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第五章
ペリー来航
(その2)


黒船

 マシュー・カルブレイス・ペリーは、〔米英戦争中の〕 1813年のエリー湖の戦い後になされた報告――我々は敵と遭遇し、全てを捕獲した――で有名な、故オリバー・ハザード・ペリーの弟だった。マシュー・ペリー提督は、米国海軍の最初の蒸気フリゲート艦、ミシシッピー号の設計および建造を監督し、メキシコとの戦争では、ベラクルス州を獲得する際の彼の旗艦としてそれを用いた。彼は広く海軍じゅうに、「老練マット」として知られ、物事を成し遂げる才を持った、寡黙で厳格な人物であった。その外見は恰幅よく、見てくれを重んじ、落ち度のない服装をしていた。彼の二重の顎は、つねに糊のきいた襟のように、時によっては金の組み紐のように目立っていた。彼は、アメリカの輝かしい運命――1848年に、アメリカはメキシコよりカリフォルニア州を割譲されていた――は、太平洋の向こうにまで拡大されると信じていた。日本でやがて「黒船」として知られるようになる彼の艦船は、「異教徒へ神の福音を」を運んで行こうとしていた。
 ペリーの艦隊は、二隻の帆走戦艦と、二隻の蒸気外輪走戦艦で編成されていた。ことに二隻の蒸気船は、「綱引き戦」になった場合、天候に拘わらず、曳航しようとするいかなる数の警備艇にも勝ちうるよう、配備されたものだった。ペリーは最初、沖縄――九州の海洋志向の薩摩藩の属領――に立ち寄った。そこで彼は、教練と砲術の威力を見せ付けていた。彼の水兵は、首都、那覇の砕いたサンゴを敷きつめた中心街を現地の宮廷――王家の血を引くという少年が、官僚的な「摂政」の監視のもとに支配されていた――へと、無理強いに行進した。献上物を贈り、儀礼のあいさつをした後、ペリーとその一行は、江戸へ向けて出帆した。薩摩藩海軍の縁高の伝馬船が、ペリーの到着という先の凶報ではありながら、今度は彼らを那覇港外にまで送り出したことを、彼は気分良く受け止めていた。
 1853年7月8日、彼の見張り番は、水平線上にそびえる富士山をとらえ、やがて、日本の漁船が沖へ向かう風を受けていた帆を下ろして、「野鳥が飛び去るように」、遠くの海岸線に向かって漕ぎはじめたのを発見していた。午後5時、アメリカ船が、東京湾内の浦賀沖1マイル〔1.6km〕に錨をおろすと、寺の鐘という鐘は、その日本の中心部一帯に、警報を打ちならしていた。浦賀では、年老いた婦人たちが、神社に参って祈祷の手を打ち、アメリカ船団を吹き払う、神の大嵐がやってくるよう祈っていた。
 江戸では、今日風に言えば、「軍馬の足音、兵士の武器の操作音、車の騒音、消防士の行進、引っ切りなしに打たれる鐘、女たちの金切り声、子供の泣き声などが、百万超の人口をもつ都市のあらゆる街路に響き渡り、混乱と混迷を深めていた」。質屋と金貸しはその夜、田舎に逃げ出そうとする高貴な家族に現金を供給し、資産を成した。一方、孝明天皇は、京都――西へ300マイル〔480km〕――の風通しのよい大きな方形の宮廷の背後の居心地のよい私邸にいたが、深夜をやや回ったころ、伝書鳩によるアメリカ人来航の報を受け取った。
 夕方の爽やかな風の中で、投錨してひと息ついた際、そのペリーの最初の日本人との接触は、友好的とはとても言えるものではなかった。警備艇が四隻のアメリカ船のまわりに群がり、興奮した日本人は綱や錨の鎖をよじ登り、海中に捨て去ろうと、揺すったり、突いたり、銃剣で刺したりした。夕暮の中で、一隻の指揮船と見られる船が、黒と白の縞の小旗をかかげて、ペリーの旗艦、外輪船のサスケハナ号に接近した。
 「当方はオランダ語が話せる」と、たどたどしい英語で叫んだ。
 ペリーのオランダ人通訳者は、そこで手すり越しに、ペリーは浦賀の最高責任者以外と会う積りはない、と叫び返した。そしてもし、名代〔みょうだい〕がペリーの部下と交渉する用意があるなら、乗船してくることもできると伝えた。浦賀奉行所の与力
〔地元警察副所長〕は、通訳と共に甲板に上がった。通訳は彼を浦賀の副奉行だと紹介した。彼らは、階下にあるペリーの居室の隣の海図室に案内された。ペリーはそのやり取りをドア越しに聞き、それに指示を与えつつ、日本人に、提督はアメリカ海軍の最高位官であり、日本の同等者以外と会う積りはない、と説明した。それ以来、日本人は彼を海軍大将とよび、それにはペリーも少々当惑させられることとなった。
 ペリーは、その時、米国大統領のミラード・フィルモアの書簡を持参していた。それは、ペリー自身の草稿を下地に、ダニエル・ウェブスターが手を加えたものだった。それは、「天皇」に宛てられており、日本に文明国同士の通常の交流を開くよう要求していた。だがアメリカの使節たちは、「将軍」が「天皇」のことだと早とちりに思い込んでしまった。日本側の交渉者はみな、江戸の徳川幕府の末端の官吏であったので、彼らはアメリカ側の誤解を正さず、それ以降も、ペリーと交渉する者をすべて「親王」と紹介していた。日本人は、そうはしながらその内では、1745年以来のオランダの報告より得ていたみずからの知識と比べ、アメリカ人の無知を見下していた。しかし、天皇については、それを包み隠しつづけ、宗教的存在としてどういう意味をもつのか、決して明らかにはしなかった。数年後、最初のアメリカの領事、タウンゼント・ハリスが天皇の存在をようやくにして知るに至った時、彼は自分の日誌にそれを、「ポリネシアの魔法のタブーと同じほど入念に隠されたタブー」、と書いている。
 大統領ミラード・フィルモアの「天皇」に宛てた書簡は、こう述べていた。
 その書簡は、上質皮紙に書かれ、金で合衆国の国璽が押され、立派なシタンの箱に納められていた。浦賀奉行所の与力はそれを見ることを許された。彼は、こうした書簡は、定めにより、長崎の認可されたオランダの窓口を経由して提出されるべきものだ、と抗議した。隣室のペリーは顔を出さないまま、そうした我国の君主からの書簡は、日本の首都において、国から国に直接に渡されなければならない、さもなくば、何の意味もない、と声高く言った。ペリーは、東京湾縁のしかるべき所で、それを自分と同等の地位にあると思われる者に渡し、彼が待つ間、日本が、彼の船隊にまとわりつく警備艇の群れを解散させることを期待した。さもなければ、彼は大砲でそれらを追い払ってしまうかも知れなかった。
 その浦賀奉行所の与力は、次の指示を受け取るまで、時間をもらいたいと述べ、大半の警備艇を引き連れて引き上げた。残っていた数隻は、サスケハナ号が小舟を下ろすと、ただちに漕ぎ去った。夜となった。アメリカ人水兵が、持ち場や砲門の脇に立って見張りをつづけている時、陸上では、かがり火や合図の花火がゆれていた。鬼の顔の兜をかぶり、肩までたれた馬の毛のかつらをつけた騎士たちが、鎧をつけた武士の群れをひきつれて、近辺の地区から騎乗して集合してきていた。そして、巨大な砦らしきものが港を見渡していた。だが、その大砲は、すべて骨董品同様または木製の偽物で、また防壁のいくつかは、にわか作りの舞台道具だった。ペリーは、夕方の内に、望遠鏡を通して観察し、「見せかけ」だと断言していた。しかし、彼の部下たちは彼ほどには自信がなかった。多くの者たちには、その夜は眠れぬ夜となった。
 翌夜明け、海岸には、袴をはき、羽織と外套を着、頭の上でまげを結った侍たちが、予行演習しているのが見えた。彼らは、木刀を持って剣術の試合をし、ときの声をあげていた。時折、彼らは剣術訓練を止め、一列をなして浜辺を歩き、そして突然、全員が一丸のごとく、再び木刀をもって訓練にかかっていた。明るくなるにつれ、何艘かの小舟が近づいてきて、あえて艦隊のできるだけ近くに錨をおろした。アメリカの水兵たちが驚かされたことには、それらの小舟は速描する絵かきたちで満たされ、アメリカ船の板張りや艤装の詳細を描いていた。一週間後、そうした絵のすべては、将軍の軍事専門家によって検分され、そのうちの何枚かは、耳さとく新し物好きの江戸の繁華街での売りものとなっていた。
 午前7時、2隻の伝馬船が櫓で後進してサスケハナ号に付けられ、浦賀奉行がペリーの旗艦に乗船した。前夜の会話が繰り返されて確認され、日本側は、指示をえるため江戸へ使いを送る故、4日間の猶予を求めた。つまりその江戸とは、京都を意味していた。将軍の城は、そこからわずか30マイル
〔46km〕であり、馬でなら2時間の距離であった。一方、京都の宮廷はおよそ300マイルも離れており、政府所有の最も早い急使と馬を用いても、丸24時間は要した。そして、今回のような危急の場合、将軍は、伝書鳩による非公式の知らせより、高官を京都に送り、事を十全に説明したいと考えていた。
 京都の天皇の存在を知らぬペリーは、回答をえるまでに、太っ腹にも3日間を与えた。そしてそれを待つ間、彼は付随のボートを使ってさらに進み、東京の内港の地図を作り上げた。その作業の間中、彼らを簡単に全滅させることも可能な数の警備艇がつきまとっていた。
 その約束の日である1853年7月12日、火曜日、将軍が受け取った天皇からの返答は、内容のない簡素なもので、日本の神聖さを守る将軍の義務を指摘するのみのものだった。その朝、浦賀奉行は、自分の船でペリーを尋ね、フィルモア大統領の書簡を、ペリーが後に長崎で
〔公式に〕提出することを条件に、今、浦賀で〔仮に〕受け取ることを、丁重に提案した。長崎は、江戸から充分に600マイル〔920km〕も隔たっているが故に、外国人を扱う公式の港とされていた。ペリーが無愛想にその提案を断わると、その書簡を受け取るため正式に認められた「天皇」の代理が出席して、7月14日木曜日に、陸上で受け取るとの確約をえた。
 それからの二日間というもの、日本の職人たちは、浦賀の街並みをおおう陣幕を仕上げるのに大忙しだった。それは、家々だけでなく、沿岸防備の欠陥を、侵入者の邪眼に触れなくさせるものでもあった。幾マイルにおよぶ幕は、様々な領主の家紋がほどこされ、海岸にそって、それぞれの竹の支柱の間に張り巡らされていた。船着き場の先端には、小ぎれいな儀式小屋が、きちんとした四辺形の鍛錬グランドの背後に建てられていた。
 木曜の朝、浦賀奉行与力がペリーを岸まで案内するためにサスケハナ号に来船した。彼は、金の袴に錦織の羽織を付け、つやのある漆塗りの下駄を履いていた。ペリーの公式な航海日誌によれば、彼は、「異様に目立つほとんどトランプのジャックのごときいでたち」だった。ペリーは、アメリカ側の威風堂々たる様と状況を見せるように訓練された選りすぐりの300人の随行員を用意していた。彼らが岸に近づくと、皮と鉄の鎧をつけ、緑や青やオレンジ色の領主の幟旗をなびかせた足軽が列をなしていた。その列の背後には、兜をつけた落ち着かない騎乗武将が並び、宝石の入った刀の柄や象眼細工のさやが陽光に反射し、彼らの長い深紅の槍旗が、ひらひらゆれながら地面へとたれていた。
 最初の海兵隊がその日本の聖なる地に足を下ろした時、それを見つめていた何百もの武士たちは、怒りの声をあげた。ペリーの一行は、背後の艦上で、一斉に準備を整えている大砲を頼りに、だじろがず、用心していた。銀のトランペットの鳴り響きとシンバルの音で、海兵隊の楽隊が「コロンビア、万歳」を演奏し始め、続いて、前衛隊が上陸した。そして次に、ペリーの旗手とフィルモアの声明を携えた二人の若い少尉がそれに続いた。その後ろを、ペリー――日本人がそう呼んだように、「気高く力強い神秘」――が歩いた。すべての部下たちの中で、彼だけが、最新の青の制服と、羽飾り、三角帽を付けていた。航海日誌によると、彼は「その小艦隊が出すことのできる彼らの仲間内でもっとも格好のいい二人」のアメリカ黒人を両脇に従えていた。彼の後ろには、銃剣付きの銃を構えた海兵隊員が列をなしていた。
 書簡が提出されることとなっていた会場の中は、紫の絹の掛物とバラ色、白、青の撚り紐で飾られていた。仏像のように無表情の日本側の使者は、赤の毛氈でおおわれた高座の上に跪座していた。アメリカ側のために、会場の反対側には椅子が並べられていた。日本人に関する限り、椅子は中国の産物で、幾人かの仏教僧が用いる以外、日本では使われないものであった。だが、アメリカ人はそれ以外には座らないと知られていたため、それらの椅子は、近隣の寺院からそのために集められたものだった。
 ペリーとその随行員が着席するとすぐ、案内係をつとめていた二人の少尉が、シタンの箱を、高座の端に持ってゆき、親王として出席している二人の高官がそれを受け取った。だが実際は、彼らは
〔親王ではなく〕町とその地方の奉行だった。奉行は立ちあがり、受け取りの公式声明を読み上げた。そのあけすけな平静さは、日本人が、オランダについての情報のすべてをもってしても、円滑な外交上の機微をまだ何も知らないことを明らかに示していた。
 ペリーとその部下は自分たちの通訳を通じ、儀式の後にも何らかのやり取りをしようと試みた。しかし、日本の高官はただ一語の返答をし、沈黙が長々と続いた後、ペリーは「翌春」に「天皇の返答」を受け取るために戻ってくると申し渡した。そう言ってペリーは踵をかえし、海兵隊を引き連れ、にらみつける侍たちの列の間を、船着き場のボートへと引き返した。「帰国されたい」との言葉が脳裏に刻み込まれていた。ペリーは、帰国に先立って、再び、東京港内を測量したり、深さを測ったりした。いらいらした「トランプのジャック」から、なぜ出発しないのかと聞かれた際、ペリーは、来春、いっそう大きな艦隊を率いて戻ってくる積りなので、十分な深さがあるか知りたいだけだ、と返答した。7月17日、日曜、8ヶ月後に再び戻ってくるために、ついに錨をあげて出帆した。


ペリーの再来

 その8ヵ月の猶予の間、日本はいっそう内向きに騒然とした。60歳の将軍は、「不安」のうちに死を迎えた。その後を、29歳の取るに足らぬ者が引き継いだ。だが実際の権力は、新将軍の老中首座で若干34歳の阿部正弘――この氏名の文字上の意味は、「おもねる部署」の「適法な範囲」――の手中にあった。彼はその名にたがわず、あらゆる政治的狡猾さにたけていた。彼は、京都の宮廷との親密な関係を買われて、その地位に抜擢されていた。そこで、彼は、甘言を並べた手紙と献上品を、孝明天皇の主席顧問、朝彦親王に送っていた。阿部はまた、その朝彦の友人で海洋志向の薩摩藩の島津斉彬を、将軍の相談役メンバーに任命した。さらに、印刷所もかねた寺に幽閉されてきた親王派の水戸藩主を解放し、大砲工場を担当させた。
 ここで重要なことは、幕府が外国の脅威の前に困惑し、援助と国をあげた知恵を結集することを必要としていると、阿部
〔という政府首脳〕が認めたことであった。彼は、そうした助言を得るために、59人の主だった藩主に質問書を送った。彼らのほとんどは、開国には反対で、必要とあれば戦う用意がある、と文書で返答してきていた。しかし、うち19人のみが、ペリーの要求と即座の戦争へのきっぱりとした拒否を支持していた。18人は、臆病に宥和政策と、言質を与えない交渉で引き延ばすことを忠告していた。他の22人は、外国貿易の開始は、西洋の技術を得ることを可能とし、反撃の準備をありうるものとすると述べていた。彼らは、今や、野蛮人たちに首を垂れている時ではなく、野蛮人たちをそれほど強硬にさせている軍事技術を学ぶ時である、と主張していた。この穏当な立場は、武士階級以外の大半の日本人、ことに有力だが蔑まされている金貸しや商人たちによって支持された。こうして、日本を小馬鹿にしたペリーの強硬姿勢は、鎖国が日本をどれほど時代遅れとさせているかを露呈させ、かくして鎖国政策は広く支持を失うこととなった。
 藩主たちの見解に力をえて、阿部は、その穏当な立場を孝明天皇にも求めた。だが、今や22歳となった筋骨たくましい陰気な若者天皇は、それを確信しているわけではなかった。二百年の平和の果てに錆ついた日本の百万の武士は、鎖かたびらをまとい、モンゴル馬にまたがり、優れた刀をさげ、古式な火縄銃を備えて、まだ、何らかの存在価値がなくてはならなかった。そして、むろん、孝明天皇は正しかった。彼らは、日本を開国させるというアメリカ人の夢を、それを追求するアメリカ人に、
〔そうした武士たちをあおって〕はるかに高いものにつかせることができた。一方、阿部は広い政治的後押しを持っていた。そしてそれがゆえ、主席顧問の朝彦親王の助言をえ、それにより孝明天皇は妥協し、将軍の宥和政策に表立った反対はせず、日本が防衛を強化している間、ペリーには丁重に時間稼ぎの対応を示すことに同意した。
 翌1854年2月11日、ペリーが三隻の蒸気船を含む9隻の「黒船」を率いて戻ってきた時、今度は、以前とは違って遥かに友好的に迎えられた。交渉会場の紫のカーテンの内で、彼は、話を交わすだけでなく、彼と酒さえ飲み交わす人たちを発見していた。そこでは、阿部自身や京都からの下位の廷臣たちは、偽って、幕府の小役人のふりをしていた。その後の6週間にわたる交渉において、ペリーは、1年以上前に自分の国に注文していた贈答品を日本人に贈った。それらの中には、1マイルの距離の電信線があり、通信文が記号化され、打信され、解読され、馬に乗った最速の使いがその通信文を伝える遥か以前に、受け取り側の日本の審判員にその通信内容が提示された。
 また、娯楽の面では、この黒船は「黒馬」をもってきていた。黒馬とは、小さなロバほどのミニチュア蒸気機関車で、幅18インチ
〔45センチ〕の線路の上を走った。ペリーは、交渉が続けられている船着き場の脇の広場に、環状の線路を敷いた。交渉の間の休憩の際、日本の代表団は、あたかも仔馬に乗るように、その小さな蒸気機関車に乗ることを楽しんでいた。身に付けた正装の袴を風になびかせ、勇敢にかつ甲高く笑い、時速約30マイル〔約50キロ〕で、ペリーの主任火夫が走らせるのと同じほどの速さで、その鞍なしの蒸気の怪物を乗り回した。それを見ていたオランダの技術教科書で習熟中の者は、そのアメリカ人おもちゃ鉄道員の一挙一動を記録していた。後に、この贈り物が進呈され、ペリーの技術係員が驚かされたことには、その勤勉な見物人が、将軍の江戸城外の公園に、その蒸気機関車のメリーゴーラウンドを、なんなく敷設し、うまく走らせたことだった(#)
 その汽車試乗が終わり、阿部正弘はペリーの要求を受入れ、また宮廷からの立会人たちは京都に引き上げて鞍ずれの痛みを癒し、そして天皇への報告を書いた。宮廷が思案中、幕府は独自に話をすすめ、合衆国との条約の草案を、暫定的ながら承認した。そしてその後の数ヶ月間には、ロシアと英国から提示された同様な条約も承認された。かくして、二つの港が外国との通商に開放されることとなり、そこに西洋の領事館員が在留することが許され、日本の法律を犯した西洋からの来訪者は、それらの港の自国領事官によって裁かれることとなった。この最後の条項――「治外法権」として知られる――は、日本の裁判所や警察が除外されかつ非文明的とされるもので、日本の官吏を憤慨させるものであった。もし、徳川専制政治のもとでの日本が誇るひとつの制度があるとすれば、それはその国家警察体制であった。


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