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第七章
皇太子裕仁
(その5)


平和と狂気

 1919年1月、ヴェルサエル講和会議が開かれた。日本代表団は、貴族的な琵琶奏者、藤原家の血を引く西園寺親王に率いられていた。今、西園寺は70歳となりながら、パリ到着の際、おびただしい量の荷物とともに、花子という名の可愛らしい芸子を連れて降り立ち、またためらいも見せずに彼女を自分の妾だと呼んで、世界の新聞記者たちの注目の的となった。彼は、会議が日本にとって不利に進むと、あたかも交渉を離脱するかのように、一行の宿泊するブリストルホテルのロビーに、その荷物を花子とともに運び出した。そしてブローニュの森を散策しては、会議の進行を見守った。彼の部下が好ましい妥協を獲得するやいなや、彼はブリストルホテルに再び宿泊手続きし直し、その作戦の効果を満喫した。フランス夫人たちは、花子にひと目でもあやかりたいと、西園寺をありとあらゆるパーティーに招待したが、彼はその招待を慎重にしか受入れず、その際でも通常、彼女をホテルのスイートルームに残したままであった#2。彼は、講和会議のどの日程にも自分では参加しなかったが、会う必要のある人にはすべて夜会の場で会った。講和会議の西洋諸国の政治家はみな、座談の上手な手ごわい交渉者であり、かつ、納得できる自由主義者として彼を好んだ。
 西園寺にとって会議の目的は、日本が戦争中にドイツより獲得した領土の確保と、日本が世界の一等国としての認識を得ることだった。彼は、青島の租借権と太平洋のドイツ領諸島の委任統治には成功し、その代わり、シベリアと山東半島の日本の占領地を放棄した。彼は、日本が世界五大国に、フランスとイタリアについで含まれることに成功したが、「民族による区別」なしに、法律的に平等とされる議決の採決には失敗した。
 1919年の夏、西園寺がまだパリ滞在中、40歳の大正天皇は、脳溢血もしくは脳血栓を起こし、その後の生涯に、悪化し続ける障害をもたらした。その発症は秘密とされ、主治医による正確な診断発表もされなかったが、そのニュースは貴族階級の間にまたたくうちに広がった。大正天皇はもう、足を引きずってしか歩けなくなり、手も震えた。そして最近の記憶もあやふやとなり、判断や動作の感覚も鈍った。毎年恒例の陸海軍の秋の大演習の際には、突然に観覧席から降りて、兵士の雑のうの中味が何なのか、自分の手で開けてみたりした。二ヶ月後には、国会の開会式で、自分が読み上げるはずの声明文書を丸め、ふざけて望遠鏡のようにして、過去彼を不機嫌にさせてきた議員たちをのぞいて見た。それは理由のあることのようにさえ見えたのだが、彼は奇行と皮肉の極をもって自分を表し、彼のお付きの者を大きく困惑させた。彼らは大正天皇を気違いと呼んだが、若い裕仁はそれを決して受け入れなかった。
 大正天皇の逸脱状態は、日本の政界から重しが無くなる意味をもった。今だ意気軒昂な陸軍重鎮山縣は、その空隙を埋めようと乗り出した。また、これを好機とし、大正天皇の六人の親王は、薩摩藩の朋友たちと談議の上、山縣や長州藩の地盤を崩す秘密工作に取り掛かることを決めた。反長州を企てる分子は従来からの長州勢力圏内の官僚層―警察を管轄する内務省、長期的産業計画を立てる農商省、そして最も重要なのが陸軍――に足場を築かねばならなかった。19歳の裕仁皇太子は、おそらくそうした動きに同意を与えただろう。というのは、彼らは自分の小さい時に親しくしていた大兄たち――今後のほとんどの陰謀の実行者となる――であった。
 陰謀者による反長州分子の一つ――裕仁の統治を通して長く影を落すこととなる――が、陸軍諜報部の兵卒の中に設立された。山縣の部下の監督の目からはるか離れて、それはフランスに拠点を置き、ヨーロッパの各首都に外交武官として配属されている若い皇族をその要員とした。この在パリ皇室組織の人材確保役は、32歳の東久邇宮――朝彦の末っ子で、後に日本をマッカーサーに渡した首相――が担当した。
 1919年までに、東久邇は、8年前に明治天皇の晩餐を断った時の彼と比べれば、はるかに物腰は落ち着いていた。1914年、彼は陸軍の専門参謀大学あるいは戦時大学――その将校は独自の戦略を立案する能力を示さなければならない――を卒業した。1915年、彼はようやく血族の一員に迎えられ、明治天皇の九番目の娘、聡子と結婚することを許された。その後、仙台の第二師団に配属され、さらに、千葉の歩兵学校の機甲部隊の特別教育を受け、自分を取り巻く子分をいたるところに増やしていった。そして1919年には、彼は完璧な諜報専門の将校となっていた。
 1919年12月、薩摩閥の大将のひとりが長州閥の陸軍重鎮山縣に、東久邇宮は彼の長年の願望である有名なフランスのナポレオン軍事大学で学ぶことが許されるべきであると要望した。その薩摩の大将は、東久邇の優秀な陸軍の友人のほとんどはすでにヨーロッパにおり、第一次大戦で開発された技術的機密を日本が獲得するには、良質なスパイ網をその地に持つ必要があると指摘した。各大使館に配属された若く優秀な分析者は、もし親王がその使命に合流しその重要性を示せば、より緻密にかつ極秘に動けた。山縣は疑うことなく、東久邇を呼んで一対一で談話し、彼の愛国心に感銘し、彼をヨーロッパに配置することを直ちに許した。
 東久邇は皇室メンバーとしてはより下位にあたる彼の姪の夫である子爵で陸軍大尉の町尻量基
〔まちじりかずもと〕を同行して海路旅立った。マルセイユに到着して一週間以内に、町尻はスイスにいる大尉、東条英機――後の第二次世界大戦の「独裁者」――と連絡をとった(34)。東条はすでに完璧に信頼のおける策略家で、東久邇の古い友人であったばかりでなく、1916年の失敗に終わった満州クーデタで閑院親王を援助した陸軍大臣の補佐官を三年間勤めていた。東久邇親王は、ただちに、若く野心的な非長州外交官の一群との連絡態勢を整え、全ヨーロッパを監視した。それらの人物は、ベルリンの梅津美治郎〔うめずよしじろう〕少佐(後の参謀長官で1945年裕仁の防空壕で降伏)、ベルンの山下奉文〔やましたともゆき〕少佐(後の大将でシンガポールを攻落させた)、モスクワの村上啓作〔むらかみけいさく〕中尉(桂首相内閣の陸軍大臣の義理息子)、コペンハーゲンの中村孝太郎〔なかむらこうたろう〕中佐(後の陸軍大臣)、パリの中島今朝吾〔なかじまけさご〕少佐(1937年の南京で特殊な死体焼却油を用意した残虐行為者)、ケルンの下村定〔しもむらさだむ〕大尉(一般幕僚を通じて南京作戦を実行)。これらの人物に加え、1920年の初め、他の悪名高いファシスト大将らが加わった。


色盲の花嫁(35)

 天皇・薩摩陰謀という噂は、1920年の春、自分の私的スパイを通じて、山縣の耳にも届いた。彼はそれを聞き、陰謀者によって若い裕仁皇太子の名前が使われ、悪用され、彼らの策謀に認可があるかのごときとされている、と微妙な言い方をした。山縣は、そのような不敬な行いは、裕仁が自分自身で決めた結婚の縁組に端を発していると見ていた。2年前の1918年1月17日、海軍が艦船をウラジオストックに派遣した時、宮内省は裕仁と久邇宮邦彦〔くにのみやくによし〕の娘、良子〔ながこ〕との婚約を発表した。久邇親王は、孝明天皇の相談役であった朝彦の存命する次男で、大正天皇の六人の親王の一人だった。彼の妻の俔子〔ちかこ〕は、朝彦の盟友で1863年跡継ぎとなった薩摩藩主島津忠義〔しまずただよし〕の娘である。裕仁にとって、良子との結婚は、皇位を島津・朝彦盟友関係に持ち込むものであった。
 長州人であり、薩摩藩とは仇敵関係にある山縣は、1917年に最初にその縁談を聞いた時、それを好ましくは思わなかったが、それは若い裕仁自身の選択であったので、何も言わなかった。遺伝学、儀礼、そしてその他の皇室の教義を担当する侍従が、1917年の初め、裕仁にふさわしいフィアンセの完璧なリストを作るため、国じゅうをかぎまわった。1900年に桜の開花を待っていた若く美しい節子皇后は、息子は自分で選ぶようにと望んでいた。1917年の盛夏、彼女は、その17歳の少年を皇居の妾館の彼女の部屋の襖の背後に隠れさせ、彼女が彼のための候補に次々にお茶を入れるところを、のぞき穴から見させた。彼はあらかじめ、彼女らの写真と経歴を見ていた。幾年か前、そのうちの多くとは、彼は葉山の御用邸前の砂浜とか、軽井沢の御用邸の竹やぶで、共に遊んだことのある娘たちだった。今、ほぼ20名ほどの娘たちが、座してお茶をたしなみ、母親と一言二言を交わしていた。彼女らの年齢は、上は裕仁と同い年の17歳から、下は11歳にわたっていた。そのうちの半分、つまり、美的な半分は、藤原家の娘たちで、美貌、魅惑、従順さを教え込まれていた。他の半分は血縁のある娘たちで、適齢である者から選りすぐられ、そのほとんどは、半西洋化し、誇りが強く、自分の特権にあやふやな者たちだった。
 侍従たちは、裕仁が、藤原家系の一条家の褐色の目の娘たちの一人を、あるいは、ある夏、山で楽しい時間を過ごしたことのある、15歳の生意気そうな皇室王女、方子
〔まさこ〕が選ばれると期待していた。当時の方子は、おてんばで男の子のような相手だったが、今や、方子は、侍従たちの目には、うっとりとさせるものを備えていた。彼女が裕仁に使ったじらしの手法は結局は彼には役立たず、三年後、純粋に政治的に外国人との縁組として認められた。それは、皇室が外国人、ことに日本がもっとも迫害した植民地民の指導者である朝鮮王子との縁組をなした初めてのケースであった。#4
 他のすべてから良子を選らぶことで裕仁は、他の候補者とは、女性として比べる者のない、聡明で、生真面目で、穏やかで、そしてふくよかな、その14歳を選んでいた。彼の選択は、彼女の伯父たちであり彼の大兄である東久邇親王や朝香親王、そして、子供の頃からの仲間である彼女の15歳の兄、久邇宮邦久への忠誠心からのものであった。言ってみれば彼女は、よく一緒に遊んだ仲だった。彼は、彼女やその家族と打ち解けることができた。彼女の父親、久邇親王と裕仁は科学への興味を共有し、二人には共鳴し合うものがあった。彼は知的で空想家であった。彼は、日本が武士精神の真の実行によって世界を軍事的に打ちのめすことができるといった考えを一笑し、それに代わって、航空機、戦車、細菌戦争といった将来的な武器の開発に熱心であった。(36)
 1920年、82歳となった山縣が裕仁の婚約者の家族の思惑に疑いをもった時、彼は科学的な装いをもった議論をもって反撃に出た。彼は、島津家系にみられる色盲の遺伝を調べた東京のある雑誌の記事を取り上げた。良子は島津家出の母をもっており、もし裕仁がこの結婚を実行すれば、その血統的汚点が天皇家に持ち込まれるかもしれないというものであった。
 山縣家に出入りの主治医は、色盲の問題を議論するため、医学学会を招集した。元軍医監視総監は、「皇室教育」――皇室の常設成人自己教育プログラム――に色盲を加えることが求められているという講義を展開した。自分の藤原家系のいとこや姪が自分の息子によって拒絶された節子皇后も、おおやけに良子の側に立ち、山縣の疑問をあざ笑った。だが彼女は内密に近親者である西園寺親王に相談し、本当に遺伝的危険があるのかどうかを尋ねた。西園寺は山縣に、もしその試みが実行されるなら、裕仁と良子の婚約は破棄されることとなり、そのようなことは見捨ててはおけない事態であると伝えた。
 山縣も西園寺も、自分たちの本当の敵手が誰か解っていなかった。年月が経つうちに、両者は親王たちとはしばしば妥協点が見出せるようになった。しかし、父親の久邇宮邦彦は良心篤い人物だった。彼は軍事面で空軍力を信ずるように、娘を信じた。彼の伯父である貞愛
〔さだなる〕親王――大正天皇の六親王の最年長者――が彼のところにやってきた時、伯父は彼に、家系も遺伝問題もない方子が有利となるよう、島津家系の良子を下ろして山縣のご機嫌を直してもらうよう請うた。だが久邇親王は、そういう話そのものを拒否した。彼の表明するところでは、良子は彼の思惑のもとで選ばれたわけのではないので、彼女がそうして候補外とされることは、彼には不名誉なことではなかった。それは一見、極めて西洋的な見解であったが、その日本的な意味は、もし彼女が捨てられるようなこととなった場合、自分も良子も死ぬ用意があるということであった。
 山縣は続いて、裕仁が敬愛する師、杉浦重剛に接触し、その婚約を取消すよう裕仁を説得できないものかと打診した。裕仁はその探りを断固として拒絶したのではなかったが、良子がいまも彼の婚約者であることをやんわりと表した。杉浦はそこで、もし皇太子がご自分の道を進めない場合、裕仁が杉浦に表した全信頼に応えて、一介の教師であるにすぎない彼は切腹する覚悟だった。
 山縣がためらっているうちに、久邇親王は、黒龍会一派の力を頼った。明治中期より、山縣と黒龍会の「地下の帝王」頭山は、日本社会では、それぞれ、上部構造と下部構造を代表していた。彼らはこれまでもたびたび協力しあい、互いに持ちつ持たれつの関係にあった。だが、街のごろつきから頭角を現した頭山は、いまや、皇室から直接に要請される身分となるに至り、いよいよ自分の時代が来たことを認識していた。そして、もはやただの藩閥主義者にすぎない山縣の助太刀は必要としていなかった。一方、頭山を親分としその支配下にある血気盛んな与太者やスラム街の住人たちは、山縣のような陰険な特権階級より、白い甲冑をまとった親王に親近感を持っていた。久邇親王による資金が頭山をへてその手足までに到達すると、国会の年老いた支援者、大竹貫一は、「昔のように、剣で勝負せよ」、と山縣に決闘を挑んだ。さらには、ある頭山の子分は山縣のもとを訪れ、「閣下夫人の命をいただくことは光栄の至りであります」と丁重な脅しをもって、山縣を留まらせた。
 山縣はこうした挑戦的な言動を聞かされ、かっての武士にしてみれば不面目にさらされた。しかし、警察の役割を、捜査や処罰より予防的措置に重点をおく日本では、小田原の山縣の別荘の周囲に警察官を配置した。山縣は、彼――かつては一人で十人以上の悪党どもを相手にした武士――が保護を必要とするというそうした措置にひどく腹を立て、そうした警察官を追い払った。そしてその後は、長州藩の同僚たちがその役を引きうけて彼の家を護衛し、目立たぬよう私服で交代勤務に当った。
 山縣の陣営の一人で宮内大臣の中村雄次郎――捏造された色盲問題は火急の宮廷課題と見ていた――は、大正天皇と節子皇后への謁見を求めた。彼は畳の床にひれ伏して、 「我が宮内省の調査で良子女王の母親の島津家系に色盲を発見できなかった以上、陛下の御寛恕を請わねばなりません。今やこの話は良く知れわたっております。陛下の御高見はいかがなものでしょうか」 と尋ねた。大正天皇は正面を見たまま無言で、皇后も同じく異様に沈黙していた。中村はひれ伏しながら目を上げ、皇后の口のまわりに苦笑らしきものを見た。緊張が極度に達した時、あたかも神のお告げかのように皇后が甲高い口調で言った。「私は科学者でさえ時には間違いもする、と聞き及んでいます」。中村が皇后を一目すると、彼女の目は彼に場を去るように言っていた。こうして謁見は終わった。
 1921年2月10日、地方政治や警察を担当する内務省は、「良子女王の結婚についてのうわさがあるものの、婚約は破棄されることはなくいずれ御成婚される。中村雄次郎宮内大臣は辞任を申し出た」、と発表した。それまで、新聞はこの結婚論争については、「宮中某重大事件」 とにおわす以外、何も報道していなかった。誰もが中村は山縣の子分と理解している際、中村があたかも犯人であるかのような突然のこの発表は、いかにも無理強いと受け止められた。そこで山縣はこれ見よがしに自分のすべての役職の辞任を申し出、天皇もまたそれに呼応するように、一応の撤回を請うた。そして天皇は、山縣はこの国にとって最も忠義な功労者であったとの言葉を贈った。


旅立ち

 山縣が辞職し、その傷に血止めをして次の事態にそなえようとしているさ中、あらたな問題が発生した。それは、一時的には裕仁を当惑させ、永続的には山縣の公的使命を失わせるものであった。裕仁は何ヶ月も前から、ヨーロッパへの教育的な歴訪を行う計画を立てていた。そして、暫定的な準備が、英国とフランスの両政府との間でなされており、山縣もその計画を承認していた。政府のその担当者はみな、その旅行が、大英帝国との関係を向上させ、有利なアングロ・日本同盟を更新させることにもなりうると同意していた。しかし、山縣の旧友である西園寺親王は事態をより深く観察していた。彼は、東久邇親王がヨーロッパの日本大使館の若い外交官に働きかけていることの情報をつかんでいた。1880年代、彼は、大正天皇の六親王がヨーロッパからどのように帰ってきたか、自分の部下からの通報でそれを知っていた。彼には、裕仁がフランスに居ることで、東久邇の準備にどのように効果するかを想像することが可能だった。
 西園寺は、義理息子で侍従の西園寺八郎を通じ、裕仁の外国旅行の理由について、極めて違った見方を報道陣に流させた。その話の限りでは、山縣は裕仁を海外に送りだし、良子への思いを冷やさせ、しいては婚約を破棄させるというものであった。一夜にして、頭山の子分たち、新聞、そしてロマンス談に酔う日本の大衆がそのヨーロッパ旅行を取りやめるようにとの憤懣の声となった。新聞の社説は、山縣は裕仁の留守の間に良子を暗殺するかもしれない、あるいは、西洋人は日本人の音を立てるスープの飲み方を笑い物とするかもしれない、あるいは、朝鮮の暗殺者が裕仁をトラファルガー広場で切り倒すかもしれない、あるいは、「ヨーロッパのひどい鼻のかみ方」が故に裕仁は風邪をうつされるだろう、などなどと示唆した。西洋を何も知ることなくただ不信を抱くばかりで、あるいは、裕仁には何らの尊敬も払わずに、人々はただ、将来の天皇が、銀座でうどんをすすっていることがよくて、洋服を着てシャンゼリゼでカエルの足を食べてくつろげるよう訓練されたより広い教養を身に付けた人物になることには、なんら評価ができないようであった。
 地下社会の政治家、頭山満には、裕仁が純粋に海外訪問を楽しみにし、無傷で帰国できるとの話は空ごとだった。また頭に血の登った彼の手下たちは、その旅立ちを止めさせることに必死だった。だが頭山がそうした微妙な事情を十全に把握する前に、彼の手下は、裕仁が旅立つ港へと向かう列車の線路に自らを縛りつけようと決心していた。頭山は、侍従が彼を訪問した際、ため息をつきながら時間をくれるよう依頼した。だがじっとしていられない若き裕仁にその余裕はなく、頭山のもとに二荒
〔ふたら〕伯爵――裕仁の子供時代の大兄の一人で、姪の夫――を送ってこさせた。二荒伯爵は、裕仁の広報の役をするようになっていた。彼は西洋の報道陣の要求に応えて、裕仁の人となり――裕仁の性格についての西洋人のイメージはただ若者であるというだけだった――を提供していた。二荒はドラマチックに、「我々はこれまでのところ、貴殿と共に参りましたが、今や、たとえ死の事態があろうと裕仁と共にゆく所存です」、と遠山に言った。頭山は同意してうなずき、彼の手下どもを撤収させやすいように、何らかの虚勢を張った動きをさせることもあるだろうと許しを請うた。(37)
 数日後の1920年2月27日、手荒な一味が西園寺の義息子の八郎の家に押し入った。彼らは黒龍会の若い知識人組織――裕仁の大兄たちによって資金援助され、中国で天皇のための民間諜報活動についていた――に属し、大川周明に率いられていた。大川周明は、後の「日本のゲッペルス」との評判をえた人物で、南進派――共産主義ロシアとの戦争ではなく、東南アジアの西洋の植民地での戦争を提唱――の理論的指導者となる。
 大衆の愛国的感情に同調して、その押し入った者らはまず、若い西園寺を、裕仁の海外旅行の提唱者と錯誤非難した。さらに、彼が山縣の左遷された中村宮内大臣と共謀し、裕仁と良子の婚約に反対してきた疑いがあると詰問をあびせた。そして最後に、宮中の侍従として、裕仁の旅行計画について、余りに多くを報道陣に漏らし過ぎるととがめた。そしてそうした職務の必要はないと、若い西園寺を立たせ、厳しく責め立てた。八郎はただちに、自分が義父に代わって犠牲の儀式を受けていると理解した。西園寺家の名誉をかけて、彼は自分の刀を抜いた。大川博士の一味は扉のかんぬきを下ろして閉鎖した。また他の何人かは、木刀をふりまわして外へと飛び出して玄関を固めた。八郎は裏口へと向かい、裏庭へと逃げようとした。だが道路に待機していた仲間が木々の間をぬって逃げる彼を捕え、その木刀で完璧に打倒した。その一味が立ち去った時、その打ちのめされた体の脇に、裏切り者と書いた巻き紙が残されていた。
 西園寺八郎は自害せず、彼の義父と頭山は、それぞれ天皇に深い謝罪を表した。宮廷のいずれの貴族も親王も、山縣を徹底して無視する意向に同意した。そうして、できるだけすみやかに、ヨーロッパへの出発が支障なく行われるようにと決断した。ロンドンでは、英国の皇室による準備が急がれ、「その小さな王子」の到着が、予定していたより丸一週間早まったと伝えられ、その予定変更に合わされた。
(38)


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