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第八章
摂政裕仁(1921-1926)(57)
(その1)



裕仁の陣営作り

 1921年の12月、裕仁皇太子は今や摂政となり、その即位ヨーロッパ歴訪からの帰国を祝っていた。大正天皇が建てたベルサイユ宮殿のミニチュアの赤坂離宮では、その窓から光がもれ、最新のパリ帰りのレコードのリズムに合わせ、暗闇の中を雪が舞っていた。その宮殿内では、ピンクの錦織の椅子やソファーの間で、美しい着物を着た芸者が踊り、飲み物をつぎ、時にはくすくす笑いながら、フォックストロットやタンゴやヘジテーションワルツの相手をつとめていた。招待客たちは、二十歳代の裕仁の元学友や三十歳代の大兄の親友といった、燕尾服を着た若者たちばかりだった。その招待状には、従来の慣行や前例には則らない「無礼講」と明記されていた。裕仁の書斎の外には、スコットランドのアトール卿から贈られた一樽のスコッチウイスキーが据えられていた。
 夜がふけ、スコッチの樽が空になるにつれ、裕仁の慣例を破るねらいは満たされつつあった。そうした招待客のほとんどは典型的な日本人で、生まれつきのアルコールへの弱さを露呈していた
#1
スコッチの最初の一口は彼らのほおを染め、饒舌にし、そして気を大きくさせた。彼らはまもなく、裕仁が居る書斎から自由に出たり入ったりするようになった。彼らは声高に日本を自慢し、西洋を見下げた。後に多くのそうした招待客が後悔することとなるのだが、浮かれ騒ぎのうちに、いくつもの計画が立てられ、誓約が交わされた。裕仁はお茶で色をつけた水を飲んで、彼らに丁重な親しさをもって接し、芸者の一人とふざけ、翌日は爽やかな気分で目覚め、自分の行動に満足していた。それは、先例のある、〔招待客を〕降参させるパーティーだった。
(58)
 そのパーティーの二日後、53年前の明治維新の際の内戦で緑の甲冑を着けていた西園寺も今では年老い、興津海岸の別荘から汽車で二時間かけて、ひさびさに上京した。資産家の弟が所有する都心の屋敷に到着するとすぐ、赤坂離宮に電話を入れ、皇太子裕仁との謁見を申し入れた。彼は、藤原家の他の侍従たちを代表して、不用意な責任を負うことにならぬよう、裕仁の行動について話すつもりであった。道徳と検閲といった役割は、好き勝手に生きてきたこの老政治家には不向きな仕事だった。再三再四、彼は裕仁に、時にはリラックスして、女やワインなどをたしなむようにと助言してきた。西園寺は裕仁に、立場柄、先のパーティーの「節度のなさ」や「あきれた親交」について小言を言ってきたが、彼にはそのいずれもどうでもいいことだった。彼は、大正天皇の若い頃、赤坂離宮でのもっと派手などんちゃん騒ぎを見てきた。むしろ、そのパーティーが西園寺に警告をもたらしたのは、主義主張の明瞭な人たちの狩り集めであり、今や東京の上流社会での噂の種となっている将来の計画の公然とした議論だった。(59)
 摂政裕仁は無邪気な表情で西園寺に会ったが、その諌めには、若気の至りの行動について腹に一物あるかの謝罪をしたのみだった。そしてその老人が後に後悔することになる、裕仁との取引を行うこととなった。すなわち、もし西園寺が陸軍重鎮の山縣――瀕死の病床にあった――の天皇への最高助言者としての地位を引き継ぐのなら、裕仁は自分の秘密陰謀団への直接の指揮を断念し、立憲君主としてのしきたりを尊重すると約束する、というものだった。西園寺は、沈黙したまま、絨毯の上からしばし眼前の若き熱烈な支配者を凝視し、その度量を推し量った。西園寺は、過去十年の間に日本の人々は変化してきており、1909年に満州で暗殺される前に伊藤博文が提唱した立憲主義と法定主義の精神が受け入れられ始めていると信じていた。もし、そうした人々が明瞭に自分の意見を表わすようになれば、裕仁は大勢の意見に従うであろうと西園寺は考えていた。(60)
 裕仁は、そうした提唱を受継ごうとしている老人を観察しつつ、辛抱強く時を待っていた。もしその72歳の西園寺が〔裕仁の提案を〕受け入れるなら、彼は重要な協力者であり突破口になりえた。明治天皇の御前会議での40年の経験は、どのようにすれば外見なりとも穏健さと秩序を政府に与えうるのかを西園寺に学ばせてきていた。彼の同僚たちは、彼の苛烈な現実主義を信じていた。意見の異なる者たちにもまれ、彼はもってまわった穏やかな話し方――必要とあらば完璧な沈黙すら――を心得ていた。彼は鋭く仔細な精神や高潔な性格、そして、ただ一つの愚かさとして、天皇への絶大な忠誠心をもっていた。
 西園寺は、絨毯の上からその裕仁を見上げ、その取引きを受け入れるのは自分の責務であると悲しげながらに認めた。彼はその後の余生を、興津の漁村の別荘で、フランスや中国の小説を読み、琵琶を引き、籐を編み、早く目覚めた朝は、日の出をあおぐために清見寺まで散歩することを望んでいた。しかし、もし国がそれを命ずるなら、その責を引き受けなければならなかった。裕仁は直ちに、彼に元老の地位を与えた。その文字通りの意味は、元となる老人であったが、それが西園寺に与えられた場合、首相すらも決めうる舞台裏の実力者の意味をもつこととなった。
その地位は、内閣が解散した時、政局を安定化させ、次期閣僚を天皇に推薦する責任を負うという、東京での公式の役割を担った。西園寺は、1940年、91歳で苦い幻滅感と共に臨終するまでその地位と責務を維持した。(61)


宮中陰謀団養成所(62)

 西園寺に立憲君主として慎重に振舞うことを約束する一方、裕仁は直ちに、腹心のグループを拡大するように指示して、秘密の組織の設立につとめた。皇居の東端に、古い築城の跡で堀と石垣が孤立して突出したところがあり、そこに、老朽した平屋建ての皇居測候所があった皇居地図参照〕。裕仁は、子供の頃、学習院からの帰り道、そこの各部屋を歩きまわり、六分儀、天気図、雨量計、18世紀のオランダ製小型望遠鏡などに接していた。
 先のパーティーから一週間後、裕仁はその古い測候所を、守衛で防護された、日本への彼の夢を実現させる行動隊の養成所へと改造した。皇居内のそこにおいて、世界の半分を征服する最初の計画概要が作成され、そこにおいて、1945年までの日本を動かした交友および協働関係が結ばれ、そこにおいて、1945年から47年までの連合軍判事によって裁かれたA級戦争犯罪人が学んだ。さらに、裕仁を除外して有罪となった日本の戦争指導者による「共同謀議」が、もしどこかで行われたとするならそれはここであり、そしてここでのみ、すべての日本の戦争犯罪者が「謀議」するために一同に会せる場であった。また、この古い測候所変じた養成所については、1946年米国諜報部の未公開報告を別として、これまでどんな英語文献でも扱われてこなかった。この報告書は、戦争犯罪裁判の判事たちに回覧されたが、その養成所についての情報は、恐らく天皇〔の共謀〕を意味するものであるが故に、証拠としては取り上げられなかった。
 その養成所は最初、社会問題調査研究所と呼ばれ、後には、いっそう意味あいまいな、「大学寮」という名が与えられた(63)。もちろん、下位将校や駆けだしの役人が皇居内の聖域で催されるそうした講義や討論に参加でき、数年の内に天皇になろうという人にさえ会えることは、この上もない名誉なことであった。しかし、大学寮を設立するにあたって裕仁が求めたものは、忠誠な腹心のみならず、数々の構想だった。バーデン・バーデンで練られた計画は、アドルフ・ヒットラーがバイエルン
〔ナチ党の根拠地〕で褐色シャツを着た民族主義者の一団〔ナチ党の準軍事組織で「突撃隊」と呼ばれた〕の強化に奮闘していた時、裕仁に陸軍に付随する突撃隊の考えを与えていた。しかし、裕仁はそれ以上を必要とした。すなわち、秀でた経済的、政治的計画立案者、長期計画、そして国家思想が必要だった(64)
 1921年の摂政への即位で、裕仁は人口5千6百万の国を引き継いだ。その国は、1900年の裕仁の誕生以来、人口で25パーセント、国民生産で100パーセントの成長を示していた。フランスやイギリスと比較すれば、まだ後進国ではあったものの、その経済は世界のどの国よりも早い速度で成長していた。その国は、満ち溢れる才能、エネルギー、構想で湧きかえっており、それらの巧みに調和された方向付けが求められていた。
 裕仁は旧測候所の大学寮の組織を、彼の主席顧問である牧野伯爵に任せた。彼は背が高く、鋭敏、魅力的な人物で、裕仁のヨーロッパ旅行一行を率いた。牧野は、大学寮の学長職を、大川博士――ヨーロッパ旅行前の騒動で西園寺の義理息子を攻撃する理由を与えた知的つわもの――に委ねた(65)。丸刈り頭で黒々とした髭を蓄え、鋭い容貌をもつ37歳の大川は、牧野伯爵との親子のような親密さを持っていた。彼を牧野の庶出の息子という者もある。大川は、牧野の後押しによって、その現在の職務にふさわしい高い名声を得てきた(66)。彼は、その後裕仁の参謀長となる閑院親王や、裕仁の婚約者の父である久邇親王に、長年にわたり、側近として仕えてきた。彼はまた、ギャングの親玉、頭山の信頼された腹心で、また、頭山率いる黒龍会の汎アジア主義者の指導者のひとりで、中国では、十年来のスパイ活動の経験を持っていた。それに、彼は純粋の学者でもあり、1911年に東京帝大の東洋哲学科を卒業し、中国語、サンスクリット語、アラビア語、ギリシャ語、ドイツ語、フランス語、そして英語を読むことができた。(67)
 大川博士は、大学寮の学長になるまでの過去十年に、すべての汎アジア主義者、スパイ、そして民族主義者を統合する思想を打ち立てていた。彼らは、日本の将来のため、共通した熱意をもって結託していた。そのある種の使命は、雑誌 『War Cry』
〔救世軍の機関誌のことか〕 1920年7月号
に、集団的信条として、次のように表わされていた。
 大川博士が大学寮の学長になった時、彼のそれまでの同志たちは、彼が自らを体制側に売り渡し、革命運動を裏切ったと感じた。そして彼とたもとを分かち、別の博学なスパイで政治思想家である北一輝――後の北進派または征露派の理論家で1930年代には裕仁に災いをもたらすことになる――に従った。1918年、大川博士は上海の屋根裏部屋で、握り飯と水のみて暮らしている北を見出した(69)。そこで北は、その代表作の 『日本改造法案大綱』 の第八巻目を書いていた。この明晰で過激な大作の中で、北はマルクシストのワインを古い酒つぼに注ぎ、酔いのまわりの早い議論――裕仁はそこに不愉快さ、弟の秩父宮は興奮を掻き立てるものを発見していた――へと発酵させていた。北はその著書で日本の徹底的な改造と浄化を呼びかけていた。すなわち、戒厳令下での憲法の停止、普通選挙権によって選出された国会の召集、個人資本50万ドル、企業資本500万ドルまでの制限、雇用者、被雇用者間の利益の対等配分、中国開発のための米国との友好関係の維持、世界の不公平な領土の分配――と北は見る――を支配しているロシアと英国への敵視(70)
 北の八巻からなる著作は、秩父宮の親友のひとりによって謄写版印刷されて回覧され、理想を目指す多くの若い日本人に巨大な影響を与えた。しかし、皇太子裕仁は、他の改革とともに、宮内省の保有するすべての資産の国家への引き渡しという提唱がゆえに、偏狭な考えとみなした。(71)
 1922年1月、大川博士が大学寮の学長になる招へいを受けた時、彼と友人の北は互いに酒に酔って大声で議論し合う一晩を過ごし、そして永遠の敵同士となって別々の道に進んだ。警察による逮捕を逃れて、北はとある仏教寺院に隠れ、そこで特異な仏教経典を書いて裕仁に送った。大川博士は皇居へと移り、大学寮の教科を組み立てた。(72)
 大川博士の指揮のもとで、大学寮での教科課程は、彼の知るそれぞれの主義の断片によって味付けされていた。そこに参加できる特権を持った若い役人や軍将校は、儒教倫理、武器開発、部隊派遣計画、軍組織、そして、慎重に抜粋された北一輝の地勢学原理などの講義を聴いた。裕仁の首席顧問の牧野伯爵は、皇位の存在についてのコースを担当し、宮内省組織、宮中侍従の媒介機能、天皇を大衆的批判にさらされることを避ける常時の必要、などについて説明した。1923年の1月から2月、フランスから帰国すると、例の三羽烏はいずれも、大学寮で講義を提供した。同じように、バーデン・バーデンで選ばれた11人の信頼筋の何人かも、講義を行った。特高警察、私設スパイ、麻薬専門家、売春宿主、テロリスト、そして、中国大陸に展開する日本の複雑な準軍事的組織の網からの取調べの専門官なども取り揃えられて講義を行った。(73)
 大学寮でのセミナーにおいては、一般幕僚や陸海軍大学の各学部の最も優秀な初年生が参加し、裕仁の大兄と懇意となり、後に官僚、国会議員、あるいは、閣僚の私設秘書を供給するいわゆる何でも屋の有力集団となった。
授業が終わると、彼らはよく茶屋にでかけて互いに飲み、女と遊んだ。数年後、裕仁の5人の大兄の一人は、日本の二次大戦中の参謀長、杉山大佐がナプキン大のタオルの七枚のベールを付けた滑稽な踊りの名人であったことを思い出していた。後の真珠湾攻撃を計画しそれを指令した山本元帥は、手品を行い、頭で逆立ちした。(74)
 こうした授業後の飲み会での中心話題は、一次大戦後世界での日本の位置であった。大学寮が開かれた1921年末から始まったワシントン会議では、日本は、海軍力を10対6対3.5の比率に制限することを飲まされることとなった。つまり、米国と英国の戦艦10トンにつき、フランスとイタリアは3.5トン、日本は6トン以内という制限を課せられた。幸い、この海軍力比率は潜水艦や魚雷艇には適用されなかった。そこで、戦艦に使えない資金を、従来にはない新式武器にまわし、艦隊の弱点を補った。海軍力開発の最高機密計画は、そうした協約の抜け穴を活用し、大学寮や海軍参謀で構想が練られ、1922年末、裕仁によって承認された。
 一部の海軍将官が抱いていた米国や英国に対する秘密の武器開発についての良心の呵責は、そうした国々の反日法の制定に対する怒りで相殺された。英国は、1921年、日英同盟の更新を拒否し、米国の最高裁判所は、1922年11月、事実上、日本人の帰化を許さないことを宣告した。さらに米国議会は1924年5月、移民政策において、公式に東洋人の全面排除を決定した。


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