「両生空間」 もくじへ 
 「もくじ」へ戻る 
 前回へ戻る


第七章
皇太子裕仁
(その3)



卒業(27)

 大隈内閣は洗練された現実主義に立った新たな日本の政策を構想していたが、敵に包囲された宮内省は国民との融合を必要としていた。そこで、大正天皇の六人の助言者のうちの首領である貞愛親王は、桂首相が誕生した際に就任した、国璽尚書の重要職務を辞任し、その地位を平民に譲り渡した。年下の親王たちは、皇居の近衛連隊師団から、地方のより下位の部隊へと転属した。裕仁皇太子は学習院を退学し、国民的人気を誇る戦時英雄のもとで、個人教育を受けた。赤坂御所の中に、彼の勉強のための小規模な学校〔東宮御学問所〕が設けられ、そのスパルタ風の造作が新聞に報道された。
 裕仁教育の計画を任された主任教師は、日露戦争の際バルチック艦隊をみごとに壊滅させた東郷平八郎提督だった。乃木大将と違って彼は凡庸な平和愛好家で、戦争に際しても、綿密に練られた防衛のための作戦を旨としていた。彼は、裕仁が自分に敵愾心をもっていると感じ、その少年の教育課程の多くを、ドイツ帰りの二人の老大将に任せていた。その二人は、エール大卒の熱心な科学者と武士精神の教育宣伝に経験豊富な現役の提督によって補助されていた。
 こうした教師陣の計画のもとで、裕仁への教育は、厳格な様式と時間割をもって実行された。授業は、静粛に、畳の上に正座して、嘆かわしい、あるいは、日本的でない考え方がないかどうかと注視する、亡霊のように年老いた宮廷紳士によって進められた。授業の教師たちは、東京大学や陸海軍の参謀本部からやってきて、裕仁に向かって正座し、礼をし、整然と自説を説いた。教師たちは、裕仁に聞かせるべきだと考えられることのみに徹して授業したため、皇太子と教授との間の隔たりは余りに大きかった。しかし、彼らが余りに陳腐であると、裕仁は、彼らは「じゃがいものようにつまらない」
(28) と自分自身に言い聞かせていた。
 陸海軍の教師たちは、体面上、力ずよく話し、フランスやドイツ式の教育では教えられないような、日本国民や宿営の生のあり様や様々な武士精神を教えるべきと信じていたため、もっとも興味を持てるものとなった。彼らは第一次世界大戦の戦闘や、東洋式の戦略的な思考について、裕仁に広い知識を与えた(29) 。そして裕仁は、そうした軍事的指導者の幾人かとその後の生涯の親交をもった。
 裕仁のもっと学術的な教師である子爵は、彼に算数の熟達を伝授した。別の子爵は、裕仁に問い正し間違いを直ことに遠慮がちであったため、弟の秩父宮に比べ、フランスについての知識を劣らせていた。歴史においては、満州につていの研究の専門家である男爵は、日本にとって国土の重要さを長々と教え、日本列島を造った神についての神話――歴史的には根拠が薄く生物学的には好かないと裕仁が質問した――については、裕仁を時には退屈させた。マサチューセッツ工科大学、ジョンズ・ホプキンス大学、ベルリン大学の学位をもつ和田いさぶろうは、航空機についての熱情と機械工学と初歩の化学についての確固とした理解を与えた。
 裕仁の友人にまでなった宮廷教師は、二人がいるのみである。一人は、服部広太郎という女性のような小男で、裕仁に博物学、ダーウィニズム、ことに最も重要なことは、ハーバート・スペンサーの聖書外典
〔典拠を疑った新教徒が旧約聖書から除いた14編〕 からダーウィンまでを教えたことだった。というのは、服部がそれを二つの点に要約して教えたことである。ひとつは、社会には、適したものと適さないものがあるというもので、他は、人種の利害に立って、前者は後者を破滅させなければならないというものだった。と同時に、服部は、裕仁にとっての世界の自然の最も細かな詳細に注目するよう訓練し、彼の人生の楽しみを大いに向上させた。裕仁が服部に、博物学を学ぶ田舎での散策の時、彼につきまとう侍従の行列が自然を乱してしまうと苦情を言った際、服部は、宮廷人を同乗させるには小さすぎるボートを用意して、釣りや潜りの体験をさせた。海上でのこうした体験から、裕仁は少年時代の最も楽しかった思い出を得、さらには、生涯つづく相模湾での虫や貝類への関心――最終的には、彼を真に国際的にも認められる海洋生物学者へと導いた――を築いた。
 裕仁のもうひとりの親交を深めた教師は、杉浦重剛という国粋主義的教育者で、西洋文化の混入から日本文化を守るため、三十数年にわたり、自分の筆をたずさえ駆けずり回ってきた人物である。ロンドン大学での学位を持つ化学の学歴を持ちながらも、彼は裕仁に倫理を教える任を与えられた。仮に、服部が国家間生存競争の観点でスペンサー主義をもって生物学を捻じ曲げたとするなら、杉浦が「倫理」に成したことは、いっそう奇怪で扇動的な見識であった。彼は三種の神器をはじめ、国旗、国、米、神社、鉄砲、時計、水、そして富士山につて長い講義を行った。この敬愛すべき教師による講義録
(30)に、そのいくつかの事例がみられる。
 1915年の元服で、裕仁は二本の刀を身につけ、成人となるために、皇居内の神社に参拝した。彼の父はその儀式を祝い、性愛の方法を彼に教えるため、一人の若い妾を贈った。裕仁は恥ずかしがり屋だったが、その娘はなかなか辛抱強く優しかった。宮廷内に伝わる話では、最終的には、裕仁は彼の生真面目な好奇心を満したという。当時の宮廷人は、元気な祖父である明治天皇と比べて、彼が女好きの男ではなさそうなことを残念がった。


世界大戦

 1914年8月、予想されていたヨーロッパの戦争が勃発した。外務大臣加藤高明は、間髪を入れず、日本の運命をフランスと英国側に賭けた。だが彼の目的は英国を援助することではなく、むしろ、彼が同僚に率直に語ったように、中国への日本の進出に対する英国の反発を前もって沈黙させることにあった。それから二年間、日本は、香港や上海での英国の利益を守ることに専念した。日本は、また、シンガポールに軍を派遣し、〔英国と〕「原住民」との間の紛争を鎮圧させた。日本の海軍はまた、インド洋から地中海までにわたり、〔英国の〕商船を護衛した。しかし日本は、ヨーロッパにおける実戦に貢献することには繰り返して拒否した。
 そうした微々たる協力に、日本は大きな見返りを期待していた。加藤高明外務大臣は、太平洋におけるドイツのすべての委任統治領と租借権の日本による取得と永久所有のために、外交官の交換を英国政府に望んでいた。日本の強い要望にも拘わらず、英国は日本のそうした白紙委任を拒絶した。大戦勃発2ヶ月後の1914年10月、日本は独自の道を進めた。日本海軍の陸戦隊は、西太平洋全域の名目のみのドイツ領諸島に上陸し、一方、陸軍師団は、青島のドイツ租借地への侵攻の着手として、北中国から朝鮮に向けて伸び出る山東半島に上陸した。ほとんど中国領地内での作戦着手後三ヶ月間で、日本軍はその独領都市ばかりでなく、コネチカットとマサチューセッツの両州を合わせた面積と人口をもつ、半島全体を占領した。英国外交官は時間稼ぎをし、アメリカの外交官はまゆをしかめただけだった。中華民国の袁世凱大総統は、穏やかに抗議を示した。彼は、大戦が続いている間、西洋友誼国の支援が得られるとは考えられず、大戦が終結するまで、日本の議会での対立が彼の政権を守ることに期待していた。1914年末、袁は、山東作戦は終わったので、中国領土内での軍の展開は止め、独租借地内での警察行動のみに限るべきだと、丁重に東京に進言した。加藤外務大臣は、名誉を害するこの袁の非難に憤慨し、1915年1月18日、「情況を確認する」文書を送った。
 この文書は、「21カ条の要求」として知られるもので、いくつかの参考文書で補強されていた。それは、中国に求めることが、充分に、あるいは、充分すぎるほどに述べられていた。その要求は5領域に分類され、それぞれ異なった点に触れていた。
 (1) 青島に関し――中国は日本がドイツといかなる合意をしようと、それを受入れなければならず、中国を戦略的に二分する、青島から黄河上の済南まで200マイル
〔320km〕の鉄道の建設と使用をさせなけらばならない。
 (2) 満州に関し――中国は満州の租借を99年間まで延長し、その地域のあらゆる将来の経済的開発の拒否権と第一次優先権を日本に与えなけらばならない。
 (3) 金融に関し――中国は将来のあらゆる融資をまず日本に求めなけらばならず、過去の融資の担保として、中国の製鉄産業の監督権を日本に譲渡しなければならない。
 (4) 西洋に関し――中国はもはや西洋諸国に、港、島、湾の譲渡をしてはならない。
 (5) 将来に関し――中国はすべての重要な政治的、金融的、軍事的開発計画に、日本人顧問を採用しなければならず、中国の陸海軍の50パーセント以上の供給を日本から買わねばならず、中央中国の鉄道網の建設を日本にさせなけらばならない。
 加藤外相は、この21カ条要求を、中国の外相に提示しただけでなく、袁世凱大総統には、それを保有しことに第五項目は秘密にしているよう、直接に提示した。袁は当然に、それをただちに北京のアメリカ大使に漏らし、加藤外相は、全世界からの外交的問い合わせを受けて大いに困惑させられた。加藤外相はそうした西洋列強に返答を送り、最初の四項目の要約は示したものの、五項目はその存在を否定した。そして中国には、3万の補強部隊を日本の大陸守備隊として送り込み、それに返答した。袁が引き続いてすべての要求に抵抗すると、1915年5月7日、加藤外相は彼に、第五項目は今後の議論事項として留保することができるとしたが、他の四項目のために猶予される時間は48時間とし、その後中国は侵略されると通告した。袁は即座にそれを認め、西洋諸国に自分は強要のもとにさらされていると知らせた。数年後、第一次世界大戦の平和協定が結ばれた時、中国外交官は、袁が一時的に認めていた根拠の一部を回復させた。
 東京では、陸軍の重鎮、山縣が、中国の新聞諸紙の主旨から、加藤外相が割の合わない勝利しか獲得していないことを読みとっていた。中国側の受け止めは、袁世凱がいとましき日本の殺人者と大陸浪人に対して勇気ある行動をとったというものだった。77歳の山縣は、内閣総辞職を要求できるほどの政治的影響力をいまだに保有していた。大隈首相は、問題の加藤外相を排除し、新内閣の組閣を受入れた。
 加藤の追放から四ヶ月後の1915年12月、袁世凱大総統は、国民大衆の要求にそって、自分自身が皇帝となる計画のあることを発表した。だがそれは、決定的な誤算だった。袁の軍を指揮していた軍閥首領たちは、共和主義者にも、新たな皇帝のもとにも従属したくなかった。叛乱が広がり、1916年6月6日、袁世凱は神経衰弱の上に患った尿毒症で死んだ。そしてその地位を取るに足らぬ者が引き継ぎ、袁の元軍閥首領たちが率いる地域諸政権からなる名目上の中央共和政府を維持した。
 明治天皇の老陸軍首領、山縣は、袁の死とともに、日中の確固とした結束で西洋諸国に立ち向かおうとの望みも消え、ろうばいした。山縣は、自らのあらゆる影響力を駆使し、中国を治める共和主義者でない新独裁者と、日本を治める西洋化していない新内閣を求めた。彼は、ドイツ派の大正天皇に、日本の同盟国は大戦に勝利しそうもなく、ドイツ皇帝の軍隊はフランス北部のソメで戦いヴェルダンへむけて進撃しており、また、青島の租借領からドイツの手を引かせた緩衝国家ロシアは弱体化し、きわめて危険な状態になっている、と報告した。込み入った政治的賭けに出た老山縣は、驚異的なエネルギーと影響力を行使してそれに成功し、1916年9月、大隈政府を倒した。彼は大正天皇を説得し、寺内陸軍大将の率いる内閣を指名させた。
 寺内を通じて、山縣は満州の軍閥、張作霖を後押しし、彼を北中国の次の支配者にと目論んだ。農民出身の張は、満州の草原で野ウサギ狩りをし、お針子をしている病弱な母親を助けて成長した。少年となった彼はある日、馬のひずめの音を聞いて藪の背後に身を隠していた。彼は、現れた満州政府の騎馬兵に追われている山賊らしき一群の一人を自分の銃で倒した。そして追手が通り過ぎた時、死んだ山賊の馬から彼の所有物を頂戴した。その僅かな獲得物を元手として、彼自身も山賊となり、全満州に名をとどろかすまでになった。日露戦争の際、彼とその一味は、日本軍の不正規部隊として、ロシア前線の背後で活躍した。戦後、彼の部隊は中国皇帝軍に属することが許され、彼は有能な司令官として名をあげた。袁が死んだいま、張作霖はその真空を埋め、自ら中国の首領になろうと計った。彼は目だったナポレオン風の格好をし、カワウソ皮のロシア風の厚手外套を身に付けていた。
 六人の親王による大正天皇のブレーンは、張作霖をたちどころに嫌った。彼らは、中国を統一しようとの彼の計画や彼と長州閥の山縣との友人関係を好意的には受け取らなかった。そして旧中国皇帝家族の生き残りとの関係を通じて、彼らは、張作霖の野望をつぼみのうちに摘み取ろうと企んだ。1916年、満州王子、蒙古のバボジャブは、大正天皇の親王たちの手下である日本人「助言者」に指揮されたタタール人の騎馬隊の大軍をもって西満州を侵略した。大草原の騎馬軍は、北京と満州の首都、奉天を結ぶ鉄道にとっては悩みの種だった。張作霖の側面におけるこうした騎馬軍の存在は、張が構想する中国への侵略の準備を不可能にさせていた。
 1916年10月15日――山縣が工作して寺内大将率いる陸軍内閣が成立した6日後――の蒙古による侵略のさ中、大正天皇の六人のうちの最も若い親王が、奉天に到着し、張作霖政権の終了を目論む陰謀を隠密裏に取り仕切った。それは、孝明天皇の顧問である朝彦の十番目の弟の閑院親王で、彼はその後の1932年から1940年まで、昭和天皇の陸軍参謀長をつとめることとなる。彼はその時、ロシアの皇帝政権の弱点と崩れつつある対ドイツ前線の調査の目的で訪れたペトログラード――当時のロシアの首都、今のレニングラード――からの鉄道での帰路の途上だった。奉天駅で閑院親王は、関東半島租借地と南満州鉄道地域を治める日本政府で働く日本の官僚や陸軍将校たちに迎えられた。その歓迎式典の主催者は、旅順総督である、閑院の長い側近である大将であった。その大将は、満州の軍閥首領、張作霖を伴ってその駅頭に来ていた。
 プラットホームでの歓迎式が終わった後、高官一行は数台の馬車に分乗し、奉天の埃っぽい砂利道を祝宴会場にむけて進み始めた。一行が日本人町のレストランに近づいた時、騎馬に先導された張作霖に馬車に、一人の見物人が爆弾を投じた。その爆弾は手前に落ちて護衛兵の中で爆発し、その5人を殺した。張は自分の馬車から野良猫のように素早く飛び出し、負傷をまぬがれた部下の帽子と馬をつかむや、混乱にまぎれて気付かれぬまま脇道へと消え去った。その犯人はその背後関係を確認されぬままその場で射殺され、張の馬車の御者は、主の脱出を助けるため勇敢にもその行進を続けた。不屈にも、第二の爆弾が投げられ、空っぽの馬車を吹き飛ばした。(31)
 その翌日、日本人助言者とともに、バボジャブの蒙古騎馬隊の大軍が奉天の西の地域に侵入し、都市部へと進軍をはじめた。生き延び、激怒にかられる張作霖は、自分の防衛隊を指揮し、蒙古軍に立ち向かい、それを敗走させ、その日本人たちを驚かせた。その日本人一味がその企みに失敗したことを知った時、いらだった将官の幾人かは、なんとか奉天を掌握するために、鉄道防衛に当る日本の正規軍を動かすことを提案した。奉天都市の日本の副総督は、その計画を東京へと電信し、寺内首相は、許可なくしていかなる行動もとってはならないと返信を送った。閑院親王とその取り巻きたちの不満ははなはだしかった。彼らは後年になって、張作霖は部下を装って馬にまたがり裏道に逃げ去ったとその見せ場を語っては、みずからのくやしさを慰めていた。1928年、裕仁が即位した後、閑院親王の手先たちは、ついに張作霖を首尾よく暗殺して、裕仁の君臨のもとで侵略が始まる。天皇の政策は違う方向をもったかもしれないが、それは忘れも許されもしないものとなった。
 
 つづき
 「両生空間」 もくじへ
 
 「もくじ」へ戻る 
                 Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします