満を抱いており、それを訴えるに違いないと期待されていた。彼は融通が利かないほどに理屈っぽく、ほぼ西洋的な考え方をしていた。彼は受け入れた毒杯を法廷の床に投げつけ、皆に飛び散らかせるかも知れなかった。だが、アメリカの検事、ジョン・W・フィエリーは、刑務所で東条に尋問し、彼のケースの複雑さの一部始終を知っていた。そこでキーナンは、東条を法廷で審問し彼を正しく導くことは、政治的栄光を獲得することでもあったため、フィエリーを左遷することに決め、東条の反対尋問を自らが行った。正確に言えば、彼は自分が反対尋問を行うことが許されると要求し、フィエリーにその詳細な追及をさせたが、法廷は、ウェッブ判事が異議を述べたものの、各被疑者にはただ一人の反対尋問者が許されることが最も公平であると裁定した。キーナンは自分で全責任を受け入れ、フィエリーはそれに抗議して検事を辞任したのであった。
 1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、
〔木戸の〕弁護人ログマンはこう質問した。「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」(144)
 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。木戸はまた、刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した(146)。小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
 後になって、1948年1月8日、キーナンは、まさしく東洋の夜への招待を受けた。そこは、海辺のリゾート地、熱海のある金持ちの別荘だった。松井大将の慈悲観音が山上より、月光に輝く湾を見下ろしていた。二人の元首相、元陸軍大臣、そして熱海市長らがキーナンをもてなしていた。 「Je suis tres fort. (私はとても強い)」とキーナンは言った。宴が終わると、市長は女たちを呼び、日本の政治家だった老人たちはキーナンに最初の選択権を譲った。その夜遅く、キーナンは田中に、「もてなしとはそういう機会をつくるものだ」と話した。夜の明けかけた道を東京へと戻る際、列車と競いそれに勝ったということで、彼はお付きの運転手に百ドルを与えた。彼は、天皇の顧問、松平より、宮中での晩餐に招かれた。戦犯裁判における彼の二重の役割が、天皇に説明された。だがそれに天皇は、「ああ、それは結構です」と言ったのみだった。(147)
 三ヶ月後、弁護団は証拠提出を終え、ウェッブと十人の判事は、証拠、審判の草稿、そして判決の同意について熟慮するために休廷した。ウェッブが事実を見直せば見直すほど、真実の半分しか法廷で明らかにされていないと彼を不安にさせた。1948年2月11日、雑誌 『ライフ』 の「キーナン-ウェッブ確執」との記事に応えて、彼はマッカーサーに手紙を書いて説明した。(148)
 春が終り、夏を迎える頃、ウェッブの疑念は膨れ上がり、明らかに忠誠にとりつかれそして主人を守るために自らに嘘をつこうとした男たちに、果たして死刑は必要なのかと案ずるようになった。そして、それに代わって、ナポレオンのように扱い、離島に島流しにしてしまうよう連合軍に要求する考えに確信を抱くようになった。彼は自らの審判の最初の草稿に、情況に応じては「復讐」と見られかねない死刑に加えて、そうした被疑者には「地球の遠隔地に追放する速やかで壮観な死」がふさわしいと提案した。
 ウェッブはこの立場を、審判の第二の草稿にさらに強化し、1948年9月17日、次のように、それを法廷の他の判事の間に回覧した。
 ウェッブの同僚の判事たちの過半数は、この良心的な文章が、一方では日本の懺悔主義者たちによって、他方では共産主義者たちによって、誤解されるだけだろうと感じた。〔判事間の〕再三の票決が不成功に終わり、ウェッブはいさぎよく自分の主張を断念し、1948年11月4日、彼は法廷で、天皇の役割について彼が骨身を削った特記条項を含まない多数判決の朗読に入った。彼がその判決に同意したのは、裁判長として、各判事がそれぞれに異なった意見を扱うことを避けるために、妥協の例を示す必要があったからだった。そうではあったのだが、11人の判事のうち、4人だけが全面的な同意を与えたのみで、7人はそうでなく、うち4人はそれぞれ独自の判断を書いた。ソ連と国家主義者の中国の判事は、他に選択がなく、ウェッブように、自らの不安を抑えつつ、「多数」判決に冷やかに署名した。フィリピンのジャラニラ判事とオランダのボリング判事は、戦争中、共に自国領土が日本に占領されており、被告にもっと重い判決をのぞむ所見を書いた。インドのパル判事は、自国が侵されることなく、また、日本人と仏教の宗教的伝統を共有しており、西洋に対して戦争に訴えたことをもって日本を非難する道をとれないとして、根本的な異論をていした。フランスのバーナード判事は、ウェッブ裁判長を躊躇させたと同じ理由で、異論を表した。
 戦争こそが、「すべての告発から逃れ、また、それがゆえに、いかなる事例であれ、現在の被告たちが共犯者と見なされている元凶であることは否定しえない」、とバーナードは記した。(150)
 キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。(151)
 天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。
 一波乱の去った戦犯裁判後の数年、マッカーサーの、過去のことは過去のこととする政策はさらに維持されていた。占領が終結する1952年を前に、死刑をまぬがれた「戦争犯罪人」は、最初の一時帰宅釈放が許され、続いて、一人ひとり、永遠に釈放されていった。1956年までに、全員に再び自由が与えられ、多くが政治の闇取引の世界に戻って行った。太平洋の島々で死んだ者たちは、故国に戻って、日本のアーリントン国立墓地、東京の靖国神社に葬られた。合衆国は、忍び寄る共産主義と自国が第二のヒロシマとなるかも知れぬという、想像上の恐怖にとらわれていた。1968年、日本はその廃墟のなかから、国民総生産を米国、ソ連に次ぐ位置にまで高めて、世界第三位の大国となった。日本人の多数は、かつての敵国アメリカを、止む無くではありながら同盟国と考えるようになった。共産主義国中国の成長をみつめる日本の支配者階級の少数派は、それをを威嚇と見るようになり、米国が日本を防衛するために大きな出費を行う事実に、皮肉な満足を抱いていた。
 裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。彼は日本国内では、高齢世代がいまだに彼に抱く崇敬によって守られていた。もはや裕仁という名は、口に出すことのできないタブーではなくなったが、ある社会党国会議員が見せる時折の非礼は、庶民の間で話題とされたが、かといって真剣に受け止められることもなかった。その初め、裕仁は引退中の立憲君主としての役割を楽しんだ。戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。
 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。記録の不足から、日本の歴史に関心をもつ数少ないアメリカの歴史家は、彼らの見解を、少数かつ接近可能な日本の老政治家仲間からの口頭の情報をもっぱらの拠り所とした。同じ語り手に、幾度もいくども会見し、その話は、会見の度に、より聞こえよく、その場限りの、あたかもありそうな展開となった。すなわち、質素で、権威が重きをなす、人口過密な社会での何世紀もわたる経験から学んで、あらゆる日本人は、心地よい幻想を創造し、それが現実化しうると確信することに熟達してきた。誰もが、都界の住居の小さな裏庭で、低木を丹念に世話し、石を巧みに配置して、森や山の美しさの誇らしい所有主となった気持ちでいる。部屋と部屋とを分けるただの紙のつい立が彼らにプライバシーを与え、隣室で何が話されているかに注意を払うことを禁じている。
 しかし、1960年ころより、日本の歴史家や物書きたちは、自らの言葉でもって書きとめながら、「天皇の新しい服」にある何らかの透明さを、慎重に表現し始めた。彼らは、「失われた」記録――宮廷者の日記、提督の記録帳、将軍の日誌、政界のさまざまな覚書や議事録、法廷記録の写し、そして復活された秘密警察資料――に立ち向かい始めた。かつては、自らの安全を第一とした人々が、恐るおそるながら、思い出を口にし始めた。神聖なる祖先や、将来の神聖なる子孫のために、世界を征服しようとの日本の試み――裕仁の試み――の誇るべき真実が、書きとめられなければならなかった。その多くは、断片として、小さな出版社による小さな出版物に、個人出版の書籍に、あるいは、手から手へと回覧される手記に、姿を現しはじめている。こうした新たな資料より、日本の新たな真実が、西洋の歴史家がまだ関心を払ったことのない物語を告げはじめている。それは、陰謀と殺人と東洋の「生の政治」による、奇怪な物語である。おそらく、それほどの規模をもった探偵小説も、それほどの古きに根差す語り草も、かって存在しなかったであろう。その起源をたどるために、われわれは、二千年以上の昔にさかのぼる必要がある。

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