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第九章
天皇裕仁(1926-1929)
(その1)



皇位の修得(94)

 父親の死の数日後、裕仁は、皇居西方にある優雅な赤坂離宮の「ベルサイユ」を去り、彼の力と豊かさの多彩な源を、高い石垣で囲まれた都心の城壁の中へと移した。それ以降、彼は年に二十回ほど、春秋の園遊会、国会の開会、陸海軍士官学校の卒業式、観艦式、陸軍演習などで、そこからお出ましになるだけとなった。その絵のような古い城壁の内側の彼の住居は、襖・障子や畳の床を特色とする、清楚で伝統的な日本家屋だった。それは、西洋の基準からは決して快適なものとは言えず、裕仁もそう感じていた。彼はただちに、仕事部屋として、見事ながら低い格間天井をもつ、およそ20フィート四方〔20畳〕の大部屋を選んだ。彼はその部屋に絨毯を敷き、椅子や机や、眠ることもできるソファなど、西洋家具を備えつけた。彼は、明治天皇や大正天皇が残して行った壁の西洋の名画を外し、ヨーロッパ旅行の際、マレシャル・ペタンや英国皇太子やベルギーのレオポルド皇太子たちと撮った写真を掲げた。床の間には、ナポレオンやダーウィンの胸像を据えた。部屋の一方の障子を開ければ、廊下越しに、彼の私庭が見渡せた。そこでは作業員たちが土を動かして彼の新しいゴルフコースを作り、雨の日のための屋内乗馬場や爆撃に耐えるコンクリート作りの役務棟や、二次大戦の末期ではその地下に避難することとなる、皇室図書館を建てた。
 裕仁がその新しい役務棟に入居すると間もなく、彼は魚の臭いに閉口させられた。それは、お目出度いことがあると、海の珍味でお祝いすることが、皇室の古い習慣だったためで、この場合では、建物の廊下に悪臭を放つかごが所狭しと並べられていた。これに裕仁は、その統治の間ほんの数度しか見せたことのない短気を表わした。「新鮮な魚の贈呈品など、有難くもなんともない。魚は海の中を自由に泳いでいるのを見ることの方がよっぽど有難い。この無神経で汚らしい習慣は、止めさせなければならない」、と大声でどなった。そしてそうされることとなったのだが、裕仁は祝祭日に鮮魚を母親に贈ることをやめなかったし、親王たちも、生きた魚や珍しい品種を時に応じて裕仁に贈り、それらは皇居のあちこちの池で飼われることにもなった。
 その海洋生物学者の好みについての親族たちの誤解を直させ、裕仁は宮廷の慣習を次々と変えていった。それまで天皇は、衣服を一度か二度身に付けると、それを家臣にゆずった。それを、裕仁は、「乃木先生の教えの通り、衣服は国民の働きによる産物であるので、着古されるまで長く着られるべきだと思う。従って、皇位に仕える者は、これまでの三分の一しか得られないと心えられたい」と宣言した。
 魚や衣服についてのこうした二つの気まぐれは彼独特なものであったが、裕仁は短期間のうちに、模範的な主として、新たな環境に自らを適合させていった。そして彼は、几帳面な習慣を自分の生活に課し、それは参会者にも歓迎され、今日までもほとんど変えられることなく続いている。彼は毎日、6時に起床し、洗面し服を着けて祖先に祈り、そして、朝食の前に時間があると、戸外に出て、駆け足をして活気付けたり、散歩をして考えをめぐらせたりした。葉山の夏の別荘にあっては、元気よく薪を割って、近所の人たちの目を覚まさせた。7時には、気合いの入った軍人のように屋内に戻り、皇后良子とともに座し、梅干し、魚、海苔、味噌汁、ご飯やお茶といった日本風ではない、オートミール、玉子、ベーコン、トースト、コーヒーといった朝食をとった。
 朝食をすっかり食べ終わると、裕仁は書斎に引きあげ、朝日や毎日といった日本の新聞や、ジャパン・アドバタイザーといった英字新聞を読んで思索にふけった。こうした下調べを終えると、「お早うございます」と言って書斎の戸口に姿を見せる、彼の最も懇意な側近、牧野内大臣を迎えた。何か計画が進行中の時は、牧野は裕仁にその旨を告げた。
 そうして裕仁は、通常、陸・海軍についての最新の報告、近日中に謁見を求めている軍人たちの名簿、その日に予定されている軍人との会見で強調すべきことと避けることなどについて、侍従武官長の奈良武治大将と話し合った。次に裕仁は、侍従長の珍田捨巳伯爵を呼んだ。彼は、奈良や牧野とともに、ヨーロッパ旅行以来、裕仁に仕えていた。珍田は、米国で教育を受けた、魅力ある洗練された国際人で、ほぼ半分の西洋の国々での大使を勤めてきていた。彼とは、その日の民間人との会見について相談した。そして、参謀の一人が天皇への「直接の面会」を求める権利を行使している場合、その日の予定した面会が始まる前に、陸・海軍に関する緊急の事項について彼と面会した。
 およそ10時から2時まで、12時30分からの軽い昼食の休憩をはさんで、裕仁は大臣や将官の定まった顔ぶれと会った。謁見のうちで、あまり重要ではない客人とのただ儀礼的な謁見は、公式の謁見の部屋 「鳳凰の間」 で行われた。その場合、裕仁は客人を迎え、その公的な挨拶を聞くのみで終わらせた。しかし、信頼する、あるいは親密な大臣との会見は、公式な報告で始まるものの、その後、天皇は頻繁に質問をし、自身の関心や懸念に益する情報を聞き出した。軍人からの公式報告の間に、侍従武官長の奈良は同席を求められた。しかし、明治天皇の時代にとりいれられた風変わりな習慣によって、会見が何か個人的なことにおよんだ場合、武官は直ちに席を外さねばならなかった#1。このように、天皇と個人的な秘密を交わしたい者は、侍従たちを拒絶したりそのための
〔彼らとの〕しこりを残す危険はあるものの、それを私的会見とするための機会を持つことが可能であった。さらには、裕仁は、公式報告がなされた後、その手で合図を送ることで奈良を退かせ、いつでも耳打ち話を聞くことができた。  同様な扱いは、民間人との面会に際しても、侍従長に対して行われていた。しかし裕仁は、民間人をさほど信用はしていなかった。というのは過去において、多くの人たちが彼に話を持ちかけるために、手の込んだ政治的ルートを用いたり、その話の後、うわさを流したりしたことを体験していた。そのため、侍従長の珍田を退席させて民間人より私的な聞きとりをした際、そのなりゆきを牧野内大臣に盗み聞きさせていた。昔の宮中には、こうした目的のための特別の戸棚が用意されていた。そして今のその新築のコンクリート造りの図書館には、同様の盗聴装置が設置されていた。1930年、鉄道省の一人の高官が、裕仁の好みの経済策の一つである、公務員全般にわたる俸給引き下げの話を持ちかけるため、民間人謁見の機会を乱用したことがあり、それ以降、例外的に宮廷官吏あるいは大臣クラス、すなわち、貴族あるいは閣僚と特別に設けられた特権大臣を除き、民間人との私的面会は持たれなかった。
 裕仁は、状況が許す場合、毎日の午後、2時間から4時間の運動、ことにゴルフを行った。その9ホールの短いコースの一打の度ごとに、彼は腹心の友人たちと、全般の状況と計画について話し合った。彼が共にプレーした人たちの日々の記録は残されていないものの、お気に入りのお相手は、藤原貴族で貴族院を扱う五人の大兄の一人の近衛親王、陸軍諜報を監視する足の不自由な伯父の朝香親王とパリ在住のもう一人の伯父の東久邇親王、蒋介石を監視する鈴木貞一のパトロンの井上三郎侯爵、農業・商業省の経済合理化を計画した大兄の祖の木戸幸一侯爵らであった。1930年に始まる 『木戸日記』 には、ゴルフクラブの使い方に熟達することが、後になって、宮廷の進歩にとって必要事項となってゆくことが示されている。
 午後4時に裕仁はお風呂に入った。皇居の天皇の住居は、明治時代にその装備品が整えられたもので、生ぬるい入浴には磁器のヨーロッパ製の浅い浴槽と、ぴりぴりするほど熱い入浴用に、木製の深い日本式湯船も備えられていた。裕仁は日本式のお風呂に身を浸けることを好んだが、その熱さは、普通の日本のお湯の温度からは10度から20度低い――丁度華氏110度
〔摂氏43度〕――程度だった。そこで充分あたたまると、彼は風呂を出て着物に着替え、書斎に戻って、牧野内大臣から求められている数十枚の国家書類に国璽を押し、筆で署名した。午後6時ごろ、彼は一日の仕事を終えた。彼は、夜勤につく侍従や武官に、もし何か重要なことが生じた場合、自分に必ず連絡するようにと申し渡し、自分の私的居室へと退去した。そこで夕食をとり、残りの時を皇后良子や、気に入った本や、日記#2や、趣味である生物学に費やした。彼は酒も、煙草ものまなかった。  裕仁の家庭生活の几帳面な日程にあって、枢密院が開かれる水曜日は、他の日とは異なっていた(95)。この会議は、天皇に仕えるために天皇によって指名された24名の著名な貴族と、閣僚大臣および親王たちから成っていた。その使命は、条約の締結、国会が閉会中の勅書の発行、そして天皇の意見を求めるために提出する質問を審議することであった。裕仁は水曜日のその本会議には常に出席し、そのすべての委員会や準備会合についての報告も受けていた。それは、週のうちで、議論になりそうな様々な意見や人物間の対立を観測するいい機会だった。そうして彼はつねに、その枢密院の会議で接した状態について、それを考察し、対処するために、その翌日は可能な限りに開けておくよう日程を組んでいた。金曜日は、週末のために気分を明晰にしておくよう、賞を受けた学生や運動選手や外国からの大使などとの面会を入れていた。
 土曜日には、生物学についての趣味――彼について誤って語られ、誤って理解された彼自身の個的関心――に没頭した。彼は、まま考えられているような、雇われた助手の手柄を自らの成果とするような科学的好事家ではなかった。宮廷人の日記や彼自身の出版物は、彼が優れた科学者であり、鋭い観察力、着眼、そして知識の持主であったことを明瞭に証明している。また彼は、まま言われるように、個的な関心にたって、無名な海洋生物ばかりに片寄った収集家であったわけでもない。彼が数年にわたって資金援助した研究所や彼が公表した見解は、彼が科学の分野に、実用的な手段、戦争に役立つ技術、そして日本に不足する知識の宝庫を発見していたことを示していた。
 こうして、彼は自分の干満や海流についての海洋生物学的な知識が、海軍開発計画に有用であったことを誇りにしていた。さらに彼は、1927年当時、生物兵器戦争の考え自体が、西洋でもまだよく知られていなかった時に、彼の以前の生物学や外科の教師たちに、戦事研究のためにフルタイムで貢献するよう奨励していた。1939年までには、帝国大学における生物組織培養によって、医学界に知られる、いちご熱
〔熱帯伝染病〕、脳炎、ボツリヌス菌、腺ベストの最も毒性の強い媒体が製造されていた。1940年以降、シラミやネズミ用の餌に付けた細菌を詰め込んだペスト爆弾が、実用のための細菌分布手段の密かな実験として、中国で繰り返し使用された。1945年、占領軍の調査チームは、日本の地方に分散された研究所に、未使用のビールス、スピロヘータ、菌類胚種の大量の貯蔵を発見した。
 裕仁は1927年、病原になる菌類の研究に個人的に熱中した。彼の研究の機密扱いされていない部分は、その後1936年、服部――裕仁が子供の頃、海に潜りに連れて行った恩師――によって出版された。服部は裕仁の助手となっていた。皇居の庭園の中に、一棟の広々とした研究所が彼のために建設中だった1927年の時点においては、彼は菌類の品種――その多くは裕仁自身の手で扱われた――の分類を、皇居の中の鉢植え小屋で行っていた。ある土曜日の朝、裕仁は、西洋風のビジネススーツを着、その前の週に服部から与えられた培養図表とスケッチを入れたブリーフケースを持って、服部のもとを訪れた。二時間にわたり、裕仁は服部のそれまでの一週間の仕事を見て回り、質問をし、称賛の言葉を表わした。そして彼は持ち帰る新しいブリーフケースを受け取り、皇居へと戻った。皇后良子は、彼が帰った際、庭園の角の歩道の端で彼を迎えた。彼女は、実務的な女性で、夫の趣味の何たるかを理解してはいなかったが、彼女の年老いた父、久邇親王は生物武器戦争の推奨者で、それが夫を助けることに喜びを見出していた。
 裕仁の日常生活には、いくつかの日程上の義務が課されていた。二週間に一度、彼は政府諸人事局の副局長ら、および陸・海軍一般幕僚たちと会うこととなっていた。陸軍および海軍大臣は、時の政府の首相に付属して、武装部隊の採用、給与、平和時組織を管理していた。また一般幕僚は、戦地での軍事作戦や、本国での戒厳令の施行、および、海外での占領統治を指揮し、裕仁に直接かつ彼のみに付属していた。
 各月の1日、11日そして21日と年24日間の休日に、天皇は、自身の昼間の時間を割いて、宗教的儀式での司祭の役を勤めなければならなかった。それらは、新嘗祭のような民俗祭礼、天照大神の儀式、皇族祖先への最も重要な祈祷の日などであった。そうした個々の機会には、皇居神社の境内は皇室と藤原の親王で埋まった。宮廷の音楽隊は地面に座し、聖なる外套と尖った頭飾りを付け、古風な笛、太鼓、縦琴を用いて悲しげな音楽を奏でた。儀礼担当の侍従は、日本語の起源ほども古く解しがたい神道の祈りを詠唱した。そうした献上の導入部の最後に、裕仁は重厚な白い絹の外套をまとい、古代の朱塗りの玉座から立ち上がり、独特な高い単調な響きで、神への祈祷を詠唱し、そして、奉納物あるいは家宝を祖先あるいは大地の霊に高く掲げた。そうした献上において何度か、すべての親王たちは、その地位に従って、各々に裕仁に続き、交互に崇敬の行為を捧げた。すべてのこうした高貴な祈祷は堅苦しいものだったが、裕仁は後年、民俗祭礼はさほど献身を必要とするものではなく、祖先への祈祷よりもっと実在的感覚のするものであると語っている。ことに、彼は、収穫した米と酒を大地の霊に捧げる11月の新嘗祭は、時に「精神的な高揚を体験する」と感じていた。(96)


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