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第十三章
ドル買い(1931-32年)
(その2)



東洋の宝石
(14)

 上海の特務機関の所長は田中隆吉少佐――大きな頭を持った大男で、後に東京戦犯裁判の際、その超人的な記憶力で連合軍側キーナン検察官の主力証言者となった――だった。板垣の電報が入った時、田中は、上海キャセイホテルで、 「だましの戦争」 を挑発する女スパイとダンスをするために留守にしていた。彼女は少年皇帝の遠い縁者で、満州の皇女だった。彼女の生来の名は 「東洋の宝石」〔訳注〕 だったが、 「東洋の災い」 と言う方がもっと適していた。
東洋の宝石(左)と田中隆吉(右)
1932年、上海での「だましの戦争」開始直後
 溥儀のように、東洋の宝石は、1616年――シェイクスピアや徳川家康の死んだ年――に満州〔清〕王朝を打ち立てたヌルハチの直系子孫だった。旧北京宮廷の八人の 「鉄兜皇子」 の一人であるその父親〔粛親王〕は、内モンゴル部族の忠義魂を引き継いでいた。また彼は向こう見ずで極端な古典的満州皇子で、良子皇后伯父の閑院親王や1916年に閑院のために奉天を攻略しようとした際のモンゴル騎馬族首領〔バボジャブ〕とはとは親しい友人関係にあった。東洋の宝石はだが、彼のたくさんの娘の一人〔第十四王女〕にすぎず、1914年、彼女が8歳の時、父親の日本人兄弟でスパイ機関員の川島浪速に養女として与えられた。そしてこの養父は彼女に川島芳子との名を与え、14世紀のパオ〔モンゴル民族のテント住居〕から20世紀の東京の自宅へと移し、日本人として再教育した。後の彼女の自慢話によれば、15歳の時、70歳代の養父の父親に誘惑されたといい、16歳で養父自身と寝た。そして20になるまでには、彼女の方から誘惑を始めていた。
 1920年代半ば、モンゴル皇子の息子と結婚させられたが、すぐさまその夫を捨て、東京の中国人学生街に戻り、そこで楊貴妃――帝国を崩壊させた 「トロイのヘレネー」
〔ギリシャ神話上の絶世の美女〕役を演じたかっての中国皇帝の妾――との名で知られた。1930年末、24歳の時、東洋の宝石は日本の国会議員と上海に旅行したが、その議員は彼女を面倒みているうちに所持金をみるみる失った。幸いなことに、上海での新年パーティーで上海特務機関の田中少佐と出会った。彼女は田中の度量にうっとりとし、また彼は、12年前、彼女が12歳の時、東京のある葬儀の式場で彼を見かけたとの記憶に驚かされた。〔新年パーティーの〕その夜、彼女は彼を誘惑しようとしたが、彼は、彼女は高貴な身分であり自分は平民であると、丁重にではありながら彼女をすげなく断った。翌日、彼女は彼の機関に立ち寄り、160ドル〔訳注〕相当の金を彼より借りた。それからの数週間、彼女は金を無心し続けた。そしてついに、彼の力に頼り続けようとする彼女の執拗さに、彼の身分的自制もゆるんだ。彼女は言った。 「あなたは大きな人で、私はあらゆる面でちっぽけなの。」
  「彼女はその時、25になっていたが、まだ、極めて可愛かった」、と後になって彼は書いている。 「我々の出会いとは、円熟した力対力のそれだった。」
 彼女も田中も、共に靴への偏愛癖があった。 彼は黒の長靴を好み、彼女も、彼が常にそうすることを求めた。その長靴の靴音は、上海の磨き上げられたダンスフロアに響きわたり、その夜、〔脱いだ長靴は〕ベッドの端にこれ見よがしに吊るされた。田中は、特務機関の 「工作費用」 からの度々の出費に理由を与えるため、1931年の夏、将来、日本のスパイとして役立てようと、彼女を中国人の学校へやって英語を学ばせた。そしてその年の秋までには、彼女は自分の役割を充分に会得し、彼女と彼の関係は、むしろ、彼女と裕仁の特務集団の陸軍将校らとの広範な関係において花咲いた。その関係は、1948年に中国人の手によって彼女が斬首されるほとんど直前まで続いた。
 1931年10月1日の朝、関東軍の板垣大佐からの電報に応じて、東洋の宝石の愛人、田中は奉天に向けて汽車に乗った。彼は特務機関の費用の使い込みで面目を失うかと予想していた。彼はその二日間にわたる鉄道の旅の間、東洋の宝石と彼女の無節操を有益な試みとしえないものかと考えあぐねていた。だが彼が奉天に到着した時、板垣大佐がまったく別のことを懸念していることに驚かされた。
 板垣は言った。 「政府は国際連盟に気を遣い過ぎている。そのため、我々の計画に狂いが生じている。次の段階として、我々はハルピン(北満州首都)を獲得し、満州を独立国にしたい。我々は土肥原大佐に詳細を述べ、溥儀を得た。もし我々がその計画に成功すれば、国際連盟は大騒ぎし、東京の政府はさらに困惑するだろう。ゆえに私は君に、列強の関心をそらすべく、上海で事を開始するよう、よろしくお願いしたい。貴殿が事を起こしている間に、我々は満州をものにする。」
 田中少佐はほっと胸をなでおろしながら、その役目は遂行可能だと板垣大佐に確約した。そして、上海では我々の完璧な工作員が中国人の扇動者を買収し、だましの戦争を開始する準備が整っている、と田中は言った。
 板垣は、 「もちろん、貴官の愛人の件はよく承知しております」 と話を切り込んだ。 「彼女は溥儀の第一夫人の幼友達です。第一夫人は麻薬中毒で、神経過剰な女です。彼女は、我々の計画に乗らないよう、溥儀を言い含めている。土肥原が彼女に手を焼くような場合には、東洋の宝石を貴官から拝借し、天津の溥儀のもとに行ってもらい、二人を説き伏せてもらうかも知れない。」 (15)
 そうして板垣大佐は、関東軍の金庫より自由裁量のきく資金として一万ドル相当
〔当時で約2万円、今日では約4千万円〕を田中少佐に与えた(16)。田中は、その金でもって、東洋の宝石の借金を清算し、だましの戦争を煽り立てる手配は〔その分だけ〕つつましく取り掛かった。


頑固な老人

 奉天が攻落する前日の9月17日、首相奏薦者西園寺は、御殿場の夏の別荘から京都へと突然に居を移して、名高い祖先たちの墓参りをした(17)。そうして東京および裕仁の世界から転居することで、彼は沈黙のうちにも、事前に問われた満州侵攻に、賛同はしていないことを国民に告げていた。日本では、家族全体の調和は重要なこととみなされる。西園寺親王が天皇の顧問集団から距離を置いている限り、日本人は、国の新たな征服方針に穏やかな気分ではいられなかった。
 木戸邸での11人の選良の会合から三日もたたないうちに、西園寺の私設調査員は彼のところに、三重の策謀に向けた企みが準備されているという京都界隈のうわさを持ち込むようになった。裕仁とその顧問たちが約束した 「再考のための休止」 が重視されていないとの認識は、老西園寺をして、行われようとしている策謀に日本の支配者階級の眼を何とかして開かせようとの意欲を掻き立たせることとなった。
 亡くなった住友家の弟
〔住友友純、1926年没〕の京都邸にあって、西園寺は、住友財閥の経営者たちに影響を与え、ドル買いに加担しないように説得しうる位置にあった。そうした経営者たちや、日本の大商人都市大阪のビジネス界の関係者を通じ、彼は口コミによる反対運動に着手した。それはもちろん天皇に楯突くものではなかったが、その顧問たちに対峙するものであった。
 それに加えてさらに焦点を絞り、西園寺は自分の工作者の一人――黒龍会に属する自由奔放な画家、宅野田夫――に、新聞 『日本』 への投書を行なわせ、牧野内大臣の不法行為を告発させた(18)。西園寺はその告発をしうるに足る用意を充分に整えており、特高警察――一般に思想警察と呼ばれた――が宅野を不敬罪の嫌疑で逮捕した時、西園寺はスパイ秘書の原田に面と向かって圧力をかけた。動揺した原田は東京へと戻り、思想警察の長官に接触し、宅野を起訴せずに釈放させた。
 西園寺が彼自身の遺産に反目し宮廷の秘密を大衆に明かそうとしているとの決定的分岐点に達しているかも知れないと警告され、裕仁の三人の侍従は、西園寺の真意を確かめるため、1931年10月6日、原田を京都に送り返した。(19)
 西園寺は、ビジネス界に拡大している観測を裕仁に伝える機会を持てることを大いに喜びとしていた。彼は、 「陸軍中枢」 には、と口火を切り、共産主義的傾向が存在しており、国家社会主義に向かっていると指摘した。さらに、ロシアやドイツでの彼の経験から得られたように、こうした一連の症状の中に、革命の序曲を聞くことができ、皇位の転覆も見ることができた。地下組織の黒龍会すら、二つに割れつつあり、その一方は慎重さを望む年配者であり、他は、即座にいっそうの征服を煽る若い過激派である、と彼はつづけた。西洋の国際組織は、日本と戦うことも、制裁を加えることさえも望んでいないかも知れないが、西洋の各々の政権は個々には、日本を原材料と市場から切り離す用意を進めている、と西園寺は原田に言った。
 西園寺はそして最後に、日本の大衆は不安にかられ、不信感にさいなまれていると指摘した。人々は、天皇の伯父の東久邇のような直系の親王たちが、暗殺団の血盟に賛同するために、テロリスト集団に資金を提供し、けげんな儀式に参加していると言っている、と西園寺は忠告した。
 スパイ秘書の原田は急いで東京に戻り、西園寺が明らかにした宮廷への危険を報告した。その二日後の10月8日、彼は、天皇からの要求を持って京都に引き返した。その要求とは、西園寺がもう一度東京に居を定め、国家の結束を再現させるようにとするものだった。原田は東京に戻った際、大兄の木戸、牧野内大臣、そして葉巻をくゆらす老子思想家侍従長の鈴木貫太郎と会った(20)。そして、最大財閥の三井が、誘惑に負けて、ドル上昇に期待して一億ドルのドルを買ったとの情報をたずさえて京都に戻った。三井がそのような巨額の投機に出て為替相場を引き下げると、西園寺が期待を託していたビジネス界もすばやく信念を転換し、他の財閥もドル買いに走り始めた。もし彼らが自制に耐えた場合、裕仁は金本位を維持する積もりであったし、それは三井に大損を与え、国の経済的混乱をもたらしたろう。言い換えれば、もし彼らがマネーゲームに参加すれば彼らは大金を獲得し、もし西園寺を支持したなら大損をこうむらねばならなかった。
 西園寺は今や時代が天下の岐路にあることを知っていたからこそ、東京に移ることを拒絶し続けた。そして同時に、亡き弟の住友財閥の銀行家たちに、金融的殺し合いが始まっており、それで儲けるか損をするかは、彼らが穏当と考えることに任すとした。信用を重んじて、住友銀行の大半の支店長は西園寺への忠誠を維持したが、二ヵ月後に円が切り下げられた時、甚大な損失をかぶることとなった。
 東京からの指令に従い、原田はさらに二日間、京都にとどまり、東京に戻るようにと西園寺への説得を続けた。原田は、その頑なな老人との冗長な話の中で、老人が唯一配慮しそうなことは、天皇の健康であることに気づいた。そこで原田はこう西園寺に告げた。良子皇后によれば、裕仁は土壇場が長引き、重い苦痛をを味わっている。裕仁は、来る日も来る日も、国際連盟が日本に経済制裁を課すのではないかと案じている。誰にも見られないような宮廷の私生活区画の廊下では、彼は足を引きづって歩き、子供時代に克服したはずの遺伝的欠陥の兆候が再発しているようである。心を痛めやすい側近のように、西園寺はそうした話にいたく心を動かされた。だが、それでも即座な屈服は拒否し、彼は原田に、 「事態の成り行きを見届けた」 後、10月21日には上京できるだろうと確約した。(21)


国際連盟の転進

 国際連盟は、奉天攻落の直後、日本と中国に 「事態を悪化させるような行動の自制」(22) との勧告を発して休会し、10月13日に再開しようとしていた。その五日前、満州作戦の戦略家、石原中佐は、関東軍は他の何者からの介入を受けず、連盟が東京から得たいかなる確約にも拘束されない、との立場を周知させる活動に取り掛かっていた。石原は、独自に11機の航空力で空襲を行い、満州南部の都市、錦州に、一万枚のビラと75発の爆弾を投下した(23)。日本の外務省は連盟に対し、陸軍に錦州を攻撃する意図はなく、その空襲も許可されたものではない、との異例の確約を行った。西欧の諸新聞は、その空襲の記事を一面に掲げ、日本の外務大臣の誠意について疑念を表した。
 さらに、日本政府がかかえる国内問題や日本に対する制裁の無効さを連盟総会に印象付けるため、天皇の大兄たちは、いまにも起こりそうなクーデタの脅威があると世界に知らせることに乗り出した。スパイ秘書の原田は、10月10日、東京に戻るやいなや、大兄たちの計画を聞き知り、ただちにそれを十月事件と呼んだ。(24)
 即興に画策されたという点で、この十月事件は先の三月事件の滑稽な模倣だった。 「陸軍の青年過激派」が 「摘発」され、その空恐ろしい計画が 「寸前のところで」 発覚して事なきをえ、その事ごと詳細が東京駐在の外国人記者に漏らされてニュースとなった。陰謀家の大川博士と特務集団の鈴木中佐は、舞台裏での準備にあたった。表舞台に立ったのは、陸軍諜報部のロシア班の橋本中佐――1937年のパナイ号を沈めた――と、北中国特務機関の張勇少佐だった。二人は、10月の最初の週、金竜亭で合流し、以来、そこに逗留を続け、酒の飲み比べやクーデタの 「筋書き」 作りでの互いの腕を競った。(25)
 採用されたのは、張少佐の筋書きだった。彼には劇的な作品をつくる才能があった。のちの1937年、南京城壁の外側で、朝霞親王が署名した 「捕虜全員を始末せよ」 との命令の下書きを書いたのは彼だった。1945年、沖縄の洞窟で、島に居る日本の兵士と民間人に、 「最後まで戦って死ね」 との命令を書いたのも彼だった。しかし今度は、あたかも冗談でもあるかのようで、彼の十月事件計画は、南進派の理論家大川博士と、彼の論敵である北進派主唱者北一輝とが並んでバリケードに立つように配置し、さらに、「海軍補修班の十人ほど」を彼らの掩護に当てていた。
 まともな面を見るなら、張の計画では、クーデタは歩兵十個中隊、機関銃一中隊でなされ、それを霞ヶ浦の航空基地からの13機によって支援されることとなっていた。
 事情に詳しいあらゆる芸者、政党政治家、そして陸軍官僚たちは、10月10日から13日までのこの大掛かりな冗談について耳にしていた。後の首相で実直な大佐、東条英機は、それを 「愚行」 と批判する文書を陸軍省内部に回覧した。新聞各紙は、スイスで国際連盟の総会が開かれる初日と翌日の10月13、14日をその実行日として報じた。
 10月15日の夕刻、この計画に幕を下ろすため、特務集団の幹部若手将官および佐官が陸軍省に集まった。特務集団の北進派の老練将官で軍事教育総監である荒木貞夫中将は、クーデタ政府の首相となる手はずであったがゆえ、金竜亭に出向いて陰謀参画者たちと話しをつけ、その責任を取るべきであると決められた。
 宮廷の南進提唱者たちは、荒木を事件の首謀者に仕立て上げようと、彼が企てる何らかの脅しのあることを期待していたふしがある(28)。しかし、荒木は三月事件で祭り上げられた宇垣将軍のように軽率ではなかった。荒木は、熟達した政治家であり、雄弁家でもあった。彼には金竜亭に乗り込むにあたり強い意志があり、日本刀についてのしゃれ話も心得ていて、「〔刀は〕抜き身じゃあぶない」 と聞かせて芸者たちを喜ばせた。そして、 「君らがこうして酒を飲んでいる場に軍服姿でやって来ねばならなかった目的が、この種の話を諸君に説くためだったと思っているのではないだろうね」(29)、と釘を刺した。
 荒木中将は、その料亭の誰にも己の毅然さを知れ渡らせると、橋本と張と共に座した。そして、数杯の酒杯を交わした後、二人の策謀者に言い聞かすようにして、彼らに適用されなければならない懲罰手順について、形式的な説明を与えた。(30)
 それから一日以上が過ぎた10月18日の早朝、憲兵隊は十月事件に関わる11人の若手将校を急襲し、そこがどこであろうと、その場に拘束した(31)。橋本と張は、それから20日間、その金竜亭に拘禁され、快適ながらもその意気をそがさせられた。他の9名の将校は、短期間拘禁され、訓戒を言い渡された後、釈放された。大川博士とその下の民間人参加者は、何のとがめ立てもなかった。牧野内大臣は、その事件を聞き及んだ者には誰でも、自分の暗殺をねらったものだと言いふらした。牧野の手下である大川は、十月事件は、 「堕落した日本の政党政治に致命傷を与えた」(32) と、人々に自慢してまわった。
 十月事件が明るみに出た10月18日、西園寺は、健康診断のため、友人で京都在住の面倒見のよい医師をたずねた。そして10月20日、彼は原田に、医師の勧めにより、長期休養のために興津の別荘に戻ると告げた。彼がその積もりにしていた10月21日には上京せず、宮廷にその遺憾の意を伝えてほしいと原田に求めた。(33)
 その10月21日、京都から興津への途上、西園寺が乗るその列車に、小磯国昭軍務局長――三月事件で陸軍の役割を手配した閑院親王の騎兵隊仲間――が乗りこんできた。それは、裕仁が彼を中将の地位へと昇格させた直後だった。その車中で小磯は西園寺の横に席をとり、もし天皇に会いに東京に来られなければ、彼の健康は極めて悪化するだろうと、丁寧ながらもいい含めるように言った。西園寺は静かにそれを聞きつつ、あたかもその招かざる乗客が存在していないかに振舞った(34)。興津に到着すると、西園寺は自分の別荘に引き上げ、外部との接触を絶って、国際連盟の決定を待った。
 連盟総会は西園寺を落胆させ、十月事件にはその謀略者が目論んだ通りの反応を示した。総会は12日間の会期中、 「東京の微妙な情勢」 を勘案した後、日本に対するいかなる本格的非難を取り上げることもなく、それに代わり、それまでに満州からの日本軍の撤退をむなしくも望んで、総会の再開を11月16日と決めて10月24日に閉会した。連盟総会への日本代表は、 「この最後通牒」 の無作法を悲嘆としてそれに反対票を投じ、自ら孤立への道へと進んだ。


再度の屈辱

 西園寺は、外務省内の自分の手下を通し、国際連盟での議論の経過を逐次つかんでいた。彼は、票決がされると直ちに、出来る限り速やかかついさぎよく降伏した。そして彼の屈服は、10月23日の特務集団の夕食会で公表された(35)。西園寺は、その公表を否定も肯定もしなかった。そして30日まで待って、牧野内大臣がよこした謙遜した手紙―― 「目下の重要時にあたって、私が天皇に忠告するのは不適切かと存じます」 ――に返答して、西園寺は、長々と引き伸ばしてきた宮廷への参上に、同意する旨を表した(36)
 宮廷関係者は、裕仁の神経は長引く危機で擦り切れており、また、西園寺の顔を立てる話――忠実な宮廷人としての西園寺が天皇を元気付けようと上京して健康回復の世話に熱意を燃やしている――を、気遣いしながらも広げた。威嚇され、疲れ果てた82歳の老人の健康は、彼がその維持を丁寧に求めたにも拘わらず、慇懃に無視され続けた(37)。1931年11月1日、東京駅で汽車から介助をえて降り立った西園寺を見た新聞記者たちは、老人のいっそうの弱々しさと眼のまわりのくまに注視させられた。
 1931年11月2日の朝、西園寺は、以前の彼の部下で、パリ講和会議の補佐役であった内大臣の牧野伯爵に会うために、皇居の宮内省に車で向かった(38)。彼らが二人だけになると、西園寺は牧野に、注意深く選ばれた言葉遣いをもって、貴殿はこの国を誤らせている、と告げた。
 さらに西園寺は続けた。 「貴殿の父君、大久保利通公は、偉大な人物でした。・・・国が存亡の淵にあり、国民がいまにも戦争に立ち上がろうと朝鮮に対する気運を盛り上がらせている危機的状態の時、貴父君は同志の西郷、郷土の先輩や同僚と決別してまでも、自らの反対をもって征韓論を抑えることに成功しました。その時それが達成できたのも、また明治維新が成功しえたのも、そして今日の日本があるのも、大きく、大久保公爵あってのお陰であり、まさにその名にふさわしい国の総理であり、偉大な公僕でありました。言っておきたいのですが、今日の世界で何事かを成そうとする者は、父君のように、断固として立ち向かわねばなりません。」
 牧野伯爵はそれに静かに応えて言った。 「仰せの通り、父は西郷の親しい友であり、そうでありながら、父がそう行動したのも事実であります」。牧野の父親は、天皇のために西郷を追い詰めた。彼、牧野自身も、自分の老師、西園寺を追い詰めなければならなず、彼はもはやそれ以上、何も言うべきことはなかった。午後2時、西園寺は宮内省事務所を出て、皇室図書館を訪れた(39)。彼は一人で裕仁と会い、45分間、いかにも儀礼的な会話を交わした。その後、彼は幣原外務大臣に伝言を送り、天皇が恐れている経済制裁の動きに配慮するようにと伝えた。
  「事を誇張する必要はない。ただ、天皇に、注意深く、全てを、時にはゆっくりと、誠意を込めて、同意できる様に話すだけでよい」 と西園寺は伝えた。
 西園寺は幾ばくかの希望を抱きつつ興津に戻った。だがその翌日、彼が天皇と話していたまさにその時に、その天皇の許可のもと、日本の部隊が北満州へと松花江を越えていたことを知った。(40)


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