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第七章
皇太子裕仁
(その7)

裕仁の即位

 裕仁は、1921年9月3日に帰国した。陸軍の重鎮山縣は病気で、あと数カ月の命だった。立憲政友会の原首相は、背後で山縣の権力を引き継ぎ、国民に民主主義を声高に公約していた。「平民宰相」として知られる原は、金で動かされはするものの、その考え方は誠実とみなされる政府を率いていた。裕仁の帰国から二ヶ月後の1921年11月4日、原首相は東京駅内で刺殺された(46)。その暗殺者、中岡艮一(なかおか こんいち)は、その鉄道の若い職員だった。その数週間前、彼は職場の同僚に、当時の快楽主義的で西洋化していっている世情に抗議して切腹する積りだと言いふらしていた。
 「いろんなやつが腹を切ると言ってるが、実行した御仁は一人もいない」、と同僚の一人がなじった。
 「何だと、俺がどうするかよく見ていろ」と彼は叫んだ。その後、考え込んだ数日を過ごしたのち、彼は原首相の腹に斬りつけて、その宣言を実現させた。
 その殺人は、不幸な馬鹿者の仕業として大して問題にもされずに報道されたのみで、すぐに忘れ去られた。しかし、裕仁の大兄のひとり近衛親王――1937年時の首相――は、前もってこの暗殺を知っていたと友人に話している(47)。事実、中国で活動する日本のスパイで、閑院とその父親の手下であった井荻よしみつは、その暗殺の前夜、彼のところを訪れ、それがなされることを断言している。また、中岡には、異常に軽い12年の刑が科せられただけであった。1934年、仙台刑務所を出獄した時、井荻や他の右翼「愛国者」が彼を英雄として出迎え、以後、生涯、彼の面倒を見た。
 原首相暗殺の後、日本のその他の――ことに裕仁のヨーロッパ歴訪に同行した――権力者たちは、裕仁が真の東洋の指導者で、従うに値し、必要とあらば〔東洋を〕率いうる人物であると考えはじめていた。彼らは、1921年11月25日、閑院や他の親王たちからなる皇室会議をへて、裕仁が病床の大正天皇の皇位を継承するとの宮内省の発表に支持を与えた。
 東京において裕仁が皇位に就く一方、パリにおいては、東久邇親王が陸軍諜報員からなる皇室秘密集団の組織化を進めていた(48)。その秘密集団は、1921年10月27日、ドイツの温泉保養地バーデン・バーデンで――その後の日本の行方を決定し、かつ、それまでどの西洋文献でも記述されてこなかった――最初の歴史的会合を持った(49)。その参加者たちは、皇室の禁制に則って、東久邇親王自らが参加したかどうか明らかにはしなかったが、しかしもし不参加であったとしても、彼はそう遠くない所にはいた。東久邇はペタン元帥の取り巻きの恒常メンバーで、その週、元帥はザール地方のフランスが占領した地帯への視察旅行をしており、その問題の日には東久邇をバーデン・バーデンから連れ出していた。十月はバーデン・バーデンのオフシーズンで、値段も安かった。交流センター前の中国様式の塔や何軒もの公衆浴場は、他のヨーロッパのいずれの都市以上に、日本人訪問者にはまるで自国の街に来たかのようなたたずまいを見せていた。寒々とした十月の空の下のライン川の背後の台地の黒い森や辺境の近づき難い城は、陰気な目的を推進するには適した雰囲気をかもし出していた。ローマカトリック大聖堂の背後の蒸し風呂では、そうした陰謀家たちと私設侍従のひとりが会っていた。(50)
 その会議の三人の主開催者――ベルンからの永田鉄山、モスクワからの尾畑敏四郎、そして無任所側近の岡村寧次――は、三羽烏として陸軍中に知られるようになる。陸軍を近代的な戦時力にさせたのも、山縣の長州藩武士精神を除去したのも、また、満州征服を達成して裕仁に栄誉の夢を実らせたのも、この三人であった。この三人はみな非長州人であった。三人はみな少佐で、中佐である東久邇親王とは、陸軍階級では下位であった。彼らは、明治天皇統治の末期の数年、東久邇親王とともに近衛部隊に仕えたもっと下位の佐官たちを従えていた。その中の一人が、ライプツィッヒ在の「オブザーバー」でかつ「陸軍大学の待機要員」の一人で、後に二次大戦時の首相となる、東条英機であった。
 三羽烏のリーダーは、永田鉄山少佐で、後に彼の霊が裕仁の防空壕での降伏審議図に描かれることとなる。彼は、長野県諏訪湖近くの保養地に赤十字病院を営む医師の息子である。当時日本赤十字は、非公式ながら陸軍医療部隊一支部として動いており、彼の父親の患者たちは彼を陸軍士官学校への入学を推薦することができた。そこで永田は陸士に入学し、二番の成績で卒業した。そして彼は1911年陸軍大学へと進み首席で卒業した。彼はそのような名声をもって一次大戦中はコペンハーゲン大使館に配属され、1920年以降は、「ヨーロッパを旅行」するための行き先自由の休暇が与えられていた。
 彼をめぐる陰謀がいかに複雑であろうと、永田は常に、他の者が行っていることも自分が行っているかのように知り抜いているのが自分だとしていた。彼は――恐らく日本陸軍の中で彼のみ――完璧なまでに効用を重視し、壮大な概要を完璧な組み立てで語り得、超然とした学術的な自信すらにじませていた。彼は、髪をプロシア式に短く刈り、髭は飛ぶカモメの姿のように整えられ、彼の唇全体は楽しみや親身さを表わす形から容易に皮肉や軽蔑を表わす厳めしい形状へとすばやく変化した。彼は良い形の大きな耳を持っていた。バーデン・バーデンで決定された宮廷計画の初期段階を実施したのは永田であった。そして、対中戦をはばむため、1935年に東久邇の手先が彼を暗殺していなかったら、1941年に裕仁の将軍として国民に命令を与えたのは永田であったろう。(51)
 1941年に天皇の将軍となる東条英機少佐は、永田の子分かつ最も親しい友人で、また忠誠心あふれる下僕でもあった。永田が殺された時、東条は従順にその後がまに座った。1921年のバーデン・バーデンでは、東条は、陸士で三羽烏の一年下の年次生であったため、ほとんど何も発言しなかった。その当時の身分関係では、あまりに出しゃばることは、びんたをくらうことを意味していた。しかるが故に、東条は永田がタバコを取り出せばそれに火を付け、誰も立ち聞きをしていないか、蒸し風呂部屋のドアをしばしば点検したのも彼であった。
 陰謀家たちの中でもっとも弁舌爽やかであったのは三羽烏の二番手である貴族、尾畑敏四郎だった。彼の同僚に言わせれば、彼は「痩せて」、「神経質で」、そして「余りに頭がよすぎた」。彼は、他の者がバーデン・バーデンの有名な強い臭いの温水プールに浸かっている間、蒸し風呂の部屋の中で裸のまま行ったり来たりしていた。陸軍士官学校の1904年卒生では五番目の成績――真面目な勉強家の永田の次――で、陸軍大学の1911年卒生では首席の成績――永田は次席――で、尾畑は優れた戦略家であり、満州侵攻の構想に当っては、彼の考えは群を抜いていた。彼は、ロシア革命の際、一貫してロシアに居続け、ボルシェビイキ主義は日本と皇位にとっての最大の危険となることを察知していた。そして、彼は熱心にマルクス主義を研究し、その中で、日本は天皇と宗教的共同体をなす独自の民族共産主義を持たねばならないという考えを持つに至っていた。こうした考えは、彼を1930年代の北進論つまり対ロシア戦派の指導者へとさせ、遂には天皇から疎んじられるようになる。1936年の陸軍の叛乱
〔2・26事件〕の後、彼は裕仁の内部集団から抜けることとなる。しかし、彼の天才的戦略、戦術家としての能力は彼を放置させておかず、1937年に対中戦争が始まると、呼び戻されて日本の第14精鋭電撃機甲部隊の兵站をまかされこととなる。戦時中を通して、政治の中心からは外されていたが、1945年には、東久邇親王の率いる降伏内閣でマッカーサーを迎える国務大臣の一人となる。(52)
 三羽烏の三番手は岡村寧次で、数世紀にわたり徳川将軍の護衛役を務めてきた武士家系の御曹司である。眼鏡なしでは半盲目で、彼が眼鏡をかけている時、彼は典型的な日本人将校であった。彼はだらしないところがあって通常髭を剃らず、そのために参謀将校というより前線将校の風采をしていた。そうする訳は、きちんとしていない兵士は、見てくれにこだわらないようになり、敵はそういう彼の戦闘能力を過小評価する理由となるというものだった。岡村のひげ面な外見の背後には、このように敵を紛らわす鋭い計算があった。1904年陸士卒の同年生の中で、岡村は永田、尾畑につづく三番目の成績で、その後、1913年に陸軍大学に進んだ時、彼は猛勉強して首席となり、大正天皇による賞をもらった。一次大戦中、東京で参謀部の情報将校を勤めた後、皇太子裕仁のヨーロッパ歴訪の際、将軍家を継承する徳川家正の側近の役につくという機会をえた。(53)
 裕仁が帰国した後も、岡村はパリに残った。彼は、永田や尾畑の影で目立たなかったが、1930年代半ば、その一人が殺され、もう一人は名誉を失い、岡村は中国との長く実りのない戦争の主要な司令官となった。1945年、彼の部隊はその場にあって武装を解かず、蒋介石政府の資格ある代表が現れ、彼らを解散させてそれに代わるまで、時に戦闘を続けながらそれを待った。その結果、彼は短期間、戦犯として上海刑務所につながれたが、突然に、中国共産党との戦闘の蒋介石の軍事顧問に採り上げられた。その戦闘に破れて蒋介石が台湾に移った時、岡村は東京に戻り、アメリカが支援する現在の自衛隊を組織するにあたっての舞台裏での重要な役割を果たした。1963年3月、79歳になろうとしていた彼は、退役軍人協会の会長を辞し、自衛隊の「歴史」ないしは偶発事態対応部の顧問となった(54)
 〔バーデン・バーデンの〕温泉につかり、その後は交流センターでキルシュ
〔ドイツ産のブランデー〕を飲みながら、三羽烏とその部下たちはその命を、日本のための二大計画――日本も「全面戦争」を戦えるように、「長州が今日もつ大きな窓」を作り、「フランスを見習った国家総動員体制を確立させる」――の実現のために捧げようと決意していた。言い換えれば、その計画は、山縣の下の陸軍と他の長州勢力を排除し、勝利を得たフランスと肩を並べる陸軍へと再組織し、ことに、戦車や航空機という近代的武器と闘える陸軍を訓練することであった。シベリア出兵の際、救助されるはずだったチェコの退役軍人にば、日本の兵隊はその武装と作戦ともに群を抜いていると見られていた。裕仁がその歴訪において、軍事的探訪にそれほど熱心であったのも、それが故にであった。
 バーデン・バーデンで決定された第三の点は人事だった。三羽烏は、その計画を実行するため、「信頼できる11人」を選んだ。うち二人はそこに出席しており、残りの9人は、当時、中国、シベリアそして日本に居た。彼らはすべて、日露戦争中の陸士1904年と1905年卒の者たちで、いずれも、非長州出身者だった。その全員は有能だがまだ佐官であった。幾人かは、すでに航空面で専門家となっていた。そのうちの三人、東条、板垣征四郎、そして土肥原賢二は1948年にA級戦犯として絞首刑となった。他の河本大作は、1916年の閑院宮の血生臭い計画を1928年満州軍閥の張作霖を暗殺して終わらせていた。磯貝廉介は、中国で中将として輝かしい記録を残した後、1939年のロシアとのノモンハン国境戦争での敗北の責任を取り、二次大戦中は香港の総領事に就き、1970年まで生存した。三人は、ほどなく中国で死んだ。残りの三人は、さほど信頼できなかったことを証明することとなり、1936年の陸軍叛乱事件の後、罷免されることとなる#8



奇妙な事件(55)

 バーデン・バーデンの計画を実現するための最初の使命は、近代的武器の製造についての技術情報の収集であった。各外交武官がヨーロッパのそれぞれの都市の部署に帰任して数週間後、裕仁は、東京より大兄のもう二人を、スパイたちを激励し、東久邇親王が巨大なヨーロッパの武器工場の設計室へ入れる機会を作るために派遣した。裕仁の新たな使節は、明治天皇の七番目の娘と結婚した北白川親王と、明治天皇の八番目の娘と結婚し、後に南京に災厄をもたらした朝香親王であった。北白川と朝香の両親王は、諜報将校としての訓練を受けていた。1922年の初めにパリに到着した二人は、その年を通じてスパイ網の構築に努めた。1923年までにそれは、戦略的なさまざまの首都に配置された30名規模の要員を持つようになり、その全員が陸軍組織の反長州計画を誓っていた。当時パリに在駐していたアメリカの諜報員は、そのパリ・チューリッヒ・フランクフルトの三角形に暗躍する日本の勢力を、ディーゼルエンジンと戦車の最新の情報を懸命にあさっている、とにらんでいた。
 1923年の夏、そのスパイ網は突然に平和時の態勢に縮小された。この縮小は、奇妙な自動車事故をきっかけとしていた。というのは、この事故にまつわる状況は、日本の新聞では偽って報じられているからである。1923年3月末、東久邇親王はパリでのあらかじめ予定されていた社交日程をキャンセルし、「緊急の用件」のためにロンドンへと飛んだ。4月1日、朝香親王、北白川親王とその夫人そして二人のフランス人下僕は連れ立って、「ピクニック」のために、高性能のツアリング車に乗ってブローニュの森の脇の居宅を出発した。その日の午後4時30分、パリから88マイル
〔130km〕の、ベルネーに近いシェルブール道路上のペリエ・ラ・カンパーニュで、英仏海峡に向かって、後の警察の推定では時速90マイル〔140km〕の速度で走っていた際、その車は木に衝突した。小型飛行機の購入を終えた北白川親王が運転し、フランス人のお抱え運転手が死亡率の高い助手席に座っていた。お抱え運転手は即死し、北白川は「恐ろしい形相」、つまり、両足と頭のほとんどを失い、20分後に死亡した。後部席では、朝香親王は片足を複雑に負傷し、1937年の南京の高台にあってもびっこをひいていた。彼の脇にいた下僕は「瀕死の重傷」を負い、北白川夫人で明治天皇の娘の房子は、右端に座っていて、両足と様々の傷を負ってその後一年以上入院していた。
 フランス政府は丁重な葬儀を用意したが、東久邇親王は最初の列車と船を乗り継いでロンドンから帰国してしまい、パリの日本大使館を通じて、すべてのフランスの日程をキャンセルさせた。彼はまた、お抱え運転手や下僕の家族に金を支払い、他方、パリの新聞には何も書かせないよう手を回した。北白川の遺体は防腐処置がほどこされて、日本大使の家の白い絹を敷いた部屋で3週間保管されていた。4月22日、遺体はマルセイユで北野丸に乗せられ、故国へと運ばれた。
 その後、日本の年鑑は、記載の主要事件の中に、この自動車事故を記録していたが、それは、「パリ郊外」とされ、88マイルは落されていた。この誤り、そしてフランスの報道陣の詮索を抑えた東久邇親王の努力は、北白川親王がそうして死んだ時、彼が指揮者であるスパイ網に関連した何らかの使命をもって、自ら英仏海峡に向かっていたことを示唆している。生き残った日本人将校たちは、東久邇親王は、海峡の向こう側の英国に居たと指摘する。そして彼らはその目的は謎であったという。彼を死なせた使命が何であれ、北白川の死は、そのスパイ網の終りをもたらした。本書の著者は最初、「研究」あるいは「旅行」としてヨーロッパに特別に配置されていた陸軍将校の数が急激に減少したことを、日本の人事記録に気付き、何かがあったに違いないと確信した。そして、フランスの新聞記事にその自動車事故の発生を見つけた。裕仁自身、その大兄のひとりの北白川親王の死は大きく響いた。彼はスパイ活動への関心を失っていたが、それ以来、篤い期待をもってそれに熱意を燃やすことはもはやなかった(56)。さらに重要なことは、その後、彼は台湾への旅行をキャンセルし、二度と、日本の本土から出ることをしなかったことである。


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