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第十五章
     暗殺による統治(1932年)
(その6)


叛乱の脅し
(104)

 犬養が生死の境をさまよい、宮廷がじれったくそれを待っている間、北進派の若手参謀将校の一団は、 「この決起を無駄には終わらせないよう」、さらなる行動を要求して陸軍大臣官邸に集合した。彼らは、陸軍官僚組織の部、課、班のそれぞれの長として、裕仁をして遂に絶対君主にさせるべきこのクーデタを、まやかしや冷笑に終わらせることがなぜ許せるのか、その理由を知ることを求めていた。荒木陸軍大臣――北進派の老練論客――は、海辺で週末を過ごすとしてわざと身を隠し、参謀次長の真崎大将を残して、自分に向けられた批判をはぐらかしていた。真崎は、日本人がよくする、責任を分担させようとして、他の上級将官たちを集め、自分の背後につけさせていた。その中には、バーデン・バーデンの三羽烏や陸軍次官の小磯――後の神風首相で、南進派主唱者のひとり――らがいた。
 小磯が陸軍参謀総長の閑院親王――皇族中の長老――の代理であることは良く知られていたため、彼が会議の口火を切った。彼は、このクーデタはただ、政党の腐敗より国を救うために組織されたものである、と説明した。彼は政党政治家の害毒を余りに熱っぽくこき下ろしたため、荒木陸相の友人である真崎大将は、唐突にその熱弁の腰を折って言った。陸軍に多弁は無用だ。陸軍の誇りは規律にあり、将校集団の誰もが、天皇へ服従し、その理由を問わないことを誓っている。そう言い残して、真崎はその部屋から出て行ってしまった。
 北進派の五人の若者が、真崎の後を追い、陸相官邸のロビーで彼をつかまえた。彼らは一人の中尉に率いられていた。この将校は荒木陸相の近侍で、彼は、その哀れなクーデタに参加して自らの将来を棒に振っていた陸士の11人の士官候補生を引き込む援助をしてきたことで、彼もその立場を失っていた。真崎大将は、追っかけてきた連中が怒りに燃え、拳銃を携えているのを見て、彼らを玄関脇の控えの部屋に先導し、そこで彼らなだめようととした。彼らは、座することは拒否したが、そこで話には応じ、それはほぼ二時間におよんだ。
  「我々の同志は、すでに全国で準備を終えました。彼らは行動を望んでいます。我々は今夜にでも、決起せねばなりません」、と彼らは叫んだ。
 真崎大将はじっと忍耐しながらその話を聞き、その間、何の言葉も発さなかった。次第に、彼の実直な表情に関心と同情がうかび、それは効果を持ち始めた。声をからして主張する彼らに、真崎はただこう言った。 「陸相は決起しないし、私もそうすべきではない。これは荒木大将の意見であり、私の意見でもある。」
 真崎は若者たちを鋭い目で凝視しつつ、彼らの誰かが拳銃を発射するかもしれないと覚悟した。だが、誰もそうしないのを見定めて、彼は側近を呼んで三羽烏の二人を来させ、そして、外で待機していた三人の上級将校とともに部屋に入れて、その五人の若い叛乱者と、一対一の話をさせた。三羽烏のうちで最も熱心な北進論提唱者である二番手烏の小畑敏四郎は、彼の相手に言ったことをこう記録している。 「自分自身も、今夜の出来事を、実に残念なことと感じている。我々は、君らやその他の者のように、国家改造を実現させる計画を、着々と準備してきたのだが、すべてが突如として、水泡に帰してしまった。」
 そのような同情を表した後でも、その五人の中尉たちは、何事もなく自分たちの宿舎に戻ることを拒否した。それどころか、彼らは、憲兵に逮捕され、連隊の営倉に入れられることを望んだ。真崎大将は、やむをえず彼らに従った。そして彼は数週間、彼らの身柄をあずかり、何の告発もすることなく、釈放した。四年後の1936年、彼らの全員はふたたび軍事クーデタに参加し、うち二人は銃殺刑となる。



犬養の臨終

 侍従武官長が裕仁に、陸軍省で生じている騒動について報告したのは、午後9時ころだった(105)。それとほぼ同じころ、牧野内大臣と葉巻好きの鈴木侍従長には、西園寺が興津の別邸から幾度も電話をかけているとの報告が入りはじめていた。その後すぐ、牧野の秘書の木戸は、犬養の容態を確かめるため、皇居から首相官邸へ車で到着した(106)。そして彼は、犬養の秘書――前思想警察地方署長――とひとこと言葉を交わし、犬養に付き添っていた宮廷の医師の診断を聞いた。
 高齢ながら驚異的な生命力を見せていた犬養は、午後9時30分、意識を完全に取り戻し、 「50ccの輸血」――コップ四分の一にも満たない――を受け、 「少し気分が良くなった」 と言った(107)。これが彼の最後の言葉だった。医師の一人が彼に鎮静剤を注射した。彼は昏睡状態に陥り、引き付けを起こしたが、しかし、まだ命は保っていた。
 木戸は午後11時、自邸に戻り、こう日記に記した。 「犬養の容態は、現実的にみて望み薄」。横になってまどろんでいると、深夜をやや過ぎたころ、侍従からの電話で宮廷に出向き、新しい暫定内閣の任官に立ち会った。その侍従によると、犬養は午後11時20分に逝去したと、天皇に報告された(108)
 午前1時、木戸は宮廷に戻りながら、報道が時期尚早であることを知った。 戦後明らかとなった連合軍諜報部によって開かれた憲兵のファイルによると、午前2時36分に医師による宣告があるまで、犬養は死んでいなかった。そのニュースが天皇に知らされると、もちろん、その死が至上命令で、裕仁は、通常のしきたり通り、その死が現実のものとなるまでその任官式典を遅らせた。木戸は、宮廷の控えの間で、二時間ほど待たされていた。だが遂に、月曜日の午前3時15分、高橋大蔵大臣が暫定の首相に選任され、裕仁は就寝した。木戸は宮廷に留まり、事務手続きを済ませ、ほぼ午前7時まで、極度に神経の高ぶっている宮廷人たちと事態の善後策について討議した。(109)


容赦なき弾圧(110)

 午前8時30分ころ、木戸の公邸で電話が鳴り続けていた。就寝してから二時間にもならず、石のように眠っていた木戸も、ようやく眼を醒まし、布団の中から手を伸ばして受話器を手に取った。それは、静岡からの原田の電話だった。そのスパイ秘書は、首相奏薦者、西園寺のために、ほとんど夜通しで、電話での情報収集をしてきていた。日の出の時、原田はその老人がすでに活動を始めていることを知っているので、その海辺の別邸を訪問し、報告をしようとした。しかし西園寺は、異例な無礼さで、彼に会うことすら拒絶した。そればかりか、西園寺は、まだ上京する積りはなく、原田に東京へと戻り、西園寺が彼と会う用意ができるまで事態の推移を観察するようにと、召使を通じて言ってよこした。
 午前9時、木戸は、西園寺が新手の抵抗に出そうであるとの報告をもって、宮廷へ戻った。わずか数時間の睡眠しかとれなかった69歳の牧野内大臣が、天皇の寝室をたずねると、すでに裕仁が起床し、着替えも済ましていた。牧野は、裕仁と協議の後、鈴木侍従長に命じ、西園寺に天皇に謁見するようにとの公式召喚状を書き、侍従役会より正式に手配された使者の手により興津へ届けるよう指示した。伝統として、日本の貴族たちは、そうした呼出しには自害を覚悟の上でなければ、それを拒絶することはできない。それは、裕仁が馬鹿げた振る舞いに忍耐しきれないとの、西園寺への直裁な意思表示であった。 
 午前10時、木戸と牧野が朝食を終える前、第二の危機が発生した。暫定首相の高橋が宮廷に参内して、内閣が、徹夜の討議の後、彼に仕えるのを拒否したと報告したのであった。従って、彼は内閣総辞職を申し出る義務を負っていた。その後、5時間にわたり、裕仁は個別に各閣僚と会い、ともかく、暫定管理内閣として現職に留まるように説得した。
 午後になって裕仁は、時間をさいて西園寺に宛てた公式書簡に目を通した。それは余りに内容がなく、古式蒼然としていた。彼は直ちにその書き換えに取り掛かり、表したい要点を一気に書き出した。それらの諸点は余りに率直かつ単刀直入で、牧野や鈴木はその日の午後を通し、それを伝統にのっとった宮廷用語様式に書き換える必要があった。木戸はその結果の出来具合を見ようとその完成を待ったが、裕仁が最終的に許可した文面は、秘密の情報に満ちていると宮廷人の長老たちに判断され、たとえ木戸ですらそれを見ることが許されなかった。
 木戸は、無念さと疲労困憊にとらわれて、午後5時、帰宅した。そして、熱いお風呂に入って精気を回復させ、午後6時、元ソ連大使と共に、原田邸での晩餐会に出かけた。そこには、近衛親王や11人クラブの疲れ果てた4人のメンバーも参加していた。前ソ連大使は、裕仁の陸軍内の北進派との一時的な共同歩調は、満州国政府に何かが成されない限り、難題をもたらすこととなるだろうと全員に警告した。すなわち、北進派の若い理想主義者たちは、その新植民地に命を賭しており、それを理想国家にする積りである。しかもそうした冒険主義者たちは、今や、宮廷の後押しがあるかのごとく自任しており、思いつく限りのいかがわしい謀略を用いて、満州をしゃぶりつくすことに血道をあげている。だがその新植民地は、そのような搾取には耐えられまい。その地は、未開発で人口も限られている。その産物は、現在では日本の産物と競争してゆけるが、その広大で寒冷な肥沃な大地は、日本からの大量の移民者を引き付けることはないだろう。したがって、その地を生産性のある植民地とするために、日本は、暴利をむさぼる者の殺到を抑え、計算尺や水準器を携えた技術者たちを送りこむ必要がある。そしてその政府は、その計画が満州侵略を可能とさせた陸軍の戦略家と政治家である 「石原や板垣のような偉大な精神」の手にいっそう頼らなければならないだろう。そのような改革が貫徹されない場合、北進派の観念主義者たちは、絶え間のない問題の元凶となり、本国での国論分裂をもたらし、外国での叛乱と分離主義者を生み出すこととなろう。
 木戸は、こうした前大使の報告を、 「驚きをもって」 聞き、礼を失しない程度に、出来る限り早くその場を辞して帰宅し、それについて思考をめぐらした。そして彼は就寝前に、自分の下した結論をこのように記した。 「厳しい弾圧政策が必要。その理由は、一部、その事件(犬養の暗殺)が直接行動(命令ぬきの叛乱部隊の行動)と呼応して闇雲に起こったかに外見されるが、本当は、そうした事件が際限なく引き続くことにもなれば、国家本体(天皇支配制度)の基盤そのものを揺るがすものであるからである。」
〔( )内は原著者の訳注〕


新政権(111)

 翌日の5月17日、火曜日、裕仁の使者は興津に到着し、直ちに東京に来るようにと命ずる天皇の召喚状を手渡した。西園寺は、その召喚を公然には拒否しなかったが、現行の政治事件についての不案内を丁重に抗議し、状況を調べる時間を与えてもらいたいと請うた。天皇の使者は、もし西園寺が後に上京するとしても、それがどの汽車によるのかも告げられることもなく、東京へと引き返した。 
 当惑したその使者に続いて、陸軍官僚に代わる第二の代理人が興津に到着した。一行は、閑院親王の子分の南進派で居丈高の小磯陸軍省次官と、荒木陸相の子分の北進派で参謀次長の真崎に率いられていた。この対称的二人に、憲兵司令官とバーデン・バーデンの三羽烏の二番手、小畑少将が従っていた。これら四人の陸軍軍人は、北進派と南進派の指導者たちが互いに協力して超越内閣を準備しているが、もし西園寺が他の政党内閣を推薦するようなことになれば、陸軍の調和と軍紀を保つことは困難となる、と西園寺に警告した。
 西園寺は、この陸軍代表に何ら確かな言質を与えることなく、東京へと引き上げさせた。しかし、西園寺は荒木陸相を好み、信頼もしていたがゆえ、将来の政策決定に南進派が北進派を含める意志があることに、おおいに態度を和らげていた。そしてそれから数時間の内に、スパイ秘書の原田は、西園寺が上京した際、彼が会いたいと望むだろう人物たちとの面会の手はずを自分で取り付けていた。その手配のいくつかは、原田にとっては、ただ確認をとるだけでよいもので、その最初のものは、極めて手際よく、犬養首相が暗殺される三日前、丸一週間前から準備されていたものだった(112)
 翌、5月18日、水曜日の朝、西園寺は、彼の避難先の興津から 「情勢調査」 を続けていた。裕仁の二人の先達、大兄の木戸侯爵と近衛親王は、北進派の地位はその間にさらに強固さを増しており、西園寺を直ちに上京させるか、さもなくば、計画中の超越内閣を北進派内閣とするかのいずれか、ということに同意見だった。汽車に乗ってばかりの原田は、再び西園寺を訪ね、近衛親王自身が裕仁からの譲歩を持って興津に来るとの提案をした。西園寺は 「よろしい」 とそれを受け、原田は東京へ電話でそれを知らせた。それから30分もしないうちに、宮廷のリムジン車が東京駅頭にキーっという音ともに着けられた。近衛と木戸がその車から跳び降り、午後1時に南方へと向けて発つ急行に乗るため、大股で急いだ。木戸は近衛と横浜まで同乗し、西園寺に何を話すべきかを話し合った。四時間後、近衛は海辺の西園寺の別邸に到着し、直ちに自分の敬う親戚との会見に入った。近衛は西園寺に、北進派指導者の荒木は新内閣でも陸相として留任し、幾つかの閣僚外大臣職も政党政治家に与えられる、と約束した。その一時間後、近衛はその老人がその翌日の5月19日木曜日に上京するとの約束をとりつけ、その別邸から現われた。近衛と原田は地元の旅館へと撤収し、その成果を酒と芸者で祝いあった。 
 翌日の19日、犬養が逝去してから三日目、西園寺は近衛と原田とともに、特別列車に乗り、北へ向かってその退屈な旅へと出発した。東京に着くと、西園寺は、住友財閥が彼のために保持している屋敷におさまり、一連の政治的協議に取り掛かり、そのいずれにおいても、必ず、新内閣の指名に話がおよんだ。
 近衛親王は宮廷にその経過を報告した。裕仁はその交渉内容に同意し、侍従長の鈴木貫太郎を呼び、超越内閣のメンバーの選定に適用される次のようなガイドラインを、西園寺に伝えるよう要請した。
  「現実のファシストでなく、比較的中庸な哲学と理想をもつ人物で、過度に戦闘的でなく、そして人格問題のない人を選ぶこと。」(113)
 鈴木侍従長は、この簡潔明瞭な命令を、西園寺の健康のための天皇よりのもろもろの心配や憲法遵守の夥しい断言で飾り立て、そして同夜、その文書を西園寺に正式に手渡した。六週間前の4月4日に裕仁の大兄たちによって選ばれた超越内閣の首相を、西園寺はすでに一時的ながら受け入れていた。それは、穏やかな74歳の海軍大将、斎藤実――明治天皇の侍従武官や長く朝鮮総督を勤めた――だった。それでもなお西園寺は、即座には斉藤大将を天皇へ奏薦しなかった。裕仁の周囲の若手近代化主義者は、すべての手配を裕仁にとってできるだけ容易なものとするよう配慮していたが、その老人は、その入念に包装された包みに自分の印を押す前に、あらゆる角度からの吟味の必要を説いた。
 5月20日、金曜日、西園寺との面会の中で牧野内大臣は、すべての主要地方都市の若手海軍将校が、陸軍の独裁を煽動するために上京する準備をしている、と力説した。そして、「貴殿が何をお感じになっているかはともかく、東京にやってくること自体は何ら犯罪行為ではないので、彼らは逮捕されないのです」、と牧野は薄笑いを浮かべて言った(114)。その日の午後、思想警察の政治捜査部長は、西園寺派の活動家はすでに当局により完全に掌握されていると警告した。またその思想警察官は、市民戦争の事態を大いに憂慮するとしてこう言った。 「財界の中のまだ威嚇が許されていない団体によって組織されたいわゆる護憲運動が、結集して上京し、首都を焼こうとしている」。
 翌5月21日、土曜日の朝、警視総監は西園寺に、 「長期化する危機によって、警備にあたる警察は疲れ切っている」ので、すぐに天皇に会ってほしいと懇願した。その夜、西園寺が私邸とするアパートに戻ると、彼の二人の娘の母親で、彼の以前の妾が彼を待っていて彼を驚かせた。彼は彼女が嫉妬――一次大戦中、奔放な花子を妾としたからではなかった――から彼のもとを去って以来、彼女に会っていなかった。そうした感傷的な場面に遭遇し、82歳の西園寺は、日本の市民社会の平和をなんとしても守り抜こうと決意した。
 犬養の死から一週間目の翌5月22日、日曜日、西園寺は遂にその意志を曲げ、儀礼的義務を果たすため、宮中に参内した。相変わらず、宮中での慣例の昼食は避けたものの、天皇との儀礼的な謁見は果たした。それは、午後2時から2時30分までだったが、彼に期待されている義務、すなわち、次の首相を斉藤大将に奏薦することは済ませた。
 老斉藤大将は宮中に召喚され、裕仁にこう述べた。 「これは思いもよらぬことです。私はこの道の経験はありませんが、自らの最善を尽くします。」
 その二日後、斉藤大将は、 「挙国一致内閣」 の閣僚名簿を持って、再び宮中を訪れた。その名簿上には、幾つかの予期せぬ名が含まれていたが、それは六週間前に裕仁の大兄たちが選んだものであった。その新閣僚のうちの一人の大臣のみが、国民の支持を背景とした代表であった。それは荒木陸軍大臣で、分離主義的な北進派を率い、裕仁の特務集団の胎内で望まれぬ成長を見せながら、その時には、堕胎させるにももう成長しすぎていた。
 裕仁は、荒木陸相と北進派が一角を押さえた超越内閣を、彼らがそれ以上凌駕しないよう、ある縁故主義的な予防措置をとった。すなわち、彼は皇后のいとこの伏見海軍参謀長に海軍元帥の地位――海軍における陸軍元帥と同等で五つ星――を与え、最高軍事会議メンバーに昇格させた。その意味するところは、最高軍事会議の政策決定の中核をなす元帥府が、いまや彼に都合よく構成され、三人の皇族が二人の国民代表と対峙することとなった。


裕仁の業績

 かくして、日本が普通選挙による政府をもつという経験は終了することとなった。犬養の暗殺は(115)、彼の政友会を沈黙させることに成功し、それからの13年間、日本人はその時期ごとに選挙にはでかけたが、それは無意味な、少なくとも時の問題に空しい意見を表す程度のことに過ぎなかった。この後の数ヶ月間で、財閥は国家規模の軍備装置の歯車と化し、裕仁の祖父や曽祖父から伝えられてきた軍国化政策への唯一の反対は、むしろ陸軍の 「軍国主義者」 から出てくることとなった。
 最後の手榴弾が不発に終わり、最後のタクシーが憲兵隊ビル前にタイヤをきしませて止まり、そして最後のこけおどしを西園寺が描き裕仁をいらだたせた時でも、わずか4人、すなわち、犬養首相、その警護員、壇男爵、そして井上蔵相、が死んだだけだった。その一年後、ヒットラーがドイツの権力を握った時、51人の政敵が暗殺され、帝国議事堂が焼かれた。そしてヒットラーの名は一夜にして、世界中で悪魔の代名詞となった(116)。裕仁の場合、その目立った三つの小叛乱の後でも、従来のように注目されずに置かれ、その姿はいまだにタブーに覆われ、礼節の模範であり続けた。そうしてそれは、一人の天皇がそうであることを助け、千年にわたる頼るべき策謀の経験を助け、そして、その東洋の一言語――日本の大学教育と同等なものを受けた西洋人はいない(117)――をほぼ全国民が使うことを助けた
 裕仁の特務集団の中でさえ、そうした小叛乱の詳細を、本書に記されているほどのことも知られていなかった。戦後日本でさえも、この本以前には、謀略の話が順を追って話されることは決してなかった。ともあれ、当時の日本人の多く、おそらくその大半は、皇位が勝利し、日本の他の勢力が追いやられたと理解していた。裕仁は、この後で示されるように、自分の無垢を大衆に信じ込ませることに長い道のりを行かねばならなくなる。批判家は、犬養首相への襲撃をもじって、 「その暗殺は二度されねばならなかった」 と言った
〔二度目は日本の政党政府の死〕。社会では、その小叛乱は、漠然とした 「5・15」 とか 「5月15日事件」との名称で呼ばれた。
 5・15への自らの反応を表わすにあたり、日本人は注意深く言葉を選び、それを 「歴史的一里塚」 と呼んだ。農民はひとと話す際、伝習にならって、「仕方がない」 と繰り返した。ある大阪の新聞編集者はアメリカの特派員に、 「私たちは、こうした時にはよく、天皇やその助言者は自分の意思決定をすべきであると感じたものです」と述べた(118)。5月19日の犬養の葬儀において、西洋の記者は、夥しい高価なランの花が白木の棺の上に置かれ、二千人にもなるだろう沿道の見送り人たちの言い表しようのない無気力な表情に注目していた(119)。犬養暗殺の日、関東軍司令官の本庄は、その日記に、 「統治者の監視の下で行動中の軍人たちが、今日、向こう見ずな禁ぜられた行為をもってその権威に挑んだ(120)」と記録した。
 裕仁は、混同し不安に感じている臣民をかんがみて、過去六ヶ月の間に相次いだテロによって何が成し遂げられたのかを国民に説明する、公的声明を発表することを決めた。宮廷内の二つのグループによって書かれた曖昧模糊な宮廷様式の二つの草稿が用意されたが、その双方とも裕仁によって不適切と見なされた。そこで、大兄で内大臣秘書の木戸がその微妙な仕事を自ら引き受け、裕仁が承認しうるものに改めた。木戸の草稿は、明治天皇の二つの偉大な業績は、国民皆兵制度と自生の日本国憲法――他の議会制度機能を凌駕する天皇の絶対権力を明文化した――の制定であると述べていた。だが、木戸が言うには、これら二つの偉業と理念は、第一次大戦中に見失われてしまった。ところが今や、犬養首相の暗殺が、今一度、それを視界に取り戻しつつあるとした。裕仁は、この見方を、犬養の死から三週間後の新内閣への公式挨拶の中に取り入れた。明治天皇が、藩と身分制度と農奴制を廃止し、国民教育制度と誰しもの機会均等を確立して、国民大衆の向上をもたらして最も讃えられたことを、一人の大臣も、一人の論説記者も、裕仁に気付かせはしなかった。


手ぬるい扱い

 三段階の陰謀が首尾よく終わった後、皇位は、その成功に貢献した忠誠な脅迫者や暗殺者のすべてを手厚く面倒をみた。スパイ機関の蜘蛛こと田中〔光顕〕、89歳、に生涯仕えた者が、新たな超越内閣の内務大臣となり、警察を管轄した。その彼の庇護のもとで、警察は、法律に従わない者の逮捕にめざましい活躍をみせた。裕仁の大兄のおよそ半分は、東京帝国大学法学部を出ており、その人脈を通じ、彼らは、裕仁の体制下の司法と警察両組織を固めることができた。
 特務集団の首領、大川博士は、犬養暗殺の数日後、検察総監のもとに自首した(121)。総監は彼を、ほとんど一ヶ月を要して、非公式な雑談スタイルで、自ら尋問した。そして6月14日の夜、犬養暗殺の30日後、総監は新内閣の法務大臣に電話を入れた。 「用件があるんだが」と彼は言い、次にすぐ、大川博士がその電話に出て、同大臣を仰天させた。大川博士は警察によって手配中のはずだったが、いま、法務大臣と軽快に会話を交わしていた。その電話交信の中で、大川博士はくだけた様子で、翌日、土浦――霞ヶ浦に最寄の駅――に行く予定であると明かした。そう告げられて、法務大臣は直ちに内務大臣に通告し、もし警察が真剣に大川博士を逮捕する気があるのなら、その土浦行きの列車で、彼を捕まえることができると告げた。
 翌日、1932年6月15日の朝、東京の上野駅のプラットホーム上で、大川博士を見送りに来ていた彼の無事を祈る人々の群れに、刑事らがまぎれこんだ。だが、そうした人々の数が余りに多いので、刑事は、彼の逮捕を後にした方が良いと考えた。刑事たちはみな切符を買い、その列車に乗り込こんだ。そして大川博士に近い席に陣取り、列車が土浦に到着した時、下車しようとする彼を混乱なく逮捕した(122)
  「自宅で逮捕ができただろうに」 と、無実に傷がつけられたかのように大川は言った。
 二週間後の6月30日、大川博士の秘書も逮捕された(123)
 7月10日、三段階の陰謀の初期に資金を提供した徳川男爵が、日本法律家協会のクラブで、丁重に尋問された(124)
 愛郷塾の指導者、橘――事件では、東京の変電所へのとんまな襲撃を組織した――は、 「本を執筆するため」 に満州へと逃亡した。その本の中で、彼は日本人に 「米国を打倒」 し 「日本帝国の王道を世界へと広げよ」 と呼びかけた(125)。その彼は6月25日、関東軍の憲兵隊に自首し、絶妙に組み立てられた特別扱いの一儀式を演じた(126)
 大洗のスパイ機関の前剣道塾の校長――空家が危なくなった後、天行会道場を血盟団に提供した黒龍会の頭山の秘書――は、後の1932年9月、自分の逮捕を交渉した(127)。黒龍会の頭山の息子の秀三――天行会道場を用立てた――は、犬養暗殺のほぼ6ヶ月後の1932年11月5日、自ら警察の保護観察下に入った(128)
 だがそうした特別扱いは、日本の警察のおしなべた特徴とは言えない。1932年10月30日、11人の社会主義者と共産主義者の指導者が秘密会議を開いていた熱海のホテルを、防弾チョッキで身を固めた60人の警官が急襲した(129)。長い銃撃戦の後、生存者は 「生け捕り」にされた。四日後、そのうちの一人が、 「重度の結核、脚気、および、逮捕への過度な抵抗によって死亡した」 と発表された。彼は無縁墓地に埋葬され、その葬儀に訪れた数人の会葬者も逮捕され、尋問、拷問された。数日後、血盟団の年老いた従犯は、在宅拘禁中に妻の腕の中で死亡した。彼には団の組織葬が催され、大兄の近衛親王を含む数百人の右翼が参列した(130)
 遅々とした逮捕と温情な尋問の後、5・15の殺人犯は、法廷での長々とした一年を送り、とりとめのない傲慢な証言をし、何ら重要なことはしゃべらなかった。その公判は、1933年の後半になるまで開始されず、彼らの主張は新しく始まった日本の政治――後の章で述べられるように――に重なるものとなった。そして、殺人犯の誰一人とて、重罰は科されなかった。収監された54人の殺人犯とその共犯者のうち、1935年末までには、六人を除く全員が、再び自由の身となっていた(131)。暗殺集団を率い引金を引いたこの六人も、1939年と1940年には釈放された。
 5・15の後、裕仁の直近の人たちの間で、名ばかりの修正がなされた。 「空飛ぶ皇族」の山階親王――霞ヶ浦の飛行士たちを煽動してきた―― は 「神経衰弱」 を起こし、現役から引退した(132)。彼は今日でも隠遁したままでいる。彼の恩師、井上司令官――教導師井上の兄――は、引退して予備役となったが、数年後、飛行教官としての専門技能が求められて復帰した。(133)
東久邇親王

 スパイ機関の老蜘蛛こと田中は、大洗の常陽明治記念研究所を常陽明治記念館へと改め、博物館として公開した(134)。その公益団体としての発足を祝い、彼はそこで祝賀会を催した。それに、天皇の伯父、東久邇親王が皇室を代表して参列した。その帰路、東久邇親王は、5・15事件で電力供給の遮断に失敗して服役中の爆破犯の門弟を激励しようと、無思慮に愛郷塾に立ち寄り、スキャンダルの種となった(135)。そのスキャンダルのもみ消しは容易ではなかったが、東久邇は、愛郷塾生の忠誠心の発揚には成功し、今後の陰謀の際、彼らの献身を期待できるようになった(136)
 牧野内大臣は、5・15事件の後、多数の匿名の手紙を受け取った(137)。それらは、彼の家に投げ込まれた爆弾は 「奇妙で本気のものではない」 と抗議するものだった。牧野はそうした手紙は無視したが、北進派の理想主義者、北一輝の民間人門弟であるその送り主たちに、警察による威嚇を加えさせた。北進派にしてみれば、警察は決して牧野内大臣を尋問しておらず、極めて微妙な逮捕の前には、その度ごとに、彼の許可を求めていた。
 大川博士は、1932年6月に逮捕に応じた際、牧野内大臣や裕仁の側近の幾人が署名した何通かの重要な私信を身に着けていた(138)。1935年に彼が出獄すると、裕仁は即座に彼を、南満州鉄道の東亜経済調査局々長と、法政大学 「大陸学部」の学部長の職に着かせた。
 まったく無知のうちに血盟団に彼の施設を使われた黒龍会の頭山は、犬養首相がその死の前に書いた彼を賞賛した手紙を公表することで事なきをえた。頭山は、犬養の死から6週間も経ていない、1932年6月26日の彼の77歳の誕生パーティーの席上、この推薦状を声高に読み上げた。それに、犬養はこう書いていた。
 血盟団の教導師井上は、刑務所でよい扱いを受けたものの、獄中での8年間を過ごした1940年まで、その拘禁から解かれることはなかった。しかし、その後、彼は大兄の近衛親王の横浜の屋敷に木戸侯爵の情報収集役として住込み、戦時中の物資の乏しい時代を、近衛親王の制限のない配給票によって肥った浪費家となって享楽的に過ごした。(140)
 犬養首相のこめかみから〕鼻まで巧みに打ち抜いた三上航空中尉もまた、1940年に仮釈放され、その後の21年間を無職ながら快適に過ごした。だが1961年6月5日、彼は、アメリカによって訓練された近代的な自衛隊の支援を得ようとクーデタを企んだとして再び逮捕された。彼の不成功に終わったこのクーデタは、日本の報道界からは、 「三無事件」――汚職、税金、失業のすべてを無しにする空論的試み―― として片付けられた。三上は短期間投獄されたが、公表のないまま釈放された。1965年、60歳代後半となった彼は社会活動に復帰し、裕仁が後援する愛国的クラブで講演生活をしている(141)
 東洋の宝石については、その小柄な挑発的満州皇女は、上海での見せかけの戦争の誘発と、親族の溥儀を傀儡皇帝に仕立てることにおしげもなく献身し、日本陸軍に服務と衝撃の歳月を与え続けた。上海事変の終結後、彼女は、彼女に邸宅の使用を許したある日本の財閥の支店長とねんごろとなった。彼女は、愛人の田中少佐の特務機関の金で護衛を雇い、その護衛ともベッドを共にした。彼女は、田中少佐をなごませるため、ある上海のレストランより、 「歌う女」 と契約した。彼女はその女とも寝た。田中は後年、彼女の行動は 「常識を逸脱している」 と表現している。嫉妬にかき乱され、浪費にすりへらされて、1932年半ば、田中は彼女を満州へと移させた。そこで彼女は、傀儡皇帝溥儀の主任軍事顧問である多田駿
〔はやお〕少将の妾となった。しばらくの間、多田は、彼女率いる美男で大男の満州兵士の分隊とむつましく振舞うのを許していた。(142)
 東洋の宝石は、1930年代半ばには、他の有力な愛人たちを持った。二次大戦中では、容貌の衰えを見せ始めた彼女は、北京の中国人社会の “税関” となった。つまり、そうして彼女は、日本の憲兵によって拘留された裕福な商人の身代金の取立てを仕事とした。その収益でもって、彼女の満州の祖先、エホナラ式に――19世紀中国の皇太后のように――、彼女は役者や女給を自分のなぐさめに買った。戦後の1948年、東洋の宝石は、蒋介石の戦争犯罪裁判の命令で斬首された。その判事は、法廷での意見陳述の中で、ほとんどを日本の飛行機に搭乗して、中国の偉大な大地を――女だてらに――
軽蔑をもって見下ろした、と告発した。


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