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第十五章
     暗殺による統治(1932年)
(その3)


上海での勝利
(45)

 その〔2月28日の〕夜遅く、海に向かって大きく口を開けた、中国、揚子江の泥色の河口で、日本軍の一個師団およそ2万名が、上陸用舟艇より次々と浅瀬を歩いて静かに上陸していた。彼らもまた、翌朝、国際連盟の調査団が東京に到着するため、その圧力下にさらされていた。それまでの二週間、数量的には同等、武装的には優勢な日本軍にも拘わらず#5、中国第19路軍の若くて勇敢な地元兵は、上海の自国領から追い払われまいと抵抗していた。彼らは、チャペイの自治区を守るため、街路ごと、廃墟ごとで戦い、いまもまだ、二地区の自治区の大半を占領していた。日本軍の侵攻は9日前に開始されたが、反攻によって度々押し戻され、ほんのわずかの確保を獲得しているのみであった。裕仁自身、上海の司令官を批判し、いま、彼をすげ換えたところだった。
 兵士までに加わっていた圧力は、2月22日、三人の兵士に、行く手を阻む鉄条網に対し、ダイナマイトの筒を肩に自殺攻撃を仕掛けさせた。彼らは、自身とともにその鉄条網を爆破し、今や彼らは、日本の新聞により 「爆弾三勇士」 とたたえられていた(46)。その三人の犠牲に責任を感じていた一人の日本軍少佐は、中国軍の反撃の際に捕虜となった。数日後、日本軍によって解放された時、彼はその激戦の場に行き、膝まづいて、自分の頭を撃ち抜いて自害した(47)
 連盟の調査団の到着の前夜、日本の第14師団は、上海下町のバリケードに2万人の部隊を増強したばかりであり、第11師団は夜陰にまぎれて上流の泥の川原を中国軍の側面へと向かっていた。朝までに、およそ7万の日本部隊は、2万少々の第19路軍の生き残り部隊へと、三方から迫っていた
#6
 中国第19路軍の背後へと、第11師団の早朝の上陸は、その蔡延楷将軍にとってはまったくの不意打ちだった。彼は、沿岸のその部分の見張りを、わずか百名の兵と3機の機関銃に任せていたのみだった。日本軍は、日本の女スパイ、東洋の宝石による策略を見抜けない将軍の甘さを知っていた。戦闘の最初の数日、東洋の宝石は、自宅周囲の街路を復讐心に燃える日本の自警団が見回っている中、孫文の息子を彼女のアパートにかくまい、第19路軍のすべての最重要将校に宛てた紹介状を書かせていた。その代わり、彼女は国籍不明の沿岸貨物船に彼を乗せ、南中国、広東の彼の拠点へと無事に逃がしてやった。(49)
 彼女の本命の愛人、上海特務機関の田中少佐は、今度は彼女を霞ヶ浦航空基地の海軍飛行士――中国軍前線の空からの偵察を行っていた――との連絡に当たらせた。彼らは彼女を副操縦士として幾つかの任務飛行に同乗させ、中国の都市と19路軍の司令部地の地形について、完璧な知識をあたえた。そのうちの一人は、後に、彼女は飛行中に彼に迫り、彼を困らせた問題の副操縦士だったと苦情を述べた。
 孫文の息子の紹介状が充分効力を発揮して、東洋の宝石は、2月末のある夜、得意の男装を身につけて、第19路軍司令官の蔡延楷に会おうと自宅を出た。前もって手配されていた歩哨は彼女に何を問うことも無く自由に前線を通過させ、彼女の後を追って彼らは銃を空へと撃った。上手な広東語なまりで彼女が口にする、助けを呼ぶ哀れな声を聞いて、19路軍の歩哨は彼女を自分たちの前線の内へと入れた。そこで、彼女の持つ紹介状は、命令系統を逆伝いに、彼女を蔡延楷の防空壕へと導くことを可能とした。彼女は彼と数時間を過ごし、彼に日本軍の配置についてのほどほどに信頼できる情報を与えた。彼女は、まだ彼女のアパートにいると彼女の言う、孫文の息子への彼の口頭の伝言をもって、上海へ戻ることを請け負った。また彼女は、その日の午後、上海の波止場で、日本軍第11と14師団が上陸しているところを目撃したと彼に話した。だが実際は、それらはまだ海上で輸送中であった。蔡延楷は、日本の中国スパイから、二個師団が移動中であるとの情報を得ていた。彼はそこで、第二線から部隊を動かし、奇襲上陸が予想される川沿いの港の防衛にあたらせていた。だが、東洋の宝石が去った後、彼はその部隊を戦闘線へと再び呼び戻し、予想される上陸地点は無防衛のままに放置してしまっていた。
 そうした2月29日、〔日本では〕連盟の調査団が東京港に入ろうとしている頃、疲れきった第19路軍の兵士は、自分たちの兵力が敵の3分の1、火力が20分の1、そして、前面ばかりでなく、後方からも攻撃を受けていることを知った。それまで一ヶ月間、彼らは断固とし、抜け目なく闘ってきた。だが今や、わずか48時間で、すべての戦線で、彼らの防衛態勢は崩壊していた。蔡延楷は市街を放棄するよう命令した。彼らは南西地区へと撤退し、日本軍が市を完全に包囲することは妨げたものの、それも、地方へとさらに撤退する命令を受けるまでであった。3月3および4日、彼らの後衛部隊が日本の孤立した部隊に攻撃をしかけた。日本部隊は彼らを全滅させようとしたが、生き残り兵は市民に混じり、日本軍の非常線をすり抜けることに成功して、内陸の本隊に戻って行った。


連盟の歓迎(50)

 2月29日、満州事変について国際連盟への報告書を作るため、仏、独、伊、米、英国人からなる調査団が横浜港に着いた時、彼らは動員された群集によって感情あらわな歓迎を受けた。また東京では、大騒ぎの社交的催しが用意され、さらにそれからの5日間、日本全国での晩餐会、乾杯、挨拶が続いた。
 天皇裕仁の在上海特使である外交官の松岡洋介は、3月1日、蒋介石の代理との交渉を開始し、3月5日、休戦協定を結んだ。以後、2週間以内で、日本の7万の派遣部隊は引き上げ始め、再び、小規模な帝国海軍陸戦隊のみが、上海の日本租界の防衛にあたるために駐屯部隊として残った。そうした日本部隊の規律ある鮮やかな撤退ぶりには、批判眼の持ち主のみが注目していた。つまり、満州では全く統制がとれていないはずの日本軍国主義者が、そうして上海では、完全に統制下にあることが立証されていた。それに、そうして中国首都の南京へと通じる門を開けていながら、また、第19路軍の手により、日本部隊はその命と顔の両面に深刻な損害を受けていながら、それでも、彼らは命令に完璧に従い、その辛くも確保したチャペイの街を中国へと返還していた。そうして、連盟の調査団員は好感をもって印象付けられるはずだった。だが、それと同時に彼ら調査団員は、上海は事態の半分にすぎず、他の半分は日本の新たな傀儡国満州であり、それは3月1日に、見せびらかしの儀式をもって建国が宣言されていたことに気付くはずでもあった。
 3月2日、米国で、連盟調査団のニュースが欧米の新聞の一面から姿を消し、また多くの日本人の注目を集めていた、ある事件が起こっていた。アメリカの飛行家、チャールズ・リンドバーグの幼い息子が誘拐されていた
#7。そのニュースに社会の耳目が注目する中、スティムソン国務長官は、欧米の同僚の政治家のほどんどが、上海の平和と引き換えに満州の溥儀を受け入れようとしていることに、ろうばいしている自らを発見していた。日本による上海での劇は脅迫に等しかったばかりでなく、西洋諸国は、極東に関与してゆく武器も持っていないことを認めていた。リンドバーグ誘拐事件がもたらした社会的動揺の中で、彼らは、極東の危機が風前の灯となって行くのを傍観していた。


団男爵の殺害

 上海 「事変」 が決着に向かっている間に、満州国が設立され、世界は取り乱し、連盟調査団は東京で待機し、連盟の日本の同僚こと三井財閥の団男爵の暗殺を驚きと沈黙をもって見やろうとしていた。
 団男爵は、三井財閥の総帥だった。彼は連盟調査団の上部機関である、国際連盟調査委員会の一員だった。彼はデュポンやフォードやロックフェラーの友人として、あるいは、日米協会の著名会員として知られていた。彼は、1871年、13歳で、ペリー提督の故国の慣習をじかに学ぼうとしてアメリカに送り出された54名の子供たちの一人だった。当時9歳だった牧野内大臣もその一員だった。彼は、アメリカでの8年間を苦行を果たすかのように、義務的かつ勇気をふりしぼって耐え忍んだ。そして、日本人名年鑑に毎年提出してきた彼の記載の内容からは、その8年間のことは全て省かれていた。それとは対照的に、団は、アメリカでの7年間を楽しげに回想しており、彼の邸宅には、彼のアメリカの母校――ボストンのミス・アーランド校やマサチューセッツ工科大学――の旅する卒業生のために、常にベッドが用意されていた。日本最大の財閥の持株会社の理事長として、団男爵は、日本のビジネス界の揺るぎのない指導者だった。(52)
 1932年3月2日、水曜日、すべての三井系会社の役員たちは、株主として総会を持ち、その財閥の中枢神経、三井銀行の年次報告を聞いた。三井銀行の頭取は、サビルロー
〔ロンドンの一流紳士服仕立屋が並ぶ街路名〕仕立ての服におさまり、重々しく、厳しい状況を並べあげた。 「全般の銀行事業は」 この年、順調ではあったが、 「有価証券の市場価格の値下がり」 および 「手持ちポンドの減少がゆえに」 本行は、12,297,026円、約4百万ドル〔現在価値では約240億円〕の純損失をこうむった、と報告した。そして、 「為されてきた投機的ドル買いへのいかなる批判も、正当性をもちえない」 と付け加えた。また彼は、考慮されるべき鞘取りと金移動の問題があったと指摘したが、彼の専門用語を駆使した説明も、その年、会場の株主全員が三井傘下の他企業から17から18パーセントに上る異常に多額の配当を受け取っている事実を完全には隠しきれなかった。(53)
 三井銀行の損失報告にもかかわらず、翌日の3月3日、木曜日、大蔵省は、上海事変の戦費をまかなうため、二千二百万円(約8百万ドル)
〔現在価値で約440億円〕の国債を発行し、それは、三井ならびに他の財閥によって購入されることが期待されている、と発表した。三井の総帥として団の上には、全国の大手産業主が、手持ち現金の不足によりその要請に協力できないと返答する、危険な役割が降りかかっていた。
 その夜、血盟団の教導者井上は、団を殺すために、彼の学生を使ってブローニング拳銃と16発の銃弾を暗殺人、菱沼五郎に届けさせた(54)。団自身は、社会の支持の程度を見積もり、その日本の国内的悶着へ、彼が期待するアメリカよりの反応を計ろうと、東京で、最も影響力のある彼のアメリカ人の友人を集めて、ディナーパーティーを催した。(55)
 ジャパン・クロニクルの編集者、ウィルフレッド・フレイシャーは、「団の自宅は質素だったが、その屋敷の庭はその美しさで有名だった。その家宅は、コウノトリが歩き回る池にむかって傾斜した土地の端に建てられ、その丘は、春にはツツジの花が咲き誇り、秋にはカエデの葉が赤く染まっていた」、と思い浮かべている。
 つぎの3月4日、金曜日の朝、団男爵は、彼の同僚である連盟調査団の全メンバーに公式に紹介され、 調査に着手する最初の会議に出席した。他方、暗殺人菱沼五郎は、渡されたブローニングの使い方になじむため、東京の東隣りの東京湾に面した船橋海岸へと出かけた(56)。また、西園寺の秘密スパイの原田は、その首相奏薦者が抗議のために興津から汽車に乗って上京する前に、天皇の他の大兄たちと事前に会って相談していた(57)
 その夜、団男爵は、連盟委員の訪日を記念して豪華な産業クラブ――彼や日本の企業の首脳たちが理事――で催された夕食会に参加した。彼はその挨拶を求められることを予期し、食事をとりながら、彼の家族が用意しておいれくれた一枚の紙にメモを書き込んでいた。そのメモにはリットン卿を歓迎してこう記されていた。 「貴殿がただしたいと思われるいかなる質問にも、私たちは率直に答えることを喜びとします」。そして、慎重さと自負をこめた最後の修正として、その 「率直」 との言葉を削除し、この形容詞の醸すうさんくさい丁重さをなくすことに注意を払った。(58)
 3月5日、土曜日、午前11時、団男爵は、三井銀行ビルの人目につかない側の入り口に車を着けた。しかし、血盟団ではもっとも腕の良いやくざ者である菱沼五郎は、その標的の敏感となった神経をよく見抜いており、その路上で待機していた。彼はその専用車のドアを開けようと突進したが、それはロックされており、運転手が再発進する余裕を与えず、窓越しに一発、発射した。そして、その一発は目的をとげた。団は20分ほどで息をひきとり、殺し屋菱沼は、警察官が彼を逮捕しに来るのを落ち着いて待っていた。(59)
 西園寺とその秘書原田は、そのころ、東京へ向かっていた。その汽車が緊急に停止させられ、その老人を警護するために、私服の警官が乗り込んできた(60)。東京に着くと、西園寺は直ちに東京邸に入り、その日は休養し、次の日も誰との会見も拒否した
#8


西園寺の苦策

 団男爵暗殺の2日後の3月7日、月曜日、西園寺は、公の訪問者を迎え始めた。まず午前中に犬養首相、そして午後には、裕仁の私的財務顧問、内大臣、そして夜には、裕仁の私的外務顧問、葉巻をくゆらす老子思想家侍従長の鈴木貫太郎であった。(62)
 長い間、故郷を留守にしていた息子が帰郷し、父のもとに参上することが期待されているように、宮廷のしきたりによって、西園寺のような主要な天皇の家臣は、その上京後ただちに、裕仁への謁見が望まれていた。日本の公衆は何かを期待していたが、西園寺は、そうしたお仕着せの謁見を、その日も次の日も、その後六日間も、あえてなそうとはしなかった。団男爵の死の3月5日から14日まで、その老練な政治家は裕仁に肘鉄をくわし、自らのエネルギーを電話会話と他の訪問者との面会に費やしていた。(63)
 彼は、暗殺による恐怖統治を止めさせ、憲法に従った議会政治に、なんとか持ち込みたかった。そこで彼は、自分が真剣であり、もし自らの道を為さなかったら世界が驚くであろうと、自ら記者会見にのぞむ予定だとほのめかした。そして、もし自分に何かが起こったら、護憲運動組織が雇った防衛部隊が国内で小規模な市民戦争を始めるだろうし、外国の首府の金庫に預けてある預金を外国人記者に公表するつもりである、と語った。それに彼は、憲兵内部にいる自分の配下の者が認めない者による自宅への警護を受け入れなかった。

 3月8日、火曜日、大川博士は、1931年の三月事件の時の模擬爆弾を、手下頭に命じて荒木陸相へ返させた。(64)
 3月9日、水曜日、西園寺は荒木と初めて対談した。そしてその後、彼は秘書の原田に、 「彼はやや理想主義的な傾向があるが、なんと、ものの話し方を心得ている人物じゃないか」、とその印象を語った。(65)
 3月10日、木曜日、宮廷家臣たちの許しの気配を見計らって、警視庁総監は、用心深く、血盟団の周辺者を逮捕させ始めた。(66)
 3月11日、金曜日、団暗殺から6日目、そして銀行家の井上暗殺から30日目にして、ついに、暗殺者首領の教導師井上が、警察官に丁重に率いられて、黒龍会の天行会道場から、東京でも最も清潔な刑務所に収監された。しかし、彼の同僚の大川博士は自由のままで放置されたままだった。大川が、裕仁の主席民間人顧問である牧野内大臣の手下であることは衆知のことで、西園寺も、彼の逮捕までは主張はしなかった。(67)
 ただ西園寺は、殺人が止められ、正当に選任された犬養首相が政権を続けていけることだけは強く主張した(68)。ゆえにその代わりに、彼は、三井や他の財閥に対し、上海事変のための8百万ドルの国債の引き受けと、傀儡国満州の開発のための資金として、さらに7.5百万ドルの融資を与えるよう説得した(69)。3月12日と13日の週末、西園寺は、各財閥とその妥協策の詳細のつめを行った。そしてようやく、3月14日、月曜日、彼は、厳重な警備のもと、かれの屋敷からの外出に同意し、長く延期していた天皇への儀礼の謁見にのぞんだ。だがしきたりには反し、宮廷での昼食はせず、自宅でそれを済ましてから出発した。午後2時、彼は天皇と皇后に会い、彼の公式の忠義を表した。そして皇后が席を立った後、天皇一人と、とほぼ一時間、話をした。その後、彼は秘書の原田に、天皇の言ったことに 「何も特別のことはなかった」 と話した。
 西園寺は、その後、三日間を東京で過ごし、私事をこなす一方、自分の藤原家の同族である、裕仁の母、皇太后を儀礼訪問した。彼女は、彼のもっとも信頼できる協力者だった。47歳の彼女は、まだ、きわめて高貴を放っていた。彼女は大変に魅力的で、人扱いにたけ、大正天皇の世話をした時代に、彼女は国家運営についての卓越した理解を獲得していた。皇太后として、彼女は裕仁家族の家系内運営の大半に関与していたし、拒否権すら行使する力があった。彼女は長く、自分の息子の政策を承認せずにいたし、役には立っていなかったが、頻繁に忠告を与えてきていた。西園寺は、正しい導きが今ほど必要な時はない、と彼女に切に訴えた。節子皇太后は自分の最善を尽くし、宮廷事情を常に西園寺に通報する信頼しうる使い役を置くと約束した。
 3月18日、西園寺は、自分が用意した打開策に自負心をいだきつつ、興津に戻った。その際、彼の近親者、近衛親王が自ら彼に同行した。その年若な藤原貴族は、その老練政治家の経験と愛国心に敬意を抱いてきていたが、西園寺が固めたその打開策は、彼の眼には、非現実的で一時しのぎのものだった。それから三日間、近衛親王は、古臭く、腐敗した政党は、よりいっそう、謀略や暗殺や紛争や人材の無駄をもたらすのみだと、その老人を説得しようと試みた。日本がありのままに全体主義国家であると宣言することははるかに良いことで、裕仁にそれを任せ、その彼のまわりに、もっとも明晰で、もっとも現実的な人材を集めようとしていた。老西園寺親王は、そうした解決法に、いかなる効用も見出せず、それを頑強に拒絶した。
 近衛親王は、謀略の政策は維持されねばならず、今の西園寺の取り巻きとその支持者にも従わせなければならない施策であることを確信しながら、東京に戻った。
 4月3日、牧野内大臣の弟子、大川博士は、霞ヶ浦の航空隊大尉に、500ドル〔現在価値で約3百万円〕、5丁の拳銃、200発の弾薬を、クーデタは真剣に準備され、現実のものと示す証拠として与えた。(70)
 その夜、そして4月4日の朝食、さらに昼食の際、12人の選良のメンバーは極秘のうちに会合し、彼らのうちで誰が、反政党的かつ全国民的な、クーデタ後の最初の日本の首相となるかを決定した。儀礼上、彼らは最初、近衛親王を指名した。しかし、大兄で事実上の指導者の木戸は、その近衛親王とは、それは儀礼上のことで、それ以上のものでないことに合意していた。木戸侯爵は、近衛親王を、まだ有効な政策を持っておらず、大臣の候補にもなっていないと指摘した。
 その超越的首相には、より現実的な選択がなされなければならなかった。議論の結果、大兄たちは、かっての明治天皇の忠臣で長く朝鮮総督を勤めてきた、73歳の斉藤実海軍大将に決定した。彼なら、西園寺親王も裕仁天皇もそして彼ら自身も、誰もが受け入れられた。
 1932年4月4日、裕仁の若手忠臣らによって選ばれた斉藤大将は、すべての手はずが整えられ、犬養が暗殺され、そして、長く準備されてきたクーデタが実行された42日後、実際に日本の首相となる。斉藤大将自身には、裕仁が彼を宮廷に呼び、それを公式にした時、その指名を知らされる。それまでの間、裕仁は、彼の大兄たちが有益な計画を立ててくれたことに満足していた。(71)
 


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