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第十四章
だましの戦争(1932年)



指揮する親王

 1931年12月13日の犬飼内閣の認証式をもって、三段階の陰謀のうちの第二弾の火蓋が切られた。その日の午後、裕仁との儀式ばった公式謁見(64)において、西園寺は犬養をこの国の次期首相に奏薦した。新内閣は直ちに召集され、全満州の最終的和平のためとの予算を議決した(65)。中国では、それまでの数週間、満を持して南京で待機していた新首相の公使が、蒋介石と面会した(66)。夕暮れ前、蒋介石は彼の国民党を掻き回して騒ぎをおこし、辞任すると脅したところだった。彼は二日後にその脅しを実行にうつし、山中の豪奢な別荘に引っ込んでしまった。そして彼はそこにとどまり、それを終わらせる時期が廻って来るまで、だましの戦争の高みの見物と決め込んだ。
 12月16日、蒋介石の辞任の翌日、日本陸軍参謀総長の金谷範三大将も辞職した(67)。それまで2年間にわたり、彼は、通常の軍務に加えてその上に、政治的英雄主義を身をもって示してきていたが、今や、目下のだましの戦争を率いる責務から免除されたいと望んでいた。日本陸軍を統括する将軍たちの三頭政治――陸軍大臣、参謀総長、そして陸軍監察長官――は、金谷の後任に、辞任する陸相、南大将を指名することで合意した(68)。しかし、裕仁は、奉天占領の際、南がどこか愚鈍と感じていたため、介在者を通し、三首脳にその推薦を再考するようにうながした。慎重にその意向を推し量った後、三首脳は、参謀総長への裕仁自身の意中の後任者が閑院親王――皇族の白髪の卓越者――であることを嗅ぎ取った。首相奏薦人西園寺と参謀本部の北進派は、その指名に六日間にわたって反対を表したが、その甲斐はなかった。12月23日、裕仁はすべての反論を無視して、彼の大伯父を日本の軍部の最高の地位に着けさせた。(69)

閑院親王
 まだ66歳でありながら、閑院親王は、78年前にペリー提督が日本を開国させた当時、孝明天皇の顧問を務めた〔久爾宮〕朝彦親王の唯一存命する弟 〔載仁(ことひと)〕 だった。彼のみが、それ以来に介在した皇族の政治的意思決定の秘密のすべてを知っていた。また、国の父たる人物として、首相奏薦人西園寺より上に立つのも、彼のみであった。一方、奉天攻略に際しての謀略の立案者である建川や小磯は、騎馬部隊においての彼の同僚であった。裕仁が、その祖父の明治天皇より引き継ぐ天皇家計画を、滞りなく実行してゆくのも彼の責任であった。その後、1940年秋までの9年間、閑院親王は、彼が相続した〔皇室への〕信頼を、慎重すぎるほどにも充溢させてゆく。彼は、陸軍参謀のすべての計画の立案を統括し、それに署名を求めるために裕仁に上奏する。彼はその地位にある間に、北満州、蒙古、中国、そして北インドシナの占領を監督してゆく。そして彼はその死――1945年5月、重症の痔疾による――の前、欧米を相手とした日本の終末戦争において、自国が火炎の中に廃墟と化してゆくのを目の当たりにしてゆくのである。
 閑院親王のその就任は、東京の明治神宮球場で開催された 「国民祝賀」 大集会でもって歓迎された
(70)。1万8千人を上回る、退役軍人会、青年会、婦人会、そして文化団体の加盟員が、皇室の一員を公的責任を負う地位に任命した天皇をたたえて参加していた。その大会の様子はラジオを通じて中継され、その帝国から最も離れた海外諸国にまでも放送された。かつて、皇室のいかなる人も、ラジオを通じて一般国民に語りかけたことはなかった。その声を聞いても罰せられないことを証明するために、日本のロビンフッドこと黒龍会の頭山は、その祝賀会の運営役を担って先頭に立っていた。その頭山によって紹介された閑院親王は、陸軍元帥の礼服の姿で立ち上がって姿勢を正した。目を見張るばかりの男前で、油で形を整えたヒゲが照明を受けて光り、尊厳をこめた彼の演説が披露されはじめた。選び抜かれた数語にたくして、彼は、全国民の結束と、日本人が今後直面せねばならない、英雄的な苦難を担った皇位への無私なる献身を訴えた。


上海の誘惑

 少年皇帝溥儀とその第一夫人の再会を成功させて、精気あふれる満州皇女、東洋の宝石は、東京では内閣の交代が行われている12月半ば、彼女の愛人、上海の特務機関の田中少佐の逞しい腕の中に戻った。上海では、孫文の息子の孫科〔ソン・フォ〕が、その総裁を辞めたばかりの蒋介石派に対し、国民党内の彼の広東派を支援するよう日本に働きかけていた(71)。田中少佐は、だましの戦争を煽動するために使う工作資金を持っていた。東洋の宝石は、自分の土俵というべき上海に戻っていた。彼女は孫文の息子に言い寄り、国民党内部の派閥抗争についての情報を田中少佐に通報した。彼女はまた、上海駐在の英国武官と寝て、満州での日本の侵略行為を止めさせることに、欧米諸国は限定的な意思しかもっていないとの現実的見通しを聞きだしていた。彼女はまた、暇な時には、だましの戦争の火口に使えそうな、街頭での口論、放火、爆弾騒ぎにかかわりうるごろつきどもを手なずけていた。中国皇女として、彼女は、上海特務機関の他のどの機関員よりも、中国人社会に深く侵入して行けた。また満州皇女として、彼女は、中国人には思いもよらぬ狂信的蔑みをもって、中国人大衆を見下していた(72)
 東洋の宝石が上海に戻って4日後の1931年12月17日、上海にいた朝鮮独立運動の李奉昌〔イ・ポンチャン〕 という者が、数個の手榴弾を入れたスーツケースを手に、それを裕仁に投げつける決意をもって、神戸に向けて船に乗った。神戸の波止場では、普通なら厳しい通関職員の眼を不思議にもすり抜け、東京へと向かう8時間の車中でも、私服の鉄道警察官の監視もなんとかやりすごした。東京につくと、浅草の場末の歓楽街にある、尾張屋という旅館に宿をとった。そこで彼は、新聞を読み、東京の地理を学び、そして目的を果たすべき時を待った。(73)


裕仁の奇異なまぬがれ

 1931年12月の最後の週まで、満州の関東軍は、北満州の全面占領のために最終的準備を行っていた。翌1月の第1週、その計略は、国際連盟が唖然と手をこまねいているうちに、冷静さと迅速さをもって実行に移された。1月5日には、関東軍の政治家、板垣大佐は、裕仁と参謀本部に報告するため東京に飛び、中国側の抵抗組織の機軸は壊滅し、通常の掃討戦を除き、ことさらに必要なことはもはや残っていないと伝えた。そして板垣はそのまま東京に滞在し、だましの戦争の作戦計画の支援に入って行った。(74)
 満州における日本の侵略行為の新局面は、国際連盟の調査団がまだ東洋に向けて出発すらしていない段階で実施され、多くの欧米の政治家たちは、あたかも横面を張られたかのように、驚愕させられていた(75)。米国務長官のスティムソンは、東京駐在大使を呼び戻し、米日貿易を縮小することをも考慮し始めていた。だが、そのいずれの手段も、ワシントンでの充分な支持を取り付けることができなかった。策に困った彼は、そこで、それまでの米日関係の歴史における最も厳しい書簡を日本に送ることを決断した。その書簡は、日本による満州の傀儡政権を米国政府は決して認めないであろうと表明するものだった。(76)
 たとえ裕仁の特務集団が、上海でのだましの戦争計画の実施に、何らかのためらいを持っていたとしても、1月8日、金曜日の早朝、東京に届いたそのスティムソンの書簡は、彼らの逡巡を吹きとばしてしまった。
 その日、裕仁は東京の代々木で行われる観閲式に臨むことになっていた。慣例に反して、その日、彼がたどる道筋について、5日前から新聞がそれを記事にしていた。その沿道の警備は異例に厳しく、満州の関東軍憲兵隊が空輸され、警視庁の警察隊に合流していた。多くの待合、売春宿、朝鮮人向け下宿が、事前に警察の手入れと捜査を受けた。それにもかかわらず、その上海からの暗殺者、李奉昌は、手榴弾を各ポケットにしのばせ、裕仁がその帰路に通るはずの桜田門外で、見物人の最前列の場所をみつけることに成功していた。(77)
 1923年の裕仁暗殺未遂事件以来、天皇の通過の際に警護にあたる警察官は、道路を背にして立ち並び、その頭は儀礼で下げられてはいるものの、その目は群集の目へと注がれていた。群集は、古代からの伝統にならって土下座していた。この敬けんな姿勢から、李奉昌は、その機会をつかもうと、路上を彼の方に近づいてくる天皇の行列をうかがっていた。その行列には何台もの馬車が連なっていたが、一台のみが皇室の菊の紋章で飾られていた。しかし、後に警察が発表したコメントによれば、李奉昌は混同してしまったという。彼はぱっと立ち上がり、一個の手榴弾をポケットから取り出し、それを65フィート
〔21.4m〕――訓練をつんだ砲丸投げ選手にでも上出来な――も投げた。一木喜徳郎宮内大臣の馬車の後輪の下で小さな爆発が起こった。道路の縁に沿ってぎっしりと列をなしていた群集には、一人のけが人も出なかったのに、一木宮内大臣の馬車の下側から、三つの手榴弾破片が摘出されたとして、後に公開展示された。暗殺者はその場で警察に捕らえられ、完璧に外部との接触を絶たれた。9ヵ月後、特高警察は彼に死刑が宣告されたと発表した。(78)
 11人の選良の大兄、木戸は、この暗殺未遂事件に先立って、その日には何か悪いことが起こりそうに感じると記している(79)。その後には、彼はこの爆弾事件を簡略に、 「一種の政治的謀略」 とも記している。またその馬車が被災した宮内大臣の一木は、事件の数分後にスパイ秘書の原田に電話を入れ、西園寺にことさらに報告をするほどに重要なことではないと告げた。裕仁自身は、その暗殺者の身元を告げられた際、ほくそ笑みながら、 「朝鮮独立党の者に違いあるまい」 と言った
(80)。宮廷侍従の一人、木下幹雄は、その午後、裕仁に幻滅を持ち始めている市民の同情を再獲得するとういう意味で、その暗殺未遂は重要なものだ、と述べた。多くの愛国的日本人は、警察を管轄する内務大臣は、切腹をもって、その部下の不首尾のつぐないをすべきだと感じていた。しかし、内大臣はただ、他の閣僚とともに、形式的な辞任を裕仁に申し出ただけだった。それに裕仁は、その辞任願いを読みもせずに首相に返し、閣僚全員が現職にとどまるように求めた。
 その夜、スパイ秘書の原田は興津に行き、その暗殺未遂事件とその背景の詳細を報告した。原田は日記の中に、その遣り取りの詳細は何ら記録していないものの、西園寺のひと言を記している。それは、思想警察に知られれば、誰も逮捕されることが免れられないような内容だった。
  「天皇が憲法を超越する存在だとは一般的に言われていることだ。だが、その憲法を除いて、一体どこに彼の存在を正当化するものがあるのか」 と、西園寺は熟考のうえ苦々しくつぶやいていた。(81)
 暗殺未遂事件の翌日の1932年1月9日、土曜日、上海の東洋の宝石の知人である中国人新聞編集者は、自分のコラムに、この爆弾事件が裕仁に意味することは、「幸運にも、その標的が外れたことだ」と軽率なことを書いた。その話は上海の 『民国日報』 に掲載されたが、中国の他のいくつかの都市の新聞にも転載された。中国にいる儀礼心に富む日本人たちは、それに抗議する暴動を始め、そうした中国新聞社の事務所を襲った。その編集者はその非礼をわびたが、日本の特務機関の工作員たちは、その問題を蒸し返しつづけ、三週間の煽動の後、遂には、戦争の一因にまで燃え上がらせたのであった。(82)


幽霊屋敷(83)

 かくして、三段階の陰謀の第2弾――だましの戦争――への開戦事由ができるや否や、その第3弾――クーデタの脅し――への準備も開始された。
 裕仁の側近への不成功な爆弾事件のあった翌日の夕方、東京北部の近所同士の子供たちは、 「空家」 の幽霊がまた寄り合いをしていると両親に報告した。その空家に隣接する家庭では、となりの気味の悪い灯りを見ないようにするためか、あるいは、霊魂の世界を詮索しているようには見えなくさせるためにか、それとなくその雨戸まで閉ざしていた。
 その空家は中国でのスパイ活動の長い経験を持つ、あるベテラン諜報員
#1の所有だった。彼はその家に一度住んだことがあり、そこで農地解放運動の哲学についての本を書いていた。しかし、ほぼ一年前、そこを閉じ、よその地に行ってしまっていた。彼が去ってさほどもしないで、夜間その家で、灯りがみられるようになった。警察が調べるために呼ばれた時はいつもその灯りはみられず、その内部に誰も発見できなかった。隣人たちは、霊魂がそこに移り住んでいるとは信じつつ、その後は、その家を無視するように努めていた。  隣人たちが憶測にもおよばず、地元の警察も見逃すように指令されていたことは、その空家が、血盟団という、内大臣牧野の手下の大川博士が蜘蛛の田中の支援を通じて接触をとっている、三つのテロ志向グループのひとつの秘密本部となっていたことだった。
 問題となったその夜、その空家はある入会式の式場となっていた。白い法衣をまとった無骨な僧侶が玄関の奥に立ち、揺れる蝋燭の明かりを背にその姿を浮かび上がらせていた。時折、入り口の戸をたたく音が、陰気な歓迎の調子をくりかえし、彼を高揚させていた。それぞれに、屈強そうな入会希望者が玄関に入り、そして、その僧侶の指示に従って、傘立ての脇に積まれた白い深編笠をかぶった。そこで、僧侶は彼を背後の部屋――骨まで氷りそうな部屋――の暗がりへと案内し、全員がそろうまでそこで瞑想しているようにと告げた。
 12人の男が、その奥の間での暗闇の黙考をするためにそろった時、その僧侶が自分の蝋燭を手に彼らに加わった。仏経典の中から法華経を唱え、そして、教化のための説教を厳粛に伝授しはじめた。彼はその12人にこう告げた。使命を果たす時がやってきた。今より任務が割り振られるまで、不可欠なみそぎの儀式をつとめながら、全員がここで彼と共に過ごす。そして、各々が自らのあらゆる不浄と我執を克服した時、最後の浄血――極楽への昇天をもたらす 「一人一殺」 ――をなす準備が完了することとなる。そうしたその僧侶の説話が終わると、その新兵たちは、自分の短刀で自らの指を切り、その僧侶が 「血の盟約」 と呼ぶ巻紙に、新たに自分の署名を行った。そうして、彼は各々に、その後をその空家ですごす、小部屋とわら布団をを与えた。
 その空家の家主と同じく、その僧侶――教導師井上――も、かつては、中国でスパイ活動を行っていた機関の一員だった。1920年、彼は親しい友人や以前の同僚の南進論者の大川博士や北進論者の北一輝とともに帰国した。大川と北が仲たがいすると、教導師井上は、自分の忠誠心も引き裂かれたかに感じた。そうして彼は、大洗のスパイ教育センター近くの太平洋岸の奇怪な岩山にある隠者の洞窟に引きこもって瞑想にふけった。後に執筆した自伝にあるように、断食中のある日、彼は恍惚状態におちいり、日本がアメリカを征服した情景を幻視した。その情景が、彼を大川博士と南進論の星のもとに従うせる契機となった。彼は山からもどり、自らの名前を、井上昭(あきら)、つまり光り輝くから、井上日召、つまり日の神(天照大神)に召されるもの、と改めた。この新たな名とともに、攻撃的な日蓮宗の僧侶の身分を自任することにしたのであった。
 1920年代の末、スパイ教育者、老蜘蛛の田中の援助のもと、井上は大洗の常陽明治記念館に近接する廃寺に 「立正護国堂」
〔現在の東光山護国寺〕 を開いた。そこで彼は、大洗の初級スパイ学校、柴山塾の優秀な卒業生に、上級の諜報教育を施したのであった。(84)
 今、その空家の中で、教導師井上は、以前の門弟たちのうちでも、最も献身的な者たちを迎えていた。数週間のうちに、その誰もが、井上の説く、裕仁の一生をかけた使命の遂行を妨げる者――犠牲となるにふさわしい 「金権階級」の産業人や政治家――を暗殺する準備を完了しようとしていた。
 埃をかぶった鏡の前で、井上はその頭巾つきの法衣をとった。剃った頭といかめしい丸い顔がそこにあった。二つの律儀実直な眼が、完璧に丸い眼鏡を通して凝視していた。井上は自分の蝋燭の火を吹き消し、その夜はそこで床についた。入会の儀式はそうして終った。舞台効果を利用するとの考えは、西洋の降霊術から借りてきたもので、アフリカのブードゥー教はその一例だった。彼の場合、天皇の伯父の東久邇親王に大きく因っていた。井上は、まもなく、眠りに付いた。
 それからの二ヶ月間、井上の血盟団員は、日本の社会の西欧化したビジネスマンや政治家に、テロ行為をあびせていった。暗殺や暗殺の恐怖は、日本の自由主義者たちを、国際連盟の調査団と率直に意見を交換することを妨げ、また、だましの戦争や満州の新植民地の開発に資金協力する圧力ともなった。血盟団の使命が完遂されるまで、団員は警察による逮捕からは不思議とのがれており、そうした見逃しは、影響力ある人物の後ろ盾がゆえにこそ可能であった。井上は、大兄の近衛親王や東久邇親王と懇意な間柄にあった(85)。井上は、大川博士から命令を受けており、大川は、その命令を天皇の主席民間人顧問、牧野内大臣より宮廷において直接に〔受け取り〕、特別の仲介者をへて井上に伝えていた。加えて、井上は、霞ヶ浦の航空隊基地の海軍飛行士たちの支援も受けていた。そうした飛行士たちは彼に、拳銃や武器を提供し、また、その空家に近い場所に、クーデタ計画の司令部を設置してやっていた。こうした密接な協力関係は、井上の兄である井上二三雄が海軍中佐であり、そうした飛行士たちがみな彼の教え子であったことを考えれば、驚くべきことでは何らない。井上中佐は、霞ヶ浦の主任飛行教官だった。皇室のテストパイロットの山階親王や真珠湾攻撃の山本大佐に操縦を教えたのも彼だった。


戦争挑発

 1932年1月10日、空家での入会式の翌日、東京滞在中の関東軍政治担当将校の板垣大佐は、だましの戦争のための連携準備を終了させた。東京のホテルから、以下のような電報を上海特務機関所長の田中――東洋の宝石の愛人――に送った。
 次の朝、板垣は宮廷に参じ、裕仁に、満州国 「建国に関する進展状況」 についての詳細な報告をした(87)。その後、控えの間においてその謁見の梗概を受け取った大兄木戸侯爵によると、板垣は裕仁に、新傀儡国家は見かけの独立と自治を維持すると説明した。日本人 「顧問」 がその国を実際に動かすが、彼らは満州国の国籍が与えられ、満州国民と称せられるが、同時に、彼らは日本の国籍も持ち、東京からの命令に服する、と彼は述べた。裕仁はその説明に、そうした二重国籍に前例はあるのかと問い、板垣は数例を挙げた。話題がここに達すると、その謁見の前半に立ち会っていた侍従長は急いで席を外した。天皇の個人的な質問を聞いてはならないということは宮廷の定まりであった。その結果、天皇と板垣との間のその後の遣り取りは、完璧な秘密のうちに行われた。
 東京からの板垣大佐の電報を受け取り、上海特務機関の田中少佐は、東洋の宝石に機関の資金を六千ドル
〔当時の価値で1万6千円、今日の価値では約3千3百万円〕前払いした。男装の彼女はそのうちの半分を、自らの裁量で、日本人の所有する三友バスタオル製造所〔三友実業〕の幾人かの労働者に分配した。その工場の経営者は、現地の日本人社会では、彼が社会主義的傾向があるとして、不評判な男であった。東洋の宝石の言うところでは、もう半分の金を、街のやくざ者の一人に、その工場のタオル職工たちを動かすということで与えたとのことであった。(88)
 1月18日の午後、日蓮宗の僧侶二人と妙法寺
〔日蓮宗の本山〕の門徒三人が、その攻撃的な習慣そのものに、団扇太鼓を打ち鳴らし、お経を唱えながら、タオル工場に近いインシャン河にそって闊歩してきた。後の田中による説明によれば、ほとんどの妙法寺の信者は 「朝鮮人のみ」 だったので、田中は彼らを犠牲者に選んだということだった。その5人の僧と信者は、中国人職工――東洋の宝石の出費に見合うだけのやくざ者たちも加わって――に攻撃され、徹底的に打ちのめされた。そのうちの一人は、1月24日に死んだが、その死の前の19日、最初の小ぜり合いのほんの10時間後、重藤#2 という憲兵に率いられた32人の日本青年一志会の団員が、そのタオル工場に未明時の反撃をしかけ、その建屋を焼き払ってしまっていた。その火災の際、中国人警官が現場にかけつけていたが、うち2名が殺され、2名が負傷していた。また襲った一志会の側では、1名が死に、2名が傷を負った。
 その同じ朝が明けたあと、上海在住の日本人たちは集会を開き、田中少佐の勧めに従い、自分たちを守るための部隊派遣を東京政府に要請することを決定した。田中と憲兵の重藤は、その要請を三井財閥の現地代表者のところへ持参し、それを東京の本社へと打電するよう、拳銃をつきつけて強要した。東京の三井本社の管理者は、その要請を求められたようには首相に提出しなかった。しかし、後日、その電報は、特務集団によって、だましの戦争が三井の利益を守るために始められた証拠として、三井が財政負担を担うための方便に利用される。(89)
 上海市長の呉鉄城
〔フゥ・ティエチン〕は直ちに、日本〔の企業〕に雇用されていた中国人工員の乱暴について、中国に代わって謝罪を表した。1月21日、市長は、関わった職工の逮捕と処罰、ならびに、口やかましい日蓮宗僧侶の親族への治療費と慰謝料の支払いについて約束した。日本人は市長に、反日感情を持つ上海の中国市民にそれを止めさせるよう、要求した。彼はそのために全力を尽くすとは約束したが、庶民の私的感情は自分の関知のおよばぬことと、丁重にではありながら指摘もした。上海の日本総領事はそれに返答して、「こうした忍従が拒否される事態にあって、我々は必要とされる措置をとることを決定した」 と表明した。その翌日、上海在住日本人の若い暴漢や子供たちは、中国人のそれぞれの相手に喧嘩をしかけようと街へ繰り出した。かくして、巧妙に組み上げられてきた緊張は、時間とともに激化していった。(90)


内政での制約

 その日、東京では、犬飼首相が三井財閥の最高首脳、団琢磨男爵に、三井の利益を守るため、軍隊を上海に派遣する費用として、政府に2千2百万円――8百万ドル〔現在価値で約2百億円〕――を寄付するように求めた(91)。団は、三井はそうした保護は必要としておらず、そのような巨額出費の余裕はなく、強制であるのなら話は別である、と抵抗した。それに犬養首相は、自分が日本を金本位制から離脱させた際、三井は少なくとも2千万ドルは儲けているはずで、持ちつ持たれつとなるものである、と釘を刺した。もし三井がその支払いをするならば、犬飼は蒋介石との取り決めをし、それにより満州問題は解決し、日本の立憲政府体制も維持されるはずであった。
 犬飼は自分の目算を告げはしなかったが、団はおそらくそれをすでに承知していたろう。犬養は満州を、日本からも中国からも独立した国として設立しようと望んでいた(92)。上海の犬養の代表と蒋介石との対話とは、蒋がそうした国を認め、その見返りに、日本は上海の中国第19路軍――国民党の広東派の軍隊で蒋介石の独裁に対抗していた――を壊滅しようと交渉していたことを示していた。いったん蒋介石が満州の独立を認めれば、国際連盟が日本を非難する理由はなくなる。国際的調和と日本の産業界の国内協力関係のためなら、裕仁は、そうした妥協を受け入れようとしたかもしれない(93)。〔その場合〕彼がなすべきことは、ただ、関東軍を南満州鉄道地域の駐屯地に撤退することを命じることで、それで他のすべての問題は片付いたであろう。しかし、裕仁に計画を再考させるよう説得するためには、財閥側の誠意の証拠が緊急に必要となっていた。
 団男爵は、犬飼の案を考慮してみるとは約束したが、三井家や他の財閥の経営者をこの案を支持するよう説得することに望みはなかった。彼は、自らの計画を変更するには裕仁がすでに軍事帝国建設に余りに深く関与しており、また、西園寺の自由主義派と宮廷の皇室派の間の確執が、むしろ、土壇場の対決抜きには解消できないほどに深刻化していることを懸念していた(94)
 1932年1月21日の午後、裕仁は、2月20日の総選挙をひかえ、国会を閉会した。その暫定期間、彼は国会が持つ権利を私する憲法上の権利――過去の会期では予想されなかった追加予算の承認――を持っていた。
 その夜、裕仁の主席民間人顧問の牧野内大臣は、スパイ秘書の原田を通じて西園寺に、みせかけの戦争支持への財閥の引き続く拒否は、2月10日かその頃の新たな宮廷主導クーデタをひきおこす、と警告を与えた。その彼の意味することは、やがて明らかとされるように、井上の率いる血盟団がその最初の生贄を暗殺して犠牲者を生むことだった。(95)


交戦開始(96)

 上海は、欧米諸国が、国際連盟の顔を立てるための日本の努力に感謝する格好な舞台都市だった。そこには、欧米諸国の最大の租界や中央中国における主要な欧米ビジネスの拠点が集まっていた。そこに彼らは、10億ドル〔現在価値で約5兆円〕以上を投資していた。日本はまたそこに、第一線の部隊、2千人の海軍陸戦隊を駐留させていた。
 1932年1月23日、増援部隊を満載した日本の巡洋艦1隻と駆逐艦4隻が、揚子江河口に錨を下ろし、それに続いて、翌日そして翌々日と、二隻の航空母艦がそれぞれ投錨した。1月24日、日曜日、中国人市民は集会を開き、南京政府に軍事的増強を求めた。しかし、蒋介石は、自分の別荘にひっこんだままで、他の国民党指導者たちも上海の防衛を、孫文の息子、孫科――上海にあって、日本と交渉したり、東洋の宝石と寝たりしていた――の第19路軍に任せていた。その夜、東洋の宝石が雇った一群が、フランス租界の日本領事館に放火しようとしたが、不成功どころか、なきも同然なものだった。
 1月26日、火曜日、一発の発砲もなされる前、裕仁の最高軍事会議――参謀総長の閑院親王が主宰――は、上海の塩沢提督に 「自衛権を行使せよ」 と指令した。その午後、呉上海市長は 『民国日報』 ――裕仁の朝鮮人暗殺未遂犯の外れた狙いを幸運として日本を怒らせた――を閉鎖させた。1月27日、水曜日、上海市長は、すべての反日組織やデモを解体させるよう警察に命じた。翌木曜日――当時の公式な日本の見解では 「8時ごろ」 ――、 「反日救国会の者と思われる一人の中国人」 が日本領事館に 「不発であったものの、爆弾と思われるもの」 を投げ入れた。東洋の宝石が、最後の愛国的一助を実行したものであった。
 午後3時15分、呉市長は塩沢提督に、中国自治体政府はあらゆる日本の要求も受け入れると通知した。それでもなお、午後4時、国際居留地の非中国自治評議会は、日本の圧力のもとで、租界全域に戒厳令を宣告し、英国、フランス、そして日本の守備隊がそれぞれの分担地域を予想される中国人暴徒による攻撃から守るために配置された。(97)
 午後5時、 『ニューヨークタイムス』 の特派員、ハレット・エイベントは、港の日本軍旗艦に塩沢提督を訪ね、カクテルを飲み交わした。二杯のスコッチ・アンド・ソーダを飲んだ後、塩沢はエイベントに、呉市長のすべての日本の要求の受け入れは、 「重要なものではない」 と語った。
  「今夜11時、私は陸戦隊を日本居留民を保護し秩序を維持するためにチャペイに動員するつもりでいる」
(98) と塩沢は続けた。チャペイは、中国人上海の中心的地区であり、国際居留地の日本人租界の北側に位置していた。チャペイに住んでいたり保護を必要とする日本人は、すでに二日前、避難し終わっていた。
 エイベントは、丁重にではありながら、出来るだけ速やかに提督のもとを辞し、そのニュースをニューヨークに打電した。そして彼は、上海のすべての欧米の知人外交官に電話を入れた。だがその誰もが、彼の話を取り上げなかった。しかし、塩沢提督は、自分の言葉に忠実な人物であった。その夜の11時を回ると、彼は呉市長に自分の意図を表す文書を送り、12時前には、彼の陸戦隊員は、日本の保護地区の北側境界を越え、中国人チャイペイの暗い街路を北へ向けて動いた。その陸戦隊の背後の境界では、守備隊が有刺鉄線を張り、防護線を築いた。何事が生じているのかと、晩餐や劇場パーティーを終え、イブニングドレス姿で街にやってきた欧米人たちは、煙草をふかし、冗談を言い合いながらたたずんでいた。日本の勝利よりいっそう悪いのは中国の勝利だろう、と機知者たちは語っていた。
 偵察隊が去って一時間半ほど経過した時、激しい銃撃戦が始まった。日本の陸戦隊は、たいした反撃はないだろうとの報告しか受けていなかった。彼らは、あたかもピクニックにでも行くように、歓談しつつ、行く先を燃えるたいまつで照らしながら進軍していた。そうした彼らの進行は、強力な待ち伏せの中に入っていた。境界線と彼らが向かっていた北駅との中間地点で、壁や二階の窓に、突然に、第19路軍第78師団のライフルと機関銃兵が出現した。陸戦隊は十字砲火をあび、体勢を立て直し撤退を始めるまでに、数百人がなぎ倒された。
 その夜が明ける頃、港内の日本軍艦上のあらゆる出動可能な兵員に銃が与えられ、上陸後は駆け足で戦闘に加わった。そうした反撃にもかかわらず、中国の第19路軍は前進した。1月29日、金曜日の太陽が上がるまでに、中国軍は日本租界の防衛線を脅かすまでになっていた。窮地に立った塩沢提督は、二隻の航空母艦の航空機に出動の命令を下した。午前7時までに、日本の航空機は前進する中国兵士に機銃掃射を加え、民間人口の密集するチャペイ全域に、小型30ポンド
〔13.5kg〕殺傷爆弾を投下した。その標的のひとつは、中国のあらゆる教本を製造している商務印刷所であった。それは、極めて貴重な古い中国の巻物や写本を所蔵していた。印刷所は〔爆撃によって〕、ただの骨組みだけとされてしまった。日本人はあからさまにも、反日宣伝文書はそこで印刷されていたと説明した(99)
 それまで、世界は航空機による市民への大規模な爆撃の結果を目撃したことはなかった。第一次世界大戦の末期、ドイツ軍の飛行船からダイナマイトがロンドンの数件の家屋に落とされ、穴を開けたことはあったが、死傷者数は取るに足らないほどだった。だが今回のチャペイでは、その後の広島の恐怖を連想させるものだった。何百人もの女性や子供が吹き飛ばされ肉片と化した。塩沢提督は、西洋社会では 「赤んぼう殺し」 として知られることとなった。
 その日の朝、爆撃が展開されている時、第19路軍の司令官、蔡廷鍇
〔ツァイ・テンカイ〕は、彼の政治的指導者――ことに、戦場から逃れて東洋の宝石のアパートに居た孫文の息子の孫科――への無念をあらわにして、第19路軍は、 「たとえ黄浦河を兵士の血で真っ赤に染めようとも、日本軍とは最後の一兵まで戦う」 と宣言した。その日の午後、蒋介石は、第19路軍が一掃されるどころか、英雄にすらなりつつあることに気が付き、南京に急遽舞い戻り、国民党に 「重大時期」 にあたっての指令を与えた。国民党の広東派は彼のライバルになるかも知れなかったが、彼らは中国人であり、彼らが国のために犠牲となっている時、彼らと敵対している余裕はなかった。
 日本の利益のためには、蒋は、南京の犬飼首相の使者――萱野長知――と秘密裏に交渉を続けた。他方、中国の利益のためには、自分の 「親衛師団」 に行動を起こす準備をするよう命令を出したと公式に発表した。しかし、三週間後になっても、蒋の軍隊の一人たりとも戦場には姿を見せなかった。さらに、蒋の小規模な海軍は中立を宣言し、揚子江の上流の安全地域から動こうとはしなかった。また同海軍は、神戸の造船所に一隻の新艦を注文していた。その艦は、戦争がまだ進行中に進水し、東京の中国人大臣がその就役式典に臨んでいた。彼は列席していた日本の海軍将校たちと乾杯し、日中友好と親善の意志を交換した(100)
 後年、勇敢な第19路軍は、蒋の公然たる敵、毛沢東の共産軍に転向することとなる。だが1932年の段階では、その将校たちは、ただ理想を追う農業主義改革家にすぎなかった。彼らは、国民党の社会主義的な広東派に仕えていた。それは、その派が、蒋介石のまわりの銀行家より中国貧農の利害に合っていると信じていたからだった。そうした彼らの政治的純朴さがゆえ、彼らは蒋が与えた援助の約束に引き付けられていた。日本の陸戦隊を驚かせたように、彼らはチャペイの廃墟に塹壕を掘り、降りそそぐ爆弾や砲弾をものともせず、彼らの地盤を確保していた。日本人
〔中国人の誤りか〕の現地民間予備兵――東京では 「便衣隊」(101) として知られていた――は、前線で陸戦隊によってこうむらされた損害に対し、その背後で報復行動を繰り広げていた。彼らはチャペイの町外れの中国人商店を襲い、略奪し、強姦し、首をはねた。陸戦隊の後衛を確保する海軍の甲板員は、日本人の自警団が殺した中国人の死体を捨てる仕事に日々をついやしていた。
 上海地域では、日本兵の当初数えられた5,000人以下に対し、すべて合わせて、33,500人の中国兵が配置されていた。国際居留区とフランス租界での外国兵は、合わせて18,000人で、彼らの優れた武装と訓練をもって、第19路軍に対する彼らの権益を全面的に防衛していた。しかし、日本海軍は欧米の支持を取り付けるために派遣されていたのではなかった。それに代わって、日本軍は、シナ海の動かしうるすべての艦船の乗組員を総動員して、最後には、最大の恥である陸軍の支援を受けてまでして、自らの懸命な防衛戦を戦っていた。日本帝国海軍陸戦隊は、我を忘れるほどの戦意を奮い起こすまでもしても、自らの栄光を回復せねばならなかった。
 東京においては、裕仁は、彼の勇士たちの傷ついた名誉が、統制下にある 「事変」 を日本の能力にあまる敗走戦に変えてしまうことを心底恐れていた(102)。増援部隊は、上陸した時、ゆとりをもって前進せねばならず、面子をかけた対決は避け、彼の撤退命令にいつでも従えるような体勢が確保されているかどうかと、繰り返し問い求めていた。彼の戦術的および財政的詳細への専心は日増しに手の込んだものとなり、11人の選良の大兄木戸侯爵も、彼にほどんど危機を見、彼の理屈をこねた不安を拭い去りたいとも、あるいは、 「山のようにどっしりとして欲しい」 とも言いたい気持ちを表したくなっていた(103)。裕仁の神経症は、そうと解った時、彼はすでに、不必要で危険なゲームに挑んでいた。
 制御不能の戦端拡大の事態に備えて、裕仁は、自分の妻の甥である伏見親王を海軍参謀総長に選任した
#3 (104)。通常の法的慣行に違反していながら、老いた首相奏薦者、西園寺にはこの指名が事前に相談されず、事後に、既成事実としてただ知らされたのみだった。今や、二親王は、陸海両軍の作戦責任を担い、かつ、全階級の勇士たちの恭順と絶対的服従が期待されていた。
 宮内省は、伏見親王の任命は、上海での戦争とは無関係との異例な発表を行った。しかし、国民は事態を察していた。たとえ親王であろうとも、裕仁の上海事変に名誉ある結論を導こうとする積もりでない限り、その実権を握りえなかった。裕福で、国際感覚にあふれ、教育を受けた日本人で、満州のために世界を欺き、あるいは、海外の友人を疎遠とする危険を試みるべきではないと感じる者は、その任命を、裕仁と対決せねばならない事態の明瞭な警告であると受け止めていた。
 こうした状況において、三段階の陰謀の第3弾、すなわち、クーデタの脅迫が動きはじめる。その脅迫は、何ら欧米社会に向けられたものでなく、公式の日本政府は無力化し転覆の恐れがあると同情的西洋人を説得するためのものでもなかった。だが、今やその脅迫は、宮廷の政策に反対する内敵に向けられ、今やそれは、国内の異論者に、協力かさもなくば暗殺されるかの、耐え難い決断を強いようとしていた。
 

 つづき
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