「両生空間」 もくじへ 
 「もくじ」へ戻る 
 前回へ戻る  


第十三章
ドル買い(1931-32年)
(その1)



スパイ活動

 1931年9月末から1932年5月末まで、日本は、海外での戦争あるいはその恐れ、国内での暗殺あるいはその恐れ、さらに、内外双方にわたる賄賂や恐喝という、広範にもつれ合った脅迫の糸に縛り上げられて行った。この八ヶ月間の政治的恐怖劇は、ほんの数十人の男たち――宮廷顧問演ずる音頭取り、超国粋的任侠役、大陸浪人、突出海軍飛行士および陸軍諜報将校らの演ずる行動隊――によって上演された。日本の記述では、彼らそれぞれの個人的役割は個々別々に記録され、何ら全体的記述にまとめられたことはない。しかし、それは常に、この人がこの人を相手としたというようには記述され、また、そうした個々の関係が一括される場合でも、知人同士や知人の知人同士といった知己関係でもって描かれた。だが、彼らはひとつの同じ目的を共有して連携していたのではなく、今日の米国のCIA(中央情報局)とでも概ねなぞらえれる、ひとつの頭脳集団によって組織され、指揮されていたのであった。
 ある情報提供者がそう呼ぶところのこの 「文民スパイ機関」 については、あまりよく知られていない。またその活動を記録した数少ない文書も、毎年、破棄されていた。1945年の米国の占領までには、その最後の公的暗号名もなんなく抹消された。しかし、残された手がかりは、それが日本政府の公設機関ではなく、天皇にまつわる人々と彼の豊富な秘密資金の周辺で、知人関係を媒介に出来上がり、成長していった特異な組織であったことを物語っている。そしてすべての証拠が示すものは、裕仁が、その組織構造を祖父の明治天皇から引き継いでいたことである。
 そのスパイ機関の影の指揮者たちは、様々な半自治的諜報組織、すなわち、陸海軍の諜報部、巨大財閥の市場調査課、文化的あるいは学術的目的をもった研究機関、といった諸組織をまとめる中枢神経として動いていた。そうした文化・学術研究機関のもっとも重要なものが、大洗――東京から50マイル
〔80km〕北東の旧尊皇派の拠点、水戸の近くにある保養地――にあった常陽明治記念館である。当館の幹部は、1920年代に皇典研究所と呼ばれた皇居内の非公開組織を通じ、その報告書を裕仁の顧問たちに送っていた。常陽明治記念館の館長、田中光顕〔たなか みつあき〕伯爵は、日本の古参スパイで、 「蜘蛛」 と呼ばれることもあった。この89歳になる頑健な諜報専門家は、完全なつんぼであったが、96歳まで生きるほどに健康で、生きて中国征服を目撃することとなった。1898年から1911年までの13年間を宮内大臣として仕え、明治天皇が最も信頼をおいた二人の侍従の一人だった。裕仁の一年遅れた誕生(1) という奇妙な環境を整えたのも蜘蛛の田中だった。そしてこの先の陰謀に暗躍するテロリストたちを提供したのも、この蜘蛛の田中# 1だった。
 明治後の20年間、蜘蛛の田中は、スパイ組織の成長を監視し、1931年までには、そのスパイ網は、アジア全域から、南はオーストラリア、西はイランまでを覆うものとなった。さらに、1941年までにはそれは世界全体へと広がり、南北アメリカやヨーロッパの主要都市にその工作員を配置した。日本と欧米との戦争が勃発した時、ルーズベルト大統領は、 「第五部隊」 〔スパイ行為によって国内の事情を敵国に通報し、また敵軍の国内への進撃を助けるような裏切り行為をする一団の人々〕 の働きを深く懸念し、アメリカ西部沿岸に住む日本人を両親とするアメリカ人を内陸の収容所に強制収用する許可を与えた。1941年、フィリピンに日本軍が進攻した時、アメリカ人入植者は、フィリピン在住の日本人大工や石工が、日本の占領政府組織の上位に直ちに登ってゆくのを見て驚かされた。(著者とその家族が捕虜となった)バギオでは、日本人社会の命令系統の網が、最初の日本軍が到着する以前から存在しはじめ、活動を開始していた。
 そうしたスパイ網の個々の役割を引き受けるそうした特異な感覚は、イタリアから国外追放されたもと黒シャツ党員で、中国において警察長官や諜報専門家となったアムレト・ヴェスパが1936年に書いた本の中にも描かれていた。日本人は、〔そうしたイタリアの〕冒険主義者の意図的な脚色として出版物に描かれると、彼が描いたものを直ちに打ち消そうとした。だが、ヴェスパは、長年の経験をもつ、その道の専門的観察者であった。戦後の戦犯裁判では、彼の著書の描写や日付が正確であったことが、明らかとなった証拠が示した。日本人の自慢話や勝ち誇りについて、その言葉通りの彼の描写は、それが出版された当時ではその信憑性に疑問が呈せられていたが、後になって、第二次大戦中の連合軍捕虜になされた日本人の演説に、その実例# 2が幾度も見られることとなった。
 ヴェスパは一時、満州の軍閥、張学良に雇われていたが、奉天攻落の5ヶ月後の1932年2月、日本のスパイ機関の関心を引いた。〔日本のスパイ機関で〕四年間をすごした後、失望と絶望を見出して脱出し、中国中央へ行ってその本を書いた。彼は、満州で日本軍に人質として捕らわれている妻や子供を解放させるための脅迫状の積もりで、この本を直裁かつ用心深く執筆した。そしてその原稿写しは家族の開放をもたらしたが、過去の給料が支払われることはなかった。そして彼は、家族開放の合意を破ってその本をなんとか〔米国で〕出版した。彼が語るところでは、その出版の目的は、自分と家族をヨーロッパに帰国させる費用作りだけにあったという。
 ヴェスパは最初そのスパイ機関に、バーデン・バーデンの選良で「満州のロレンス」と呼ばれ、攻落の翌朝、奉天市長を引き継いだ土肥原大佐によって紹介された。土肥原はヴェスパを試験した後、彼を、 「端整な風貌の45歳ほどの一風変わった私服の諜報員」 とヴェスパが表現する、スパイ機関主任に引き渡した。ヴェスパが書き残した記述には以下のようなものがある。(2)
 もしこの話し手とヴェスパが真実を話しているとするなら、この人は、宮中の最高身分に属す人物に違いない。四十歳代半ばの他の日本人なら、誰も、49歳の士族出身の土肥原のことを、彼のようには話せまい。ヴェスパは、 「文民スパイ組織」 に属す彼の上司と、特務機関――彼が 「軍事的使命」 と呼ぶ陸軍諜報部に属すもの――の上司とを注意深く区別している。彼の描写に従えば、二者は緊密に協力しあっていながら、軍部の上司は私服の上司につねに従っていた。ヴェスパは軍部の上司の名は頻繁に耳にしており、1932年から1936年の間の三人の特務機関の長を知っていた。だがこの期間、文民組織の上司の名前は知らなかった。しかし、文民組織の第二の人物――50歳代の男――については、ヴェスパは彼に1918年シベリアで会ったことがあった。イルクーツクの特務機関の所長をしていた。入手可能な日本人紳士録によれば、この人物は、その名を武田額三(3)という、若い華族である。1918年から1928年の間、彼はスパイ組織の中に姿を隠し、裕仁の二人の伯父やかっての艦上でのボクシングの相手の小松輝久公爵らと密接な関係をもって、軍部諜報の道で働いていた。日本の使命について野心的妄想を口にするヴェスパの第一の上司は、疑いなく、高貴さを隠してはいたがそうした血縁関係にある人物だったに違いない。


木戸邸での晩餐 (4)

 奉天攻落の5日後の1931年9月23日水曜日、午後6時、裕仁の大兄の第一人者、木戸侯爵は、アメリカ大使館から一区画ほどの先の自分の別邸に、11人の選良と大兄たちを召集した。そして彼らを、芸者の歓待こそはないものの、鴨料理と酒の晩餐でもてなした。それは、社交目的のものではなかった。来客たちはみな諜報機関の上級スパイで、天皇が約束した、満州征服を完成させる以前に 「再考のために休止」を入れる間、西園寺親王やその支持者、自由主義者、そして財閥などに対する 「論議」 を組み立てるために集められていた。ことに、国際連盟の裏をかき、日本の国際貿易に損害をもたらす経済制裁や日貨ボイコットを回避させる対処が必要だった。加えて、軍事予算、ことに海軍増強のための資金源を確保するため、財閥を大人しくさせ、統制する方法も見出す必要があった。その五時間にわたる討論をへて、11人の選良によって、実行に値する三つの構想が決められた。その三構想とは、その後の八ヶ月間に生じる三つの出来事、すなわち、三重の陰謀の口火を切るものであった。
 第一の構想である 「ドル買い」 は、西園寺に仕える秘書スパイ、原田男爵によって仕組まれた。原田はその日の午後、金融仲間
# 3からその考えを仕入れてきていた。第二の構想である 「国際連盟の顔をたてるだましの戦争」 という考えは、古代以来の宮中家系、藤原家の血をひく、長身の近衛親王によって持ち込まれた。彼の言うところでは、この考えは満州の関東軍の特務集団の将校たちによって便宜的に提案されていたものであった。第三の構想である 「クーデタによる威嚇」 は、大兄の裏松がスパイ機関の暴力実行部隊と連携した古いタイプの考えで、この段階ではただ、準備状況が報告されたのみで終わった。
  「ドル買い」 とは、記録的な巨額を投じた投機的横領とも言われるべきもので、日本の産業界に大量の賄賂資金を補給すべく計画されたものだった。その二日前、英国が予告も無く金本位制から離脱し、自由市場においてのポンドの価値が20パーセントも下落していた。日本の銀行家の計算によれば、その保有ポンドの突然の下落で、総計2200万ドル相当を失っていた。英国政府は、そうした決定を事前に通告せず、自国の金融界を守ろうとはしなかった。日本の銀行家の多くは、英国の同僚が事前に知らせてくれなかったと怒ったが、英国の銀行家はもっと損をしたと主張した。もし、日本のような国でこうしたことが行われたら、金融大臣の親戚取り巻きたちはたんまりの金儲けができた、と英国人は当て付けに言ったろう。つまり、前もって手持ちの円を外貨に換え、その後、大きく値下がりした円を買い戻せばよいと言うのだ。しかし、日本人が〔英国のようなつんぼ桟敷な〕事態を受け入れることを強制されれば、憤慨して、英国人は馬鹿ではないか、と言うに違いない。
 〔天皇の〕特務集団の要職にある者は、日本のブルジョア――西園寺の信頼しうる支持者たち――が西欧の自由主義の同志たちを裏切るように、ひとまとめに買収することが可能かも知れないとの考えに大いに刺激を受けた。金融知識に長けた11人の選良の誰かにして見れば、金本位制が停止される数ヶ月前に円を巧みに売って、一億ドルの儲けをも稼ぐことができたろう。それが政治に長けた者なら、こうした金額を、首相奏薦者西園寺からその主要な支援者を奪いとるに充分な額とも見ただろう。後になって彼らは、世論にそうした投機行為を暴露することで、そうした利ざやのほとんどを、財閥やブルジョアたちから取り戻すことも可能かも知れない。原田が言うところでは、西園寺が、行われようとしている 「再考のための休止」に大きく期待を置き、かねてから彼の政友会の選挙資金の提供者であった最大財閥の三井を後押ししようとしていた。すなわち、日本の通貨が金との連結を無くす先立って、三ヶ月以内に政友会内閣が指名されると三井に約束し、天皇がそれを承認していたとするならば、それはどういう意味をもつのか。
 西園寺の目下の政治的危機が解決した後となれば、他の財閥にもそのうま味の分け前が与えられよう。また、政府の横浜正金銀行もドル買いができ、国の財政も全体としてその利益にあずかれる。むろん裕仁も歓迎に違いない。7月、フーバー大統領が諸国間の負債返済の一年間の猶予を提案した後、裕仁はフーバー案を自分専用に翻訳させ、それを読んだ後、こう語った。 「我々は、こうした他の列強の一方的金融宣言を回避することができる何らかの策を見つけなければならない。」 (5)
 三重の陰謀の二番手、 「だましの戦争」 は11人の選良たちの会議には諮られたが、詳しくは議論されなかった。近衛親王はただ、関東軍は、上海で陽動作戦にでる用意を整えており、それは、国際連盟の平和維持の趣旨と 「連盟の顔を立てる」(6)ことの両方を満たすためのものだ、と説明した。だがそれが実施に移された時、近衛の言う 「陽動作戦」 とは、3万人を犠牲にする、凄惨な小局地戦となり、上海の中国港へと投じられた10億ドル相当の西欧諸国の資金が無駄となった。その停止を求める西欧諸国は、〔日本が行った停戦に〕眼を見張り、一目も二目も置き、一方日本は、そうして中国の首都、南京への道の扉をこじ開けたことに満足し、そこでは下手に出て、傷ついた名誉を抑えながら士気を高揚させ、撤退を始めた。
 世論の落ち着きをえて、国際連盟の平和志向者は、その撤退の間に北満州で行われた軍事侵攻には眼をつぶろうとしていた。連盟にはできる限りお世辞を使う見せ掛けを演じる一方で、満州は、硝煙弾雨のなかから、名目上の独立国として登場しようとしていた。かつての少年中国皇帝、ヘンリー・溥儀は、代々の満州の皇位を譲り受けて、日本の傀儡となって満州を統治しようとしていたのだった。哀れなほどに弱々しく無力な若者、溥儀をすえるとの考えは、関東軍の手になる近代的警察国家の首長にはうってつけで、大兄たちのうちの大の知恵者を喜ばせるものだった。木戸邸での晩餐会では、そうした考えは、慎重な討論をたちどころに打ち破る衝撃力ある議題となった。近衛は命令は頂いたとおどけてみせて、次の議題へと入っていった。
 構想の三番手の 「クーデタの威嚇」 は、1931年の三月事件の余波のなかから持ち上がってきていた考えだった。その際、牧野内大臣の手下、大川博士――皇居内の大学寮の前学長――は、〔三月事件の〕陰謀のために陸軍が用意した爆弾を保持したままだった。彼がそうしていたのはただ単純に、彼がその費用を黒龍会や待合の金竜亭に支払う援助を陸軍一般幕僚にさせようと目論んでいただけだった(7)。だが数ヶ月が経過し、彼の引き続いての爆弾保持が、もっとも有効な政治的道具となる情勢となっていた。それは、奉天攻落に先立って、陸軍の穏健派を静かにさせる役に立っており、また、産業界の既得権に揺さぶりをかけるためにもいまだ有効だった。また、ちょっとひねりを加えると、東京駐在中の西欧諸国大使に、こう納得させるに充分なものでもあった。すなわち、日本が微妙な扱いを求めており、かつ、裕仁が面している難儀な国内問題に打開の余地を与えるためにも、西欧諸国がそうした日本の立場を理解さえすれば、アジアの最大市場の安定を〔中国の〕革命の騒ぎにさらわれることを回避できる、というものだった。
 11人の選良に宛てた大兄の裏松の報告書によると、大川博士の動きはさらなる役に立つと言うものだった。大洗の 「蜘蛛」こと、常陽明治記念館の田中を通じ、大川博士は三つの超国粋的行動集団――クーデタによる威嚇に熱心で、天皇に成り代わり、その陰謀を計画し、必要ならその実行を本望としていた――と連携を維持していた。
 そうした集団の一つは、暗殺者も提供しうるもので、愛郷塾と称し、県庁都市水戸と大洗を結ぶ支道を10マイル
〔16km〕ほど下った辺りに、12エーカー〔48,000mの土地をもち、トルストイに傾倒した思想的自営農民組織を営んでいた。
 不作の翌年の1930年、貴族院の大兄、近衛親王と裕仁の伯父の東久邇親王は愛郷塾に寄贈を行い(8)、その土地に学校を開設し、愛郷精神を教え始めていた。
 第二の活動家組織は、血盟団と称し、中国で訓練中の学生スパイから選抜されたつわものの中核集団だった。彼らは皆、常陽明治記念館の付属学校として大洗に設立された二つの学校――護身武道と霊魂教化を教える――の卒業生であった。
  「決死隊」 と呼ばれた第三の組織は、大洗の南方30マイル
〔50km〕の霞ヶ浦にある航空訓練基地に属する海軍航空隊将校たちから抜擢されていた。日本の海軍航空隊では、その一般操縦士や爆撃手の階位は下士官や水兵であったため、同航空隊の佐官や尉官たちは、他の軍隊組織の同等の階位と比べ、少なくとも二階級は上位に相当するエリートと自任していた(9)。彼らは、1941年の真珠湾攻撃を計画した卓越した指揮官、山本五十六の教え子たちであり、また、日本の空軍力の開拓者、久爾親王――良子皇后の父――の追随者たちであった。彼らはさらに、皇室直結の皇族の中での五人の飛行家のうちの筆頭の魚雷攻撃機テストパイロットである山階親王とは、日々の訓練の同志たちであった。
 霞ヶ浦の飛行家たちについて話がおよぶと、11人の選良の幾人かは思わず声をあげた。そのような政治的場にそうした男たちの話を持ち出すことは、皇室にとっては並々ならぬ決意を意味していたからだ。そして、その夜の11時、11人の選良たちの会議が閉会した時、その参加者たちは、天皇を、クーデタの実行や、出来ることなら、 「だましの戦争」 の引き起こしにも巻き込ませたくはないと決心していた。つまり、そうした異例の方策におよぶ前に、 「ドル買い」 といった他の政治的手段が徹底的に追求されなければならなかった。


傀儡ヘンリー・溥儀

 彼の大兄たちが三重の陰謀を準備している間、裕仁は一定期間の静観視を維持することに同意していたが、それは彼にとって、容易なことでは済みそうになかった。国際連盟から最初の有利な報告が入ると、満州の彼の特務集団員は、松花江を越えて北満州へと直ちに侵攻するよう煽りはじめた。満州の北部県都ハルピンでは、関東軍の現地工作員――1923年の関東大震災の際、社会主義者大杉栄やその妻、甥を絞殺した甘粕憲兵――が中国人のごろつきを雇い、夜間、日本人の商店にレンガや手榴弾を投げ込ませていた。そして日中は、関東軍本部に泣き言を並べた電報を送り、現地に住む無力な日本人を助けるために部隊を送るように日々懇願していた。そこで、東京の一般幕僚メンバーである、良子皇后のあまたの姻戚の一人は、わざわざハルピンに赴き、甘粕に辛抱しているようにと告げなけらばならなかった。またその他の皇室の使いも、別の未侵攻地帯の扇動者を、なんとか我慢しているようにと、同様な扱いをしていた。(10)
 不満をいだく特務集団の若手将校たちは、そうした宮廷の黙認の態度をえて、三重の陰謀のための準備に乗り出し始めた。1931年9月30日、奉天攻落から12日目、関東軍の政治家こと板垣大佐の命で、一人の若い陸軍通訳が、中国の少年前皇帝、ヘンリー・溥儀の屋敷を訪れた。それは、北中国の第二の都市、天津の日本人租界の外れにある簡素な館だった。その通訳者は、臭いのしみ込んだ椅子がぎっしりと並ぶ西洋式の 「謁見の間」 に通された。その壁は、書道家による書、あるいは、満州王位継承者としての20年間にその少年皇帝におもねった、中国人、日本人、そして西洋人による書状類でほとんど埋め尽くされていた。(11)
 その通訳者はそうした自慢で飾られた壁をみて、ある種の軽蔑を感じていた。この浅はかな 「宮廷」 がその少年皇帝のものであるのは、ただ、日本政府がその光熱費を長年にわたって支払ってきているお陰であった。ヘンリー・溥儀は、日本が彼をそうしておくことを望んでいる限り、哀れな妾のごとく、有用ともくされる期間、皇帝を装っていることができた。
 溥儀は、1861年から1908年まで中国を奇行、狡猾、殺人、腐敗をつくして統治した中国皇帝の未亡人〔西太后〕、満州人の葉赫那拉〔エホナラ〕の曾甥だった。日本人が見るところでは、中国皇帝がその富や権威や誇りを浪費し、1931年にならず者と貧乏人の徒党である中国共和主義者に取って代わられたのは、おおかた彼女の放埓な政治手腕によるものだった。
 1908年の三歳での即位から、1912年の七歳での廃位まで、ヘンリー・溥儀は、大叔母の後見のもとに仕えたみだらな宦官と妾のなかで育った。17歳になるまで、中国共和制政府は、彼と彼の側近を北京の旧宮廷の一角に保護し続けた。そうして彼は、弱々しく、虚栄心の強い、眼鏡をかけた性的倒錯者として成人した。彼は古典文学の研鑽を志したがその努力も無駄だった。彼は残された数人の宦官の尻を鞭打つことに性的快感を見つけていた。1920年代、北京を張作霖が支配し、蒋介石が南中国に勢力を築いていた時、共和国は彼の年金支払いにつねに配慮していたわけではなかった。そして日本の甘言にそそのかされて、天津の日本租界へと居を移していた。
 溥儀は、配下の首相と伴に、そのくすんだ国務の部屋に入ってきた。その日本からの使者は、うやうやしく表敬の敬礼を行い、日本帝国の天皇が、溥儀を同じ元首として、好意的に見ていると告げた。その使者は、天津の日本駐屯部隊で、溥儀のみに直接伝える伝言を携えて、満州の裕仁の軍より送られてきたと述べた。そして、もし溥儀陛下がその通訳者の将校専用車に同乗することを苦にされないなら、大変ご興味のある提案をお聞かしできると伝えた。溥儀はそうした申し出を、12日前に奉天が攻落した時から期待していた。病んだ興奮をいだきつつ、彼は首相に眼を向けた。肥った無表情な首相は、陛下はその極めて異例な日本の要望に応じる意向である、と宣言した。(12)
 数分後、溥儀は、天津の日本条約軍の司令官事務所に案内されていた。司令官である中将は、奉天からの使者(13)を溥儀に紹介し、わざわざ足を運ばせたことに侘びを言った。そしてその使者はこう述べた。 「もし、陛下が満州にこられるならば、日本は満州皇帝の就任を準備しており、陛下は再びその皇帝となられるでしょう」。溥儀はほほえみ、その提案を考慮することを約束した。スパイ機関の一員であるその使者は、関東軍の政治家、板垣大佐に、少年皇帝が日本の傀儡の役を受け入れることは説得可能、と電報を打った。それに応えて、板垣は、800マイル
〔1500km〕南方、上海の日本租界にある特務機関の長官に、奉天に打ち合わせのため、至急こられたし、と打電した。


 つづき
 「両生空間」 もくじへ 
 「もくじ」へ戻る 

           Copyright(C), 2011, Hajime Matsuzaki  All rights are reserved.  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします