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第十五章
     暗殺による統治(1932年)
(その4)


リットン卿

 国際連盟の5国代表の5人による調査団は、英国人、リットン卿によって率いられていた。彼はインド総督の息子で、 『ポンペイの最後の日』 を書いたブルワー=リットンの孫であった。イートン校からケンブリッジ大へと進み、海軍本部、インド政庁、ベンガル州総督官邸に勤め、一時、インド政庁総督の職にもあった。56歳で、腎臓病のために不機嫌で短気な人物だったが、自らの政治的手腕と、明快で名文調の指令を書くことを誇りにしていた。彼は日本のことをほとんど何も知らなかったが、細心な読書家で明晰な観察者でもあった。(72)
 歓迎式典が続いた日本滞在の最初の5日間、リットン卿は、出会った幾人かの日本人から、自分が持つ、日本の帝国主義を許容するという英国政府内の貴族的私立校卒業生の持つ傾向を正さなければならないとの着想を持ち始めていた。彼の日本の同僚である団男爵が暗殺された後、その思いをいっそう深めており、憤慨もしていた。老西園寺親王が、彼の打開策のために東京に滞在している間、リットン卿に同行する委員の全員は、西園寺に会おうと試みていた。西園寺は、自分が関わることの状況の微妙さを、使者を通じて繰り返し伝えていた。しかも、使者は、連盟が大陸における日本の行動を出来る限り非難するよう西園寺が望んでいると、慎重をつくしてリットン卿に伝えていた。(73)
 西園寺が裕仁に敬意を表してようやく宮廷へ参上したその日、リットン卿と委員一行は、中国側の話を聴取するため、上海に向けて出航した。彼らは、中国で5週間を費やし、様々な勢力のすべてに接し、また、4月21日、満州の奉天に行き、問題の根拠を調査する計画であった。(74)
 調査団が中国にいる間――日本では、西園寺の打開策が順調であった期間――、裕仁の特務集団の陸軍側半分は、調査団一行が日本の満州侵略に最も良好な印象を得ていると見積もっていた。裕仁は、元ソ連大使を、関東軍司令官の本庄大将の下に付け、外交的な巧妙さを助言させた(75)。それが、バーデン・バーデンの11人の選良の一人、渡久雄大佐で、彼は、陸軍参謀諜報部ヨーロッパ課長の地位を解かれ、リットン調査団に対し先発隊(76)として旅行し、何事が起ころうとも、それに必要な対処を工作する任を負っていた。
 渡は、11人の選良の中で、アメリカ問題の専門家だった。風采と魅力を備えた京都の貴族で、英語に長け、ワシントンの日本大使館で5年間を過ごし、欧米の東京駐在武官の誰とでも友人関係にあるとの評判を得ていた。英国の諜報員、F.S.G.ピゴットによれば、渡は、 「欧米思想の正直な信奉者で・・・・、誰からも尊敬されていた」。(77)
 本庄大将によって、関東軍のあらゆる資源を用いる裁量を与えられて、渡は、リットン調査団が何を、如何なる時に見たいと望もうとも、彼らを不愉快にはさせないよう、直ちに体裁をつくろった上で、その求めに応じる腹であった。満州国の刑務所に入れられている政治犯や満州国病院のフランス語や英語を話す患者は、その独房や病室から移動させられ、調査団がいる間、地方の収容所に送られた。そしてそこで彼らは、憲兵が街路を一掃して連れてきた乞食や放浪者、あるいは、調査団の一行に決起して反日本的スローガンを叫けびそうな勇気と信念を持っていそうな不審者たちといっしょくたにされた。文字通り、数千人――ハルピンだけでも1,361人――の潜在的顔つぶし者たちが事前拘束された。リットン調査団に告発状を密かに手渡そう企む者の逮捕に結びつく情報を提供した者には立派な褒章が与えられた。
 日本の統治を賞賛する 「請願書」 がひと月も前から関東軍司令部で用意され、それに著名な中国人やロシア人が署名を連ね、後日、それはリットン卿に提出された。群集はまた、どのように叫び、どのような服を着るのかを教えられた。すべての住人はリットン調査団が滞在している間、玄関先に掲げる小さな満州国旗と窓に張る安っぽい溥儀の写真を、一組一円で買うようにとの憲兵による指示によって、南満州鉄道の企業心旺盛な職員は、企業と陸軍のために10万ドル
〔現在価値で約5億円〕の利益をあげた。調査団に聞き取られることが予定されている満州国職員は、何を言うべきか、慎重なリハーサルが実行された。あらゆる阿片窟は、空気が入れ替えられ、掃除され、そして 「文化会館」 あるいは 「社交倶楽部」 と表示された看板が掲げられた。すべての日本の制服は視界から一掃され、新調の満州国のものを着るという一時的な屈辱に耐える姿がそれに代わった。
 調査団が宿泊するすべてのホテルでは、彼らの部屋に隣接する部屋が、満州国政治警察の日本人や白系ロシア人の諜報員に割り当てられた。受付、ベルボーイ、給仕、客室係、ホールボーイ、そしてメイドまで、特別に訓練された同警察の工作員で置き換えられた。主要な商店、劇場、そしてレストランにはスパイたちが配置された。そうして、警察や諜報組織の抱える要員は出払ってしまっていた。そうして要員が底を尽いた時、ハルピンの諜報機関の支所長は、五百人分の満州国陸軍の制服を、その機関が雇った地元の盗賊に支給し、収容施設に送るには著名すぎる中国人不満分子の家に、 「名誉護衛」 としてそうした悪党どもを配置した。(78)
 渡大佐は、リットン卿を迎えるこうした壮大な準備を手配し終え、一行到着の一週間前の4月15日、三羽烏の二番手の小畑敏四郎と、満州で合流した。その二ヶ月前には、小畑は井上侯爵邸での大兄たちのパーティーに出席し、今ちょうど、彼は裕仁によって少将の地位に昇格したところだった。小畑は、裕仁が 「超越的政府」 を計画していることを知っていた。もしリットン卿をして、満州で見たものを受け入れるよう説得できるのなら、その超越的政府は不必要と証明されたに等しかった。
 小畑は、渡大佐とともに、リットン卿対策の準備を再検討し、またそれを、関東軍司令官の本庄とも再三にわたって打ち合わせた。小畑は本庄に、もしリットンがだまされなかったなら、東京では軍事クーデタに着手され、政党政府を転覆し、日本を侵略者として非難する結果が建設的なものにはならないと国際連盟に見せ付けなければならなくなる、と警告した。そして小畑は本庄に、クーデタが必要となった場合には、一個師団と騎兵一個旅団を借りたいと要請した。
 三羽烏の二番手の小畑は、4月21日、リットン卿が奉天駅に到着するまで奉天に滞在した。そして彼はその到着を見届けると、奉天の南にある南満州鉄道所有の飛行場へと列車で向かい、裕仁と大兄に報告するため、空路で帰国した。彼の判断は、リットン卿は日本に対し好意を表しそうにはなかったし、卿に対してなされた満州での準備によっても、彼の態度は変わらないだろうというものだった。と同時に、リットン卿は、あたかも学者のように自らの任務をこなしており、日本についての判定についても、良いも悪いも、何ヶ月かが経過するまで、それを下さないかもしれなかった。(79)


政策見直し

 小畑少将のリットン卿の意図についての評価に影響されて、裕仁の大兄たちは万能の鈴木中佐に、 「東アジアの状況の変化に照らし」 、かつ、 「裕仁維新の実現」 への内政計画をたてるため、日本の強固な新外交政策の草案を作るよう依頼した。才に長ける鈴木は、天皇の密使として蒋介石に接していた時代、国際的視野でものを考える習慣を身につけており、依頼された草案を36時間で書き上げ、4月23日、土曜日の夜、大兄の木戸に、二種の討議資料の形で提出した。その中で第一に、日本は、欧米の反応を気にすることなく、東洋における独自の道を追求するよう、提唱していた。第二に、政党の早急な抑圧と、荒木大将と陸軍の南進派をうしろ楯にした超越的臨時政府――しだいに裕仁を日本の絶対的君主とさせる――を主張していた#9。木戸は翌朝、鈴木の二種の文書を宮中へと持参し、つづく火曜日と水曜日に、他の大兄たちを交えて議論した。(80)
 裕仁の特使でオレゴン大卒の松岡は、上海での本音の休戦交渉に当たってきており、4月28日、木曜日、その任務の成功を裕仁に報告するため宮廷に参上した。裕仁は松岡に、極東において強固で独自の外交政策を展開するとの鈴木の案をどう思うかと尋ねた。松岡はそれに、日本は連盟を恐れる必要は何らなく、もし日本が連盟を脱退することになっても、最も力を重んじ実務的な欧米の政治家の意識の中に、それはむしろ、威信と影響力を築くであろうと、情熱的に答えた。(81)
 松岡と話した後、裕仁は松岡の提案について、大兄と話し合った。連盟からの脱退について、陸軍将校の幾人かがそれは不必要なことかも知れないと感じていたが、大兄らの内の誰もが、それを有害なものとは見ていなかった。当然の成り行きとして、老西園寺はこの考えを聞き及ぶこととなった。
  「それは希望的観測に過ぎず、私は実に懸念している」 と西園寺は原田に言った。 「天皇は充分に賢明で、この国を破滅に至らすようなことはされないだろうが、牧野内大臣から最近しめされたロシアの扱いについては、そのようにはみえない。」 (82)
 にもかかわらず、裕仁は松岡の連盟脱退策を仮にでも受け入れ、一年後には、松岡にその実行の任務をあたえることとなる。
 鈴木は、裕仁維新の実行に関する第二の文書の中で、もし、陸軍のクーデタが裕仁の指導者としての地位を高めることとなった場合、遭遇するであろうその問題点の詳細について述べていた。すなわち、陸軍将校のうちの、ことに理想主義的北進派の者たちは、クーデタをして裕仁を日本の軍事的独裁者にまつり上げ、参謀将校を通じた特権的統治を期待していると、懸念を表していた。つまり、クーデタを通じて超越的政府を樹立する際の問題とは、陸軍の過激分子がクーデタを極端へと走らせ、裕仁から文官高官――宮廷人、経済人、外交官、任侠界の親分、政治家、報道人――を閉め出す恐れがあるということであった。(83)


本庄との調整 (84)

 1932年4月30日、月曜日、鈴木の文書がそれまで一週間にわたって討論され終わった時、計画されているクーデタの確かな統制が計れるよう関東軍との協定を結ぶため、特使の一行が満州へと送りだされた。その特使の一人は、特務集団首領で南進論者であり牧野内大臣寵臣の大川博士だった。南満州鉄道の調査員との名目で長年を過ごしてきた大川は、満州に根付き始めている地下社会に、諜報機関の産業工作員や憲兵のスパイといった広い影響圏を保持していた。そしてその後11日間に、クーデタに関与するものは誰でも、何らかの形の脅迫によって牛耳られることとなる関係を構築した。
 その特使一行の別の一人が、裕仁の私的密使、瀬川昭朝中将だった
#10。彼は1919年には、諜報員としてスイスにおり、1920年代には宮廷で侍従武官をつとめ、今は、その学識で名をはす陸軍士官学校の学長であった。瀬川は奉天へ、彼の生徒の一団――士官学校生徒は来るクーデタの際には歩兵として使われた――を引率してきていた。
 瀬川は、5月1日、日曜日の午後を、関東軍司令官で彼の旧友である本庄大将と親密な対話をして過ごした。彼は、計画中のクーデタは、軍事的独裁を目指すものではなく、財閥と政友会を威嚇する目的のもので、天皇の支持をえているものだ、と本庄を説得した。その後、この二人の将官は士官学校生徒――この若者たちは、すぐに、このクーデタへの関わりによって輝くものとなる――を、その町での楽しい夜を過ごさせるために連れ出した。
 翌日、月曜の遅い午後、士官学校生徒の全員が充分酔いからさめた頃、本庄は自分で彼らを率いて、満州で死んだ日本兵の慰霊碑へと連れて行った。その慰霊碑の前で彼は、彼の日記が言う 「精神高揚の訓話」を彼らに与えた。そして、その訓話の後、彼は東京へと戻る生徒たちを見送った。
 瀬川が帰国した後、本庄中将は、瀬川に支持を約束したクーデタ計画の詳細の聴取を始めた。5月7日土曜、彼は大川博士と会い、5月11日火曜には、東京からの地下社会工作者の別グループと会った。それは、諜報任務にある裕仁の伯父の東久邇親王の別当
〔家政執務長〕と、血盟団の井上教導者の弁護士だった#11。本庄は、そうした詳細談のすべてには賛同できず、その夜を通して、その二人との議論となった。彼が反対した第一点は、その統制されたクーデタが、裕仁と穏健派に利益をもたらすことであり、第二点は、日本の最良の家系へも、脅迫、欺瞞、および物理的威嚇を許容していることであった。本庄は中国で策謀に関わってきた長い経験があったが、日本の社会においては、厳格かつ律儀で、尊敬されるべき人物であった。
 〔12日、水曜の〕朝、自分の意に反しする説得を受けた本庄は、その別当と弁護士の二人と大川博士の帰国を見送った。そして本庄は、帰国する彼らに付けて、予備役にあった河本大作大佐――バーデン・バーデンの選良の一人で、1928年の張作霖暗殺の実行者であり、1931年の三月事件中止の際には最終金銭交渉〔仲介と解決金〕にあたった――を派遣した。これらの4人の 「まとめ役」 に不本意ながらも賛辞を送り、本庄は、自分の日記の記入に、そのクーデタを 「(陸相)荒木の問題」 と決め付けることで、自分のうさを晴らしていた。その意味することは、骨抜きとなるほどに統制されたそのクーデタは、前線の将官が心配するほどのことではなく、純粋に陸軍省内の政治問題――まともな思想の主なら関わりを避ける――であった。その翌日、本庄は、数々の疑問と懸念と腹案を抱いたまま、満州の海軍特務機関長の小林省三郎少将――前年12月まで霞ヶ浦航空基地の司令官だった――と、三時間にわたり密談を交わした。


田舎旅館で (85)

 5月17日、木曜日、東京に戻った大川博士は、裕仁の主席文官顧問の牧野内大臣に報告し、それから、霞ヶ浦の飛行士の一人に、2千円(約7百ドル)〔現在価値で約4百万円〕を渡した。翌金曜日の朝、霞ヶ浦の二人の飛行士が、東京の上野駅で、裕仁の密使として満州へ行った瀬川に同行した士官候補生と会った。この飛行士と候補生には、すぐに、血盟団の井上教導師と、宮廷へ伝達する大川博士の間の使いをしている東京帝大生――団の暗殺後、不思議にも逮捕されないでいた――が加わった。
 学生、幹部候補生、飛行士の四人の若者は、列車に乗り、東北方向へと向かった。その時まで、雨が一日以上降り続いてたが、ようやく、流れる雲間から日が差し始めていた。彼らの乗った列車は、農村や田園地帯を走りぬけていた。茅葺屋根が濡れて輝き、水を張った田んぼから、若い稲が浅緑色の芽をふいていた。
 四人は、霞ヶ浦の飛行学校から数キロの駐屯部隊の町、土浦で列車を降りた。航空隊基地から来た車が、彼らを農産物市場や、酒場や売春宿の並ぶ繁華街を通り抜け、町一番の宿屋へと運んだ。そこは、立派な厨房とたくさんの宴会個室を持った、大きな田舎旅館だった。その旅館は、参謀総長の閑院親王や他の親王たちが長年にわたり定宿とし、芸者遊びや地下世界との極秘の接触の場としてきた。
 四人の策謀者は、くつろぎのための風呂や浴衣や芸者は不必要で、近隣の一人の 「農夫」 以外、誰もこさせないように、と宿の主人に命じた。その農夫は数分後にやってきた。東京から着いたその四人の男は、安酒を互いに交わしながら、その訪問者、橘孝三郎の信頼性にさぐりを入れた。その日の午後の彼らの長々と続いた討論の内容は、数年後、警察の尋問と裁判において最終的に記録されたものとなる。
 橘は通常の農夫ではなく、近衛親王と東久邇親王が後押しする大洗のスパイ養成所の付近にある、トルストイ主義農業共同体、愛郷塾の指導者であった。彼やその門下生は純粋な理想主義者で、日本の農民の生活を良くするため、体制の変革を目指していた。彼らはそのクーデタに、一抹の農民魂の発露を求めているのみで、二人の飛行士は、大川博士が用意した2千円を彼に分与する必要のないことをさとった。橘にとって、理想が貫徹できればそれで充分だった。(86)
 東京から来た四人は、犬養首相暗殺の計画の任務を与えられていた。彼らが理解していた暗殺の理由とは、犬養が陸軍予算に増強に反対しつづけ、また、蒋介石やその他の中国の指導者たちと、売国的な交渉にかかわっているからであった。橘はこの目的に同意し、そして、5時間を要して、その5人の討論は、実行作業の分担や時計の時刻の同調といった、詳細に至った。
 満州から帰国したばかりの新米士官候補生は、翌土曜日、直ちに行動に移ることを望んだ。彼の見方では、有名な映画コメディアン、チャーリー・チャップリンが横浜に着く予定で、憲兵は彼の護衛の手配で手一杯のはずだ。また、夕方、犬養首相邸で、チャップリンを歓迎する政府式典が催される。この時こそ、実行の完璧な機会だ。日本の首相や閣僚全員と共に、チャップリンが殺されても、国際的注目を引き付ける障害にはならない、と言うものだった。(87)
 霞ヶ浦からの二人の飛行士は、それに対し、急遽、チャップリンの延命のためのとりなしに入った。二人のうちの先輩の方が、 「当然なこととして、警察がチャップリンへの襲撃に備えているだろうことは我々の間でもすでに確認済みだ。つまり、彼らは土曜の夜は、総力を出し切っているはずだ。従って、我々が実行の日とすべきなのは日曜日だ。この日なら、彼らは休養をとって任務を外れているだろう」。
 その田舎旅館で合意に達した最終的計画によると、橘の農夫たちは、鉢巻をし、斧や手榴弾で武装して、東京の各変電所を無能とし、全東京を暗闇と化す。同時に、士官学校生は、霞ヶ浦飛行士に指揮されて、日本銀行など、いくつかの政府機関を爆破する。航空基地将校の主力部隊は、首相官邸を襲撃し、犬養首相を暗殺する。
 時刻と主要地点がすべて確認、記録されたところで、5人の策謀会議は散会した。将校専用車で彼らは駅へと送られ、若者四人は東京へと向かい、橘は、自分の農民たちを組織するため、北の大洗へと向かった。


 つづき
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