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第五章
ペリー来航
(その4)



不屈の西洋人

 朝彦親王が誕生日の宴を開いている頃、諸事にふさぎ込んでいた33歳の天皇は、先祖の天皇の墓に関して探究すべき問題をかかえていた。先の12月〔1862年〕、江戸からの二度目の密使が戻ってきた時、外国人を直ちに追放することに関し、将軍は何らの保障も与えていなかった。だがそれに代わり、その件について協議するため、将軍家茂が翌3月に上京すると確約していた。そしてその確約とともに、孝明天皇の祖先の墓を修復するための費用を提供するとの、気持ちが休まる提案がなされていた。
 宮廷のある部門は、1658年の徳川政権の発足以来の代々にわたる祖先の墓を再調査しそれを改修する責務を負っていたが、その正しい場所や修復についての仔細な調査を行うには、資金の不足に困らされていた。そうした資金難の問題を抱えているところへの将軍からのこうした寛大な申し出は、その敬虔な神道信奉者である天皇に、大きな安堵を与えることとなった。かくして、宮廷にあって、口やかましく外国人を嫌い、もっとも古びてもっとも役立たずのそうした神道復古主義者たちも、最重要な百の霊廟の一覧を作り、それぞれに鳥居や灯篭や舗道を整備し、ふさわしい碑銘を建てるための費用の見積もりをはじき始めた。そうした作業の始まった日、使者が最初の天皇である神武天皇のものとされる古墳に出向き、その偉大な事業の開始を報告した。
 〔1863年〕3月、17歳の将軍家茂が確約のとおりに京都に到着した。彼は十日間の京都滞在で済ます積りでいたが、孝明天皇は、全国の大名を集めた御前会議を招集した。その結果、将軍の滞在は二ヶ月を越えることとなった。この上洛に伴った家来300人の一行――去る1634年の同じような上洛の際の307,000人と比べると余りな落ちぶれであった――の中に、将軍は、ペリー提督やハリス領事との交渉に当った者や、アメリカ合衆国の直接の体験的知識をもつ者を加えていた。彼らは全国の大名たちに、産業革命の莫大さ――西洋社会を根こそぎに変え、日本が同じ変化を済ませるまで彼らを締め出しておくことの無益さ――を説明したが、空しい努力だった。
 精神論者の孝明天皇は、そうした話に関心を持たなかった。彼は、まるで死人のような熱狂さの境地にあって、亡霊たちと運命を共にしようとしていた。彼は、態度のあいまいな過半数の大名たちに、1863年6月25日
〔旧暦5月10日〕をもって西洋諸国との聖戦を開始することに賛同を求めた。そして、盛大なお茶と酒の宴の後、天皇は物思いに耽る思春期将軍を、真夜中に行列をなして連れ出し、京都の男山々頂の石清水八幡宮――戦争の神を祭る――へと連れて行った。そこで、松のたいまつの火の揺れる中、短いながら真剣に、黄泉の世界の霊の呼び起こしを行ってみせ、そして将軍家茂に、天皇家の神器のひとつである古代の剣を進呈した。それを授けながら、天皇は神の委託を繰り返した。曰く、「6月25日をもって攘夷をなせ」。
 5月の初め、「鶴の声」が歌う噂の歌が農民のあいだに流布した。日本の沿岸地方からは、何十万人もの女や子供が避難した。横浜の外人居留地では、5月5日、日本人の召使いが皆、一夜にして消え去ったことに狼ばいしていた。彼らは、それは、八ヶ月前に若い英国人、リチャードソンが殺されたことに対し、英国が要求していた10万ポンドの賠償金の厳しさのせいであると考えていた。
 沿岸地方の騒動の後まもなく、将軍家とその一行は、京都を後にして、遅れてはいるが数でまさる江戸に戻った。その帰路、将軍一行は東海道の陸路ではなく、海路をとって、公衆に日本周辺が〕まだまだ平和であることを印象付けた。そして将軍の重臣たちは、西洋諸国との交渉においても、懐柔策を重視していた。孝明天皇の言う戦争開始の前日である 6月24日、将軍は、天に逆らう意味をにおわせて、英国の要求を受け入れ、10万ポンドを支払った。その日は、午前中を通し、メキシコ銀の詰まった木箱が、徳川政府の金庫から英国船桟橋に運ばれ、立会人のもとで計量された。
 その報は、大名のうちで最強であるはずの徳川政権が、その聖戦に参加する意志がないものと、各地に伝書鳩で伝えられた。他の大名藩主は、天皇への忠誠はあったとしても、その皇族体制が曲がり角にある今、神道信奉者に追随しようとはしなかった。翌日、聖戦が開始されなければならないその日、長州を除き、すべての藩主は自領にとどまり動こうとはしなかった。
 京都市街で狼藉をふるう志士たちのため、長州は宮廷にも不評判だった。天皇への助言者であった開明的な貴族、岩倉具視は、まだ幽閉の身にあった。そこで長州勢は、宮廷の支持を今再び獲得し自らを売り込もうと動き始めた。本州と九州を、そして長州と薩摩を分ける関門海峡を、無警戒に通過しようとしているアメリカ船に対し、北岸の長州の砦から警告の砲火が加えられた。アメリカ船はその砲撃からかろうじて逃げ切り、血まみれの甲板と壊された艤装をかかえて、なんとか横浜までたどり着いた。
 興奮のうちに、横浜の領事や領事館員は将軍家茂に、あらゆる大名を同一の線に並ばせるように要求した。孝明天皇には何らの話もないまま、将軍の重臣たちは、海軍上の弱点と外交的な非礼を認め、外国勢に自国利益の追求を拡大する機会を与えた。7月、英仏連合艦隊が整然と西進し、長州の沿岸の74砲に砲撃をくわえて沈黙させ、そして海兵隊を上陸させて、起こした火災の鎮火に協力した。そこで彼らは、現地人が友好的であることに驚かされた。長州藩はそうした見せかけな行動をとって、〔攘夷の〕面子を保った。それに、わずか50名ほどの兵士を失っただけだった。
 8月の初め、これも将軍の重臣たちの姿勢に刺激されて、英国艦隊が薩摩藩の首都である鹿児島の沖に停泊し、リチャードソンを殺した犯人を西洋の裁判にかけるよう要求した。薩摩藩主の島津はこれを拒否し、沿岸防備隊が砲撃を始めた。だが、イギリス艦隊の旗艦は、賠償金の10万ポンドの銀を収めた箱が弾薬庫に通ずる昇降口の上に置かれていたために、ほぼ1時間にわたり、反撃の発砲をすることができなかった。薩摩の砲手たちは長州より進んだ大砲を用いていており、英国艦の兵士を少なくとも63名、死傷させた。英国艦隊は、鹿児島の街に焼夷ロケットを打ちこみ始め、燃えやすい市街の半分が焼けはじめた時、ついに、薩摩の砲撃手はその持ち場を放棄し、より重要である消火の役に回った。この場合では、海兵隊は消火への協力はしなかった。英国艦隊は、その要求の目的を果たせずにその場から引き揚げた。リチャードソンを斬った腕の立つ武士は、人々の懐の中に迎えられ、名誉をもってその後の一生を送った。
 孝明天皇は、長州と薩摩よりもたらされた英雄的な知らせに大得意となったが、義理の弟である将軍の外国人に腰砕けな態度には落胆させられていた。明らかに、徳川政権はもはや、野蛮人を征伐するという意味の「征夷大将軍」の名には値しなかった。それがゆえに、孝明天皇は、京都の親王派の志士たちに蜂起と倒幕をうったえた。3年前なら、呼応した隆盛が国を圧倒しただろう。しかし今や、大名たちは外人嫌いの天皇の知性に疑問を持ち始めており、天皇は過激な自説を、宮廷の狂気じみた神道学者や彼に追随する尊王の志士に委ねなければならなかった。
 幕府に叛逆することは、結局、あたかも衒学者や教条主義者であるかのごときで、彼らの行動に、現実的と言うよりむしろ象徴的であろうとしているかの意味を与えた。彼らは、自分たちの策謀を天誅と称して実行し始めた。そして彼らは、挙兵のきっかけを、孝明天皇が古代の首都である吉野――14世紀に分派的復古主義者の南朝の天皇が威信をかけて維持した――を訪問することをもってすると画策した。孝明天皇の側室である慶子の弟
〔中山忠光〕は、吉野で小規模な尊王軍団天誅組を組織していた。彼らは「王制」を復古すべく、土地の代官所を襲い、その吉野の歴史的意味合いを持ってすれば、その地方全体が尊王運動に結集すると期待していた。
 その蜂起が楽観的であったように、もし砲撃のために派遣されてきた艦隊に対して長州と薩摩に勝運があったならば、大衆もそれに呼応したかもしれない。両藩は、宮廷への最初の通報の中で、自らの被害は言いつくろい、相手に負わせた損害は誇張していた。噂による情報にたけた大衆はそれに感ずいており、つんぼ桟敷同然の孝明天皇のみが、不屈にも自らの計画を推進した。1863年9月末〔旧暦8月18日〕、そのクーデタ蜂起を明日としたその前夜、藩主島津と家来の薩摩藩武士は、馬を汗まみれにさせて京都に向かい、朝彦親王の屋敷へと駆け入った。島津はそして、先の野蛮人に勝利したとの報告は誇大なものだったと告白して再考をうながした。島津は、天皇に会う前に、事実を知らせようと決意していた。しかし、朝彦親王は、彼の友人島津と天皇の双方の面子をたてるため、ことを荒げないある方策を画策したのだった。
 その夜、親王派の宮廷人の一団は、彼らのクーデタに向けた最後の決意を固めるため、孝明天皇の私邸で天皇を交えて密会していた。
天皇は、白絹の着物で身を包み、金屏風の前に座していた。彼の共謀者は、部屋の反対側にひれ伏し、何事を言う場合でも、頭を床にすりつけたままだった。時折、侍女たちが、燗を付けた酒をその部屋の戸口まで運んできた。そこで彼女たちは膝をつき、額を床にまで下げて礼をした。また、側室の慶子は、その酒差しを受け取り、膝まづき、礼をしながら、膝を床から上げることなく部屋の中を移動し、彼女の主や賓客の杯を満たしてまわった。廊下や庭との間を区切る引き扉は早秋の寒さのために閉じられ、室内は香油の行燈の柔らかな明かりで満たされていた。
 突然、その扉が開けられ、朝彦親王が、それまでの2年間着たことがなかった古式の儀礼服を付けて入ってきてひれ伏した。畏れ入った抑制された声で、彼は今、神聖なお告げを得て、聖なる役務をとげるよう命じられ、星座が今の位置にある時、いかなる流血沙汰もひかえようにと天皇に忠告するために参じた、と宣告した。彼が言うところでは、自然災害が尊王運動の勝利を一時的に奪い去ると告げられたと言う。彼の予知は数時間後、藩主島津が薩摩より突然に現れ、英国艦隊を追い返した後、大火が鹿児島の街を焼き払ったと孝明天皇に告げた時、それが確認されることとなった。
 霊魂の意思に逆らっては何も達成できない。孝明天皇は、倒幕のクーデタを突如として取りやめ、彼のもっとも扇動的な政権奪還主義の貴族7名を追放扱いとした。吉野の側室慶子の弟――将来明治天皇となる当時10歳の皇太子の伯父――はその中止を知らされず、計画通りに事を進めた。彼は地方の政府事務所を占拠し、徳川幕府の代官所を襲った。短期の攻勢の後、幕府軍は再集結し、再強化を図って、その叛逆分子を捕え、慶子の弟を処刑した。京都では、島津藩の一団が、狼藉を働く多くの長州と薩摩の志士たちを検挙し、孝明天皇の7名の追放貴族とともに、故郷へと強制送還した
〔8月18日の政変〕


内戦

 翌1864年3月、京都での公武合体に向けた全国会議において、新たな尊王派である徳川家の水戸藩主と、同じく尊王派の長州藩主が、天皇の面前で、酒に酔って論争を始めた。そのうえ、長州藩の一団は、不平を表すビラと天皇の顧問団の増員を天皇に訴える嘆願書を持って、京都の北へとデモ行進した。その長州の一団は幕府の警察によって撃退されたが、天皇は、幕府が長州征伐に乗り出さざるを得ないことを、しぶしぶながらも了承することとなった。
 将軍家茂は15万の部隊を率いて、京都の南へと進軍した。一方、長州の若い刷新派の指導者たちは、それを迎え撃とうと、西洋式の軍事訓練を受けたライフル銃部隊を用意していた。だがその衝突は、最後の瞬間で、中立的な海洋志向の薩摩藩による仲介で回避された。長州の血気にはやる若き志士たちは、その休戦に不満だった。彼らはもはや日本の伝統主義者と妥協してゆくことが可能とは信じ難くなっていた。彼らは、改革の前進と国の西洋化のみが西洋の挑戦にかなう道であると感じていた。木戸後胤
〔別名桂小五郎〕――裕仁の内大臣であった木戸幸一の祖父――は、長州の内部でクーデタをおこし、和平を受け入れる長老政治家を権力から引きずり下ろした。
 1865年、長州の若い指導者たちは内戦の準備を進め、英米仏の合同艦隊は、まだ未開港の神戸港――京都に近い――沖に停泊し、条約の実行を急ぐよう威嚇していた。将軍家茂はようやく19歳になったところで、緊急の事態に備えて、その6月、自分の居城を京都に近い大阪に移していた。日本を覆う意見の対立に恐れをなし、孝明天皇は朝彦親王や島津藩主に勧められて、彼はようやくにして、西洋列強と11年間にわたって交渉されてきた条約への認可をあたえた。
 外国との条約を延長することで、将軍家茂は政権を維持し、国内不安を解消するため、長州に対する征伐を行った。だが孝明天皇は難色を示し、北方の徳川領主を除き、長州征伐軍への参加はなかった。それでも、頑固な若き将軍は、長州領域への進軍を進めた。彼の大軍は地上戦では勝利したものの、撃っては逃げる長州軍のライフル部隊には痛撃をくわされた。そのライフル部隊の隊長らは、後に1920年代までの帝国陸軍を率いた大将となる。将軍家茂の軍事顧問は、大規模部隊は長州軍の本隊と遭遇する以前に大損害をこうむるであろうとの警告を与えていた。1866年9月、20歳の将軍家茂は健康を害し、おそらく自分で負ったものと思われる「腹部の病気」で、突然にこの世を去った。


天皇殺し(13)

 国は行き詰まり状態に陥った。徳川政府、宮廷、そして長州、薩摩の藩主、すべてが尊王の努力を傾けたが、天皇の意思はかってなく、非現実的かつ我執に捕らわれていた。孝明天皇は若い親王派の水戸藩主〔徳川慶喜、29歳〕を後継将軍に指名し、内乱を収め、攘夷を進めることを命じた。1866年12月、孝明天皇と新将軍は全国の大名による会議を招集した。だが参加を要請された24の大名のうち、わずか5人の大名が参加したのみだった。
 1867年1月15日、孝明天皇は風邪を引き、お抱え医者が一服の薬を処方した。宮中の召使いをしてきた年配の侍女のひとりは、後にこう述べていた。「彼は天然痘毒を飲まされていた」。オランダの医学書に精通していた日本の医師は、1840年ころより、天然痘ワクチンを試用していた。その侍女が「毒」と呼んだのは、京都で頻繁に流行していたその伝染病に罹らないために、孝明天皇が飲んでいた経口ワクチンであったろう。次の朝、孝明天皇は身体の「不調」を訴え、医者の助言に従わず、宮廷内の神社での習慣的な儀式を行った。1月18日まで、彼は床につき、高熱を出しながら、食べることも眠ることもできず、精神錯乱してうわ言を言い続けていた。翌日、彼の主治医は「天然痘か憂鬱熱かのいずれか」と診断した。
 「鼻風邪にすらかかったことのない、血気と筋肉にすぐれた人」と、宮廷人の一人が日記に書いているように、「それはまことに驚くべきかつ痛ましい」ことであった。
 それからの数日、若く剛健な天皇は、天然痘の典型的症状を示した。1月20日、膿ほうがあらわれ、21日には、熱にのたうち、嘔吐をくりかえし、22日にはついに、主治医は天然痘と断定して診断し、「七つの寺院で、彼のための祈祷を」と命じた。23日になると、彼は脂性の膿ほうでおおわれ、のどは痛みのため、食物はおろか冷たい飲み物も受け付けなくなった。24日には、膿ほうは紫色に変わり、薄い粥は食べたものの、「御八、御九の穴」
#9 からも汚物を流した。1月26日になると、ひと時の回復を見せ、将軍慶喜や水戸藩主が彼を見舞って訪れた。主治医は、27日か28日が「峠となる」と告げた。膿の流れ出しは止まり、ほう創は乾きはじめた。29日、彼は回復に向かったようで、食もすすんだ。
 その夜には、彼の侍女が彼を風呂に入れ、彼の好物である酒を一口かふた口与えた。翌日の1867年1月30日〔旧暦12月25日〕、彼は苦痛で目を覚ました。そのすき間風の吹き抜ける宮殿は、いつになく静かで寒かった。誰もが控えておらず、侍女の姿すらなかった。彼は主治医である10人の医師たちに来てくれるように尋ねたが、その日は彼らのいずれもが他の要件で宮廷には来られない、との冷たい返答だった。動くにはあまりに弱っており、彼はうとうとし、ただ待つしかなかった。どこか遠くで、女の付き添いがその妹に、彼のふせっている寝室に入ることが許されていないという声がしていた。彼は度々嘔吐し、「虫の息」で、「御九の穴から御脱血」していた。その午後、彼はこん睡におちいった。その夕、医師たちは命じられて再び現れ、彼を診察し、彼の脈が弱まり、手足が冷たくなってゆくのを確認した。その夜、11時、彼は息をひきとった。
 その死はその後4日間、公表されず、葬儀も、22日間、行われなかった。日記を残した宮廷人によれば、孝明天皇は典型的なケースの天然痘を患いながらも生き残り、毒殺の典型的ケースとして祈られる存在となったとしている。
 岩倉具視――孝明天皇の主席顧問の貴族で、それまで4年間、追放身分となって京都郊外に隠棲――はただちに宮廷に復帰した。孝明天皇の死の一週間後、いまだ天皇の他の顧問である朝彦親王と確執のもとにあった時、岩倉は、薩摩の開明的な藩士のひとり――将来の日本の指導者の一人――に手紙を送った。岩倉はかれらと、それまでの幽閉と策謀の期間、連絡を取り合ってきていた。その手紙に、「私は諸君らをいかなる責任や処罰からも解放したい。私のみに責任がある」と彼は書いた。それに対して相手は、「沈黙しているのが最善」と返答していた。
 〔日本において〕ある天皇を追い払えということは、並大抵なことではない。どのような欠点があろうとも、代々の天皇は神であり、592年の崇峻天皇以来、暗殺されたものはいない。貴族である岩倉と同様、他の誰かが、1867年の孝明天皇の不可解な死に関っているのは確かだ。おそらく、敬虔な神道信奉者である天皇自身も、自分が不成功に終わる運命にあると信じこみ、祖先からの要求と人々の望みの間で板ばさみとなって、極端な形の退位である死――霊魂の世界という別の権威への引退――にすら合意したのではないか。
 貴族岩倉は、皇室の血統のすべての責務を負って、その後の彼の人生を、明治天皇――孝明天皇の息子であり裕仁の祖父――に無私に仕えることに捧げた。
 岩倉は、薩長の若き志士からの不足のない支持と、宮廷内の藤原家系の官吏の強い後押しをえて宮廷に返り咲いた。彼の政敵であるもう一人の顧問、朝彦親王の地位は危機にひんした。彼は、その14歳の新天皇――明治天皇――に、ただちに辞職を申し出、それは受理された。
 いまや確固とした指揮権を握った岩倉は、旧政権を不必要に追い込まない策として、孝明天皇の葬儀を落ち度なく催し、古代の「バイキング」天皇たちと同じく、純神道流に土葬で埋葬した。京都の東の松林におおわれた山の枝尾根は、直径148フィート
〔44m〕の大きな丘状に削り取られた。石積みの擁壁で固められた三段構造の頂の墓の脇に、遠方より運ばれたみごとな巨石が、その棺の上に置かれるべく位置していた。孝明天皇の遺体は、その日の午前11時にその地に運ばれ、まず石棺に収められた。それから5時間を要して、数限りない儀式と象徴的な関門を通り、石棺は墳墓の上へと引き上げられた。各段ごとで、司祭や近親の貴族が後に残され、最終的に、その頂上へは孝明天皇が最も敬愛した四人の家臣だけが棺に付き添い、その重い石棺を埋葬し、その上にその巨石を移動させた。午後四時、夕闇の中で、最後の司祭が祈祷をささげ、そうした忠誠な宮廷人もその場を後にした。
 その数時間後、岩倉具視は独りその墳墓に登り、闇の中にぬかづいた。彼はその夜を通してぬかづき続け、祈りをささげ、風にそよぐ松葉の音を聞きながら自らを語り、彼の前に彷徨していると想像する、なき天皇の鎮まらぬ霊をなだめようと努めていた。

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