「両生空間」 もくじへ 
 「もくじ」へ戻る 
 前回へ戻る  


第十五章
     暗殺による統治(1932年)
(その5)


犬養暗殺

 1932年5月15日の日曜日が明けた。午前7時、裕仁側近の大兄、木戸侍従長は、その念入りに編集され守り固められた日記によれば、その主人、牧野内大臣の皇居からの電話を受け取った時、その日のゴルフのために着替えをしているところだった。それまで一度も、牧野伯爵はそのような早朝、ましてや日曜に、彼を呼びつけるようなことはなかった。木戸は着替えを終え、皇居の南部地区の公邸からの、およそ四分の一マイル〔4km〕を15分間ほど要して到着した。木戸の日記によると、牧野は彼に、天皇はその前夜、前ソ連大使より重要な情報を入手し、天皇は、可能な限り早急にその前大使との面会を手配し、直接にその情報を聞きたいと望んでいる、と話した#12
 これは完璧に持って含んだ話なのだが、その前ソ連大使がその前月、裕仁の最高代理人として満州国に赴き、関東軍の本庄司令官にリットン卿の扱い方を助言していた際、そこで行われていたクーデタ準備を偶然に垣間見たということだった。その前夜に〔牧野が〕裕仁に面会した際、彼は天皇に、満州国は日本の厳格な監視なくして自立国にはなりえず、そうした監視が行われている限り、国際連盟は満州国が独立国であるとは説得しえないはずだ、と助言したという。(88)
 木戸は自分の日記に重要な事柄を書き漏らしている。つまり、天皇は、前大使の助言に基づいて、そのクーデタ計画の実施を最終的に命じていた。しかも木戸は、自分の行動によって、彼は、その日クーデタが実行されることを完全に知っていたことを表している。〔すなわち〕木戸は皇居を出ると、スパイ秘書の原田に要請し、原田は11人クラブのメンバーに電話をかけ、翌夕に前ソ連大使との会合があることを手配した。そして原田は汽車にのって、西園寺のいる興津ではなく、はるかに先の静岡へと向かった
(89)。彼は西園寺に、その辺りに自分がいることは知らせなかった。彼は地元の上等な旅館に部屋を取り、その番頭に、一日中、ラジオを聴き、重要なニュースが放送されたら自分に知らせるようにと告げた。そして彼は自室にこもり、その午後を 「静かに手紙を書いて」 過ごした。
 木戸は一方、横浜郊外の保土ヶ谷のゴルフクラブへ行き、その朝はそうする積りだった 「久邇宮杯トーナメント」 に参加することはせず、同クラブのプロからの個人レッスンを受けた。午睡の後、こだわりのないクラブメンバーたちと数ゲームを行い、そして、いかにも無頓着を装って、その日の午後5時過ぎ、帰宅の途についた。(90)
 同じ頃、日が西に傾く中、霞ヶ浦の三人の海軍飛行士、陸軍士官学校の5人の士官候補生、そして、24から28歳位の一人の海軍予備役大尉が、東京の靖国神社の側面門前で、二台のタクシーから下車した(91)。ここは、神道信仰によると、明治維新以来、天皇のために命を捧げた12万6363の英雄の魂が宿る場であった
#13。ここは、戦死したあらゆる善良な兵士の鎮魂の殿堂である。その壁には、白い五本の縞が水平に走り、その一々は、藤原五摂家を意味し、皇位をとりまいてそれを守り、その神社の神聖さと特別の地位を表していた。そうした縞で囲まれた他の神社は、逝去した天皇や親王の魂に限って祭っていた。だが、ここのみは、そうして死者となった英雄のみだが、臣民でいながら皇位と同等に名誉をあたえられていた。その広々とした境内の中に神殿が散在し、古代日本の住居建築様式にならい、緑青を生じた銅葺き屋根の両棟端から千木〔ちぎ〕が空へと突き出ていた。(92)
 若い将校たちは神殿に入るため、境内の四分の一を回り、天照大神を祭る社の正面に東を背にして立った。社内に入った彼らは、祭壇の前に立った。帽子を脇にはさみ、奥殿の 「開かずの間」 の12万6363の霊に祈願して、柏手を打った。彼らは、敬虔な気持ちを表して頭を少し下げていたが、その部屋に安置されている 「神々が降臨する」 鏡に向って深々と礼をした。その鏡は、明治天皇によってその神社に納められたもので、皇祖との親交に用いられ、複製品ではないとしても、同等となるものであった。
 満州へと向かうどの将校もそうするように、暗殺者らもきびすを返して向きを変え、神社を後にした。その帰りみち、彼らの一人が神社の神官からお守りを買い、それを警官の弾除けとして同僚に配った。北門を通り、軍事博物館の前を過ぎ、 「手水所」 で清めのために立ち止まり、 「神楽殿」 をまわり、そして、南門から外へ出た。そこには、神社外壁に向かって、将校クラブ、兵士クラブ、退役軍人会が並んでいた。再度、彼らはタクシーをよび、一台に四人、他の一台に五人が押込むように乗り込んだ。
 ロシア教会の金色のドーム屋根と神田地区――大学と古本屋の学生街――を後にして、彼らは車を、皇居外苑の堀に沿う大通りを走らせた。午後5時27分、彼らは首相官邸――天皇の都会領地〔皇居〕の南側で、城壁からそう遠くない位置に建つ――に到着した。フランク・ルロイド・ライトの帝国ホテルのように火成岩ででき、ライトのホテルのように水平床版がはり出した意匠のこの建物は、帝国ホテルにならって日本の建築家が設計したものだったが、西洋人の間では当時、ある夜、ライトの意匠の霊が抜け出して子を生んだものと冗談に言われていた
〔訳注〕。タクシーを下車した9人の若い暗殺者たちは、首相官邸のホテルのようなロビーへと入って行った。
 その時、東京の南の反対側の港地区では、一人の海軍将校、三人の陸軍士官候補生と一人の民間人からなる第二の謀略グループが、泉岳寺の四十七士の墓参を済ませていた#14。今、彼らもそのテロの使命を果たすため、タクシーに乗り込んだ(93)。第三のグループは、首相官邸から南に11街区の、新橋駅に集合していた。
 暗殺者の第一グループは首相官邸を急襲し、その受付に、その静かな日曜の午後、犬養閣下はどこにいるのかと、丁寧に尋ねた。彼女は落ち着いてどこかは知らないが、名刺をもらえれば、翌朝、犬養の秘書に渡すと返答した。暗殺者は、次に警備の警官に、これも丁寧に、彼らを犬養の私邸へと案内するように尋ねた。警察官は会話を引き伸ばそうとすると、ロビーの隅にいた一人の私服警官が立ち上がり、正面玄関に向けてそれとなく歩きだした。彼がドアを開けようとしているのを若い将校が気付き、彼に一弾をあびせた。その警察官は真っ青となり、そして沈黙した。彼らは、一人を受付や警官や負傷した私服警官の見張り役として残し、若い将校たちは官邸内の捜索を始めた。彼らは、階段や廊下の迷路で数人の召使いを捕えて脅したが、犬養の居室部へのドアを誰も教えなかった。
 そこで暗殺者の一人が、二階で鍵をかける音を聞きつけた。彼は仲間を呼び、そのドアを破った。首相の応接室のドアの前で、犬養の護衛に当っている憲兵が彼らを待ち受けていた。彼らはその護衛を撃ち、倒れた彼を越えて、食堂へと乱入した。そこに犬養は、あたかも、風呂から上がって一家の団らんを過ごしているかのように、夏の浴衣姿で座り、煙草をくゆらせていた。彼は、隣に座っている義理娘や主治医と会話しているところであった。暗殺者たちは、彼に敬礼をし、丁寧に話しかけた。そして三上海軍中尉がピストルを取り出し、狙いを定め、引き金を引いた。銃はカチッと音をたてただけだった。弾丸は装填されていなかった。76歳の犬養は、長い白色の顎鬚を強くふり、両手を挙げ、威厳をこめて彼らを止めさせようとした。士官候補生の一人が、奉天の満州軍閥張学良の金庫から、〔首相が〕署名した手紙と小切手が発見されたと、興奮してその老人を非難した。
  「よろしい、待ちなさい」、「話せばわかる。私の執務室に行こう」 と犬養は言った。そして彼は静かに立ち上がり、ゆっくりとドアに向かって歩いた。三上海軍中尉は、誰もが言うように、身長5フィート
〔1.52m〕という犬養が余りに小さいことに驚かされていた。
 後の法廷で、三上はこう証言している。 「最後の遺言に彼が言わなければならにことを聞くのは武士の情けだと、私は決めていた。」
 彼は左手を首相の肩にまわし、右手にはピストルをもって彼を強いながら、三上はその老人に付き添いその部屋を出た。彼は後に、 「私は彼に、何の個人的恨みもありませんでしたが、悲劇的なものを感じていました。すでに革命の火ぶたは切られたのだと自分に言い聞かせていました。ですから、私の殺すという意志には何らの変化もありませんでした。」
 三上の仲間が銃を犬養の女中、義理娘、護衛、そして医者に向け、主人に続いて隣室に入って行かないようにした。犬養の鼻を診終ったばかりの医者は、後の法廷では不思議な話を述べている。即ち、彼は、その若い将校たちが屋外の群衆から首相を守るためにただ脇に付いているだけだと思ったという。ただし、隣室には犬養の護衛が撃たれていたのにである。
 外の廊下に、三上中尉は、官邸の裏口から遅れて入ってきた二台目のタクシーの殺人チームの一団に怒鳴った。 「彼はここだ、彼はここだ」。
 犬養首相は、 「早まるな、早まるな」 とそれを制した。
 三上と犬養は執務室にいた。30フィート
〔9m〕四方ほどの広い部屋で、二人は部屋の真ん中に置かれた四角の机に向かい合い、畳の上に座した。それに二人の暗殺者が、一人は犬養の側に、他は対角線状の反対側に、銃を構えて立った。
 犬養は、 「靴ぐらい脱いだらどうだ」 と厳しく言った。
 一家の神聖領域に侵入し、すでに幾つかの部屋の畳を土足で踏みにじっていた将校たちが答えた。 「そんなことは後でよい。我々がなぜここに居るのかは承知のはずだ。死ぬ前に何か言い残すことはないか。」
 それにうなずき、犬養は机の上に身をかかげ、両手を強く机に押し付け、何かを言いたげに頭をあげようとした。
  「問答無用」 と脇にいた霞ヶ浦の大尉が叫けび、備えていた中尉――三日前、陰謀家首領の大川博士から2千円を受け取っていた――が自分の持ち場から飛び出してきて、最初の一発を撃った。犬養は机の上に突っ伏し、口数の多い三上は、傾けた額に一筋の汗を走らせながら用心深く発射し、右こめかみから血を噴き出させた。
 暗殺者たちは立ちあがった。後に三上は、「安らかにお休みを」 と告げたと言うのを常としたが、誰かが 「行くぞ」 と叫び、彼らは待たせてあったタクシーへと駆けもどった。廊下で彼らは警視庁の警官と鉢合わせし、彼らに二発を撃って重傷を負わせた。彼らがタクシーで去った時、まだ誰も死に至ってはいなかった。憲兵の護衛が死んだのは十日後で、負傷した召使いや警官たちはみな回復した。(95)


死の拒絶

 首相に関しては、最初、彼はただ傷を負っただけのように思われた。家族が彼を取り囲んだ時、彼は、 「彼らを呼び戻せ」、「彼らと話がある」 と命じていた。(96)
 一つの弾丸は、左の鼻孔から入り、上あごを通って、右頬から抜けていた。もう一発は、右こめかみに穴を開け、前頭部を通り、鼻梁の裏で止まっていた。主治医の大野医師は、二か所の頭の傷の止血に最善を尽くした。そして、東京帝国大学外科部長の塩田医師――1930年に浜口首相が撃たれた時も彼を手術した――に連絡した。塩田は、このケースを担当させるために、二人の専門家を大学から送った。彼らは、76歳の首相の意識がはっきりしているだけでなく、いまだ理路整然とし、権威的でもあることに注目した。彼らは、首相を動かして出血を悪化させないことが最善と診断した。この驚くべき老人がショックにも陥っていなかったので、症状は危機的ではないと見なされた。(97)
 負傷から一時間と少々たった午後7時、犬養は、彼の脇で閣僚会議を開き、善後策を議論した。彼を襲った暗殺者たちは、その後警視庁本部の前を通る際、空中へと銃弾を発射し、さらには、日本銀行でも、彼らは同様な行動を披露していた。そして最後に、彼らは麹町の憲兵隊本部に着けてタクシー代を払い、自分たちは投降した。(98)
 第二の陰謀団は、四十七士の墓から車で出発し、牧野内大臣邸で一発の手榴弾を投げて、門前で警護にあたっていた一人の警察官に怪我を負わせた。彼らは、次に、警視庁本部の外に手榴弾を投げたが不発に終わった。最後に、彼らも麹町の憲兵隊本部で投降した。
 再三の陰謀団は、新橋駅からタクシーで出発し、日曜の午後で無人の犬養の政友会本部に爆弾を投じ、警視庁本部前を騒々しく通過した後、投降した。
 最後に、愛郷塾のトルストイ主義農民たちは、東京の無防備の変電所の相当な数のトランスに攻撃をしかけた。しかし、電気と爆弾の技術への知識が不足していたため、さほどの損害をあたえることはできなかった。わずかに下町の一画のみが停電したが、それは、怖れを知らぬ一人の愛郷会のメンバーが、高圧線を木の柄のナイフで一刀のもとに切断したからであった。
 事件がさほど深刻な被害を出していないことに安堵して、犬養は午後8時、疲れ果てて閣僚会議を解散した。東京帝大からの二人の医師は、輸血をして、体力の強化をはかることを決めた。彼らは、犬養の長男の腕から 「150グラム」 を採血し、それを 「リンゲル液と混ぜ合わせ」――血液を薄める際の中性液――て犬養に 「注射」 した。この処置は、医学に無知な傍観者からは何らの疑問も抱かれなかったが、犬養の命の維持に関心をもつ外科医からは、愚かしく、命取りにもなりかねないと批判された。150グラム/立方センチメートルの血は、犬養のように、鼻から血を流している者にとっては、砂漠に落された一滴ほどのものでしかなかった。その程度の輸血は犬養に何らの効果も与えぬどころか、もし彼の息子の血液型が本人と合わなかった場合、有害にもなりかねなかった。しかし、数分の内に――何らかの血液型不適合が現れるよりはるか前に――、犬養は突然に半無意識状態に陥り、身体を痙攣させ、あたかも 「意識が混濁」 したかのように、うわ言をいいはじめた。(99)
 
 ゴルフを終えた後、大兄の木戸侯爵は、いつものように郊外の自宅の妻のもとに戻るのではなく、皇居に近い公邸へと戻り、風呂に入った。電話が鳴り、下位の侍従より、上司の牧野内大臣の公邸に爆弾が投げられたことを知らされた。牧野伯爵の安否について聞く前に、彼は、スパイ秘書の原田が老西園寺を連れて上京しようと備えている静岡の旅館に電話を入れた。(100)
 原田はすでに、宿の番頭より聞いたラジオ報道で 「事件」 について知っており、西園寺の海辺の別荘へ、すぐに訪問する旨を告げる電話をすでに済ましていた。西園寺もまた、緊急ニュース放送を聞いており、犬養首相がまだ命を取り留めているようだと鋭く観察していた。従って、この段階では、西園寺は、新しい首相を天皇に奏薦するために、東京に行く用意をしてはいなかった。さらに、西園寺は、自分で数々の質問を持っており、それらに答えがみつかるまで、原田に会う積りはなかった。
 木戸は原田に、そこに留まり、西園寺が尋ねるであろう質問に答えられるよう、電話を駆使して備えているよう助言した。木戸は宮廷に行き、牧野内大臣に報告した。木戸は、西園寺は相変わらず気難しく、もし事件が余りに長引いた場合、彼は周囲の不平分子を集めるだろうと述べた。(101)
 裕仁の世話をしながら、木戸と牧野は犬養が死ぬのを待ち、西園寺が上京するまで国務をとる臨時首相の認証式典の準備をした
(102)。犬養が命をとりとめている間に、裕仁は自分のお抱え医師を犬養のところへ送り、容態を診させた。木戸の日記によれば、裕仁の医師を派遣したのは午後8時20分で、血液とリンゲル液を犬養に注射したのは8時10分と、丹念な記録がみられた。(103) 


 つづき
 「両生空間」 もくじへ 
 「もくじ」へ戻る 

           Copyright(C), 2011, Hajime Matsuzaki  All rights are reserved.  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします