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第十五章
     暗殺による統治(1932年)
(その1)


殺し屋の跳梁
(1)

 1932年1月30日土曜日、上海ではすでに24時間以上にわたって爆弾が炸裂し続けていたが、三井やその他の財閥系銀行は、その作戦をまかなう費用を政府に払うことを、了承もしなければ、それを貸し出すとも決めていなかった#1。金自体が重要なのは当然だったが、それが融通可能に見せかけることは、それにも増して重要だった。それを留保しておくことで、日本の産業・金融界は、宮廷の計画に対して不同意であることを示し続けられた。事実、それまでにも商人階級は、日本民族の特異性や天照大神以来の伝承を受け継いできたわけではなかった。
 その土曜の夜、血盟団の指導者井上は、産業・金融界を脅かす暗殺を執行する者たちに、みそぎの儀式を行っていた。若き暗殺者たちは、一人ひとり、その空家の “骨まで氷りそうな部屋” に入り、奉納のお経を伴奏に、大川博士と霞ヶ浦の井上二三雄中佐の海軍グループから提供された拳銃10丁が、短い間ながら、一つひとつ扱ってみることが許された。その武器とその威力に感謝をささげ、教導師井上はその拳銃を後の使用にそなえ、収容箱に戻した。
 井上は、紙の上に、11人の暗殺執行者と、特定された11人の犠牲者と、その特定の時間と場所を示した。しかし後での実行の際には、彼は、殺される犠牲者は結局2人にしかならないよう、その計画を手直ししたり、延期したりした。ある場合では、彼は暗殺者に予定通りに拳銃を渡すことに失敗したり、狙いの相手なぞ現れない場所を落合い地点として、暗殺者を送ったりした。

 そんな状態でも、わずか二人の殺害によって、大きな恐怖を作り出すことに成功し、財閥や政友会の多くの首脳たちは、符丁を合わせたかのごとく助命された。その典型が、殺しの対象から外された、内大臣の牧野だった。彼の担当に割り当てられたのは、東京大学卒のインテリで、血盟団と牧野の手下、大川博士との間の使いを果たしていた。



執行猶予

 1932年2月の最初の週は、上海戦争勃発の一色に染まった。休む暇もない霞ヶ浦の飛行士たちは、血盟団に軍事的支援を与える一方、前線での空爆と偵察の任務についており、一時的ではありながら、他の世界とは別の存在のようになっていた。2月1日月曜日、彼らの正確な爆撃によって、中国人の建造物が、欧米人所有の波止場や倉庫に近接しながら、瓦礫の山と変貌させられている一方、日本の外務大臣は欧米の東京駐留外交官に、日中間の 「誤解」 の間に立って仲介をするように持ちかけた(2)。そしてその夕、米、仏、英の大使はこの要請に、非公式ながら前向きな反応をしめした。
 翌日2月2日火曜日の午後、牧野内大臣は犬養首相に、 「満州問題の解決は予想外に良好に進展しており、米、英の理解ある姿勢がゆえ、結果はほとんど完璧となりましょう」 と告げた(3)。つまり上海事変については、結局のところ、最後まで遂行する必要はないのかも知れなかった。
 牧野は、 「むろん、打つべき手は打つべきで、無用な拡大を避けるため、他国とは可能な限り、協力し合わない訳には行きますまい」 と述べた。 
 犬飼首相は、上海に陸軍の正規部隊を送ることを認めた閣僚会議を終わらせて、戻ったばかりの時だった。それから数時間、彼は、不必要かもしれない戦争を認めてしまった居所の悪さを噛みしめていた。しかしその夕、米国務省のスティムソンは上海のいかなる居留地において何らの協力も行わなず、それには、満州の居留地のための事項も含む、と表明する事態となった(4)。天皇も陸軍も、そうした条件を受け入れるつもりはなかったが、その後3日間、日米間での交渉が続いている間、そのみせかせの戦争は停止された。
 その間の2月4日木曜日、陸軍大臣は、なぜこの戦争は一時的なみせかけで長引いてはならないかとの理由について、大蔵大臣からの慎重な報告を受けた(5)。日本は全面的な戦争をする余裕はなく、しかも、6ヶ月以内でけりをつけ、かつ、3千万ドル
〔8,100万円、現在価値で約1,600億円〕の予算内で遂行する必要がある、というものだった。さらに蔵相は、陸軍はいかなる時も、休戦協定に従うよう、規律と準備を整えていなければならない、と念を押した。つまりは、南京へと戦線を拡大して蒋介石に教えを下そう、との陸軍の目論みはあり得ないということだった。
  「我々は、外国資本による財政的支援を期待する裏付けとなる大義名文を、ことごとく欠いておるのです」、と蔵相は言った。そして彼は荒木陸相にいくつかの電報を見せた。それらはこう告げていた。二ユーヨークにおける日本の信用は地に落ちた。先にフーバー大統領はトーマス・W・ラモン財務官に書簡を書き、米国政府はもはや 「日本政府への信頼を全面的に失った」 と告げた。


銀行家殺害

 非公式に行われた2月5日までの秘密交渉で、米国は満州と上海の両居留区の同等な扱いを変更するいかなる意志もないことを明瞭にした。また財閥は、強固な欧米の反対姿勢が見込めるだけに、上海事変への資金援助はしえなかった。その結果、裕仁は犬養首相に、欧米の仲介行動は不十分であるとして拒否するよう命じ、すべての陰謀計画の実行に青信号がともされた(6)
 2月6日土曜日の朝、教導師井上は、その空家に、霞ヶ浦の下士官、伊藤清美少尉の訪問を受けた(7)。その時伊藤は、彼の中隊長で、その前日にチャペイ偵察の際に撃ち落されて死んだ藤井斉少佐のものである、一丁のブロウニング自動拳銃を持参していた。藤井少佐は、教導師井上の兄である飛行教官の愛弟子で、その一週間前にその空家の近所に設置された、飛行士によるクーデタ本部の司令官であった(8)。伊藤は、そのブロウニング自動拳銃は、自らその聖なるクーデタを導けず悔いを持って戦死した藤井少佐の魂で輝いている、と言った。井上はその拳銃を受け取り、いつの日か、その亡き所有者の霊魂を満たせるように使用することを誓った。その夜、それにふさわしい儀式と奉納の後、そのブロウニング自動拳銃と銃弾46発は、井上の最も優秀な暗殺者の一人――小沼正という青年――に引渡された。
 小沼に割り当てられた犠牲者は、前大蔵大臣の井上準之助だった。彼には、暗殺の対象とされる幾つかの理由があった。彼は、ドル買いの準備として、三井財閥との間でそれに先立つ工作を行っていた。彼はまた、そのドル買いの構想が宮廷から出たものであることを知る、日本で数少ない者の内の一人だった。さらに彼は、その後、ふさわしい割合でその利益を国に払い戻すよう財閥に強いる要請に協力しなかった。そして最後に、強情な一部のビジネス界に見せしめとして、誰かが暗殺されなければならなかった。暗殺者小沼は、自分のブロウニングの使い方を二日間にわたって訓練し、最後の命令の下るのを待っていた。
 2月7日、日曜日、日本陸軍は、戦闘を続けている海軍を支援するため、一万人の混成旅団を上海に上陸させた(9)。翌、8日、月曜日、裕仁は、そのだましの戦争が目的を果たすと即座に停戦できる用意を交渉するため、上海に向かう日本の特使に直接の指示を与えた(10)。その交渉役となったのは、後に、ヒットラーやムッソリーニとの大々的な親交で有名となる、オレゴン大学卒の松岡洋右であった。1925年以来、彼は、外務省内の特務集団の若手メンバーの一人だった。静かな月曜日の朝における彼の天皇との会見は、 「非現代史についての宮廷内授業の講義」 と偽って行われた(11)。だがその最後で、裕仁は松岡に、現代の出来事についての幾つかの質問をした。
 松岡は、だましの戦争は、上海の日本軍が攻勢に出て決定的勝利を得るまで停止されてはならない、との自分の見解を具申した(12)。さらに、中国は日本の怠け者な兄で、一家の名誉に危機が訪れている際には、勤勉な弟は兄を懲らしめる義務がある、と彼は述べた。生物学者である裕仁の関心を引くために彼は、競争は近い関係にあるものほど常に最も熾烈であると、 「ダーウィンの説」 を引用した。裕仁はうなづいたが、その謁見の内容を聞いた西園寺は、上海の海軍と陸軍の司令官は、 「自己矛盾に陥りやすい」 松岡の性癖について警告されているのか、と問うた(13)
 だましの戦争は派手に遂行され、財閥はみごとな獲物への支払いをさせられるべきだとの松岡の助言に続いて、翌2月9日、火曜日の午後、裕仁は、自分の図書館での勉強に、もっとも “異例” な講師を招いた。それは、退役した坂西利八郎中将だった(14)。坂西は長い間、中国での日本の諜報網を動かしてきており、血盟団の指導者、教導師井上の直属の上司だった。日本の民間スパイ機関の隠れた指導職にあって、坂西はいま、大洗の常陽明治記念館の蜘蛛の田中の、おそらく誰も知らない、補佐する位置にいた(15)
 退役将官の坂西は、火曜日の午後2時、裕仁と会談を終わらせて姿を見せた(16)。その2時間後、血盟団の暗殺者、小沼は、計画通りに進行せよとの伝言を持った、教導者井上よりの使者を向かえた(17)。午後7時、小沼は東京帝国大学から数区画離れた角で路面電車から降りた。彼は、その夜、前蔵相の井上準之助が選挙演説をする予定の、駒込小学校の門前で、見張りをしながら、ぶらぶらと時間を過ごしていた。小沼がそこで行ったり来たりし、また、数え切れない煙草を吸ったりもしていたが、通行人は彼に特に何の注意も払わなかった。22歳で、茨城県の漁師の5番面の息子である彼は、中学校時代はクラスで一番の成績を修め、後、銀行の手伝いや大工の見習いをしてきていた。彼は一見、女友達か、何か重要な試験の結果を待っているような、余裕のない貧乏大学生のようだった(18)
 午後8時2分、前蔵相の車が歩道脇に停車した。彼が応援演説するその立候補者は、車から降りて歓迎する群衆におじぎをした。66歳の財務家はそれに続き、5、6歩前に進み、群集にすこし頭を向けた。その時、血盟団の小沼が聴衆の列から飛び出し、そしてその老人の背に、3発を発射した。一発の弾丸は彼の左臀部に、一発は右肺に食い込み、他の一発は彼の背骨を砕いた。前大蔵大臣、井上準之助は、ほどんど即死状態だった。暗殺者小沼は警察署に連行され、そこで彼は、数ヶ月後に法廷に健康そのものの姿で現れたように、異例に手厚い扱いを受けた。(19)


自由の身の殺し屋

 井上が殺されたその日、血盟団の同名の教導師、井上は、彼の活動拠点を、その空家から天行会道場――黒龍会の頭山満の自宅の隣にある同会の学生宿泊所――へと移した(20)。その宿泊所は、頭山の息子、秀三と、頭山の秘書で、もう一人の元中国スパイ、本間憲一郎によって維持されていた。1930年まで、本間は大洗で教導師井上と仲間同士で、そこで、スパイの初級学校である柴山塾#2を運営していた(21)
 その新本部で、教導師井上は自らの任務を、あたかも何ごともなかったかのように、今まで通りに進め、恐怖を拡大する運動を続けていた(22)。この天行会道場と、近くの霞ヶ浦基地飛行士のクーデタ本部との間は、毎日、使いが行き来していた。血盟団の誓い合った暗殺者たちは、近くの民家に下宿し、連絡を取り合っていた。警察と憲兵は血盟団と霞ヶ浦飛行士についての調査書類を作成していた。そうした書類は警察首脳や憲兵総司令官に上げられ、そして、宮廷で慎重な吟味がなされた後、参考資料としてファイルされた。
 それ以上の殺人を防止する何らの対策もとられなかったにも関わらず、潜在する危険についての宣伝には全力があげられた。暗殺の日の2月10日水曜、皇室の有馬伯爵は、高級料亭、桑名で、大兄の木戸およびスパイ秘書の原田と昼食を伴にした(23)。有馬伯爵は、クーデタは差し迫っており、天皇に雇われた殺し屋の親分として、ある南進論者の金満家
#3が三月事件の徳川男爵の役と置き換わったとのうわさを広めてはどうかと木戸と原田に持ちかけた。
 同じ日、上海の中国第19路軍の背後を粉砕する 「戦力集中」 ため、全面的な陸海両軍の協力を誓う海軍元帥と陸軍元帥との会議が持たれた(25)。2月14日から16日にかけて、二万人の海軍新部隊が上海に上陸した。合同参謀の閑院親王と伏見親王は、陸海それぞれ一万人づつの既存兵力に加えられるこうした増強部隊が第19路軍を退却させることが出来ることを期待していた。(26)


 つづき
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