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第五部


軍紀の粛正





第十七章
北進か南進か(1933-1934)(1)
(その1)



ショウの見下し(2)

 1933年2月22日、日曜日、著名なアイルランド生まれ英国人劇作家、ジョージ・バーナード・ショウ(77歳)が、連盟と熱河省間の危機の真っ只中、東洋に到着した。北京においての最初の記者会見で、彼は語った。 「もし、満州の3千万中国人のすべてがアイルランド人のように愛国者となるならば、満州問題は解決するだろう」。そう中国人の憂国心に問いかけつつ、次に、日本人に言った。 「日本兵は、あらゆる中国居住民に銃を突きつけているが、愛国心を抑えようとすることは馬の頭に座るようなものだ。ただ危なっかしいだけで何もできない」。
 その一週間後、ショーは日本に到着した。そして一人の日本人記者に言った。 「私はどんなスポーツも大嫌いだ。悪いマナーと敵愾心を起こすからだ。国際的スポーツ試合は戦争の種をまくようなものだ」。二日後、熱河作戦について、彼はこう述べた。 「ヨーロッパでの戦争は帝国主義的なもので、三つの帝国を滅亡させた。日本人は、自分たちの帝国主義が、共和制〔の出現〕に終わるものであり、その支配者たちが欲していることはそんなことでは全くないということを、考えたことがあるのだろうか。ヨーロッパの帝国主義者たち、あるいは、彼らが残したことは、1914年に回帰する目をもたらしたことだった」。そして彼は、日本が産児制限を採用することを要望して付け加えた。 「どうして日本は、拡張政策を維持すべきで、そして、より低い文明の流入を嫌う他の国を倒す権利をなぜ主張するのか、〔人口膨張以外に〕その理由がない。」
 一週間にわたり、ショウは、 「日本人が誇りとする近代都市のおぞましさ」 や 「戦争、愛国心、そして国際連盟の無益」 を徹底してこきおろし、日本の幻想を丸裸にした。そして、東京での最終日の3月8日、ショウは、北進派で饒舌な荒木陸軍大臣と、二時間にわたって、好敵手同士の会見をもった。荒木は、裕仁と皇后の父親、故久爾親王が支援する、日本の生物兵器研究に対する逆諜報の煙幕を張ろうと、その好機に飛びついた。
  「ヨーロッパの諸国が、細菌を武器とする研究をしていることを承知しております」 と荒木が切り出した。 
  「私は細菌を恐れはしませんが、しかし爆弾はそういうわけには行きません。爆弾が落とされたら、子供たちは逃げねばなりません」、とショウは応えた。
  「日本では、進んだ武器をもつ資金が不足しており、そこでもっとも経済的な方法は、6千万人が竹やりをもって戦うことなのです」 と荒木は言った。
 これにショウは、「私は怠け者で臆病です。ですから、防空壕に逃げ込むのも面倒です。私は銃声に身震いしますが、地下壕にこもることはもっと興味を欠くことなのです」 と応えた。
  「怠惰は勇気だ」 と荒木は宣言し、そして続けた。 「貴殿は禅の悟りの境地に達しておられる。私は貴殿が地震を体験されていないことが残念です。日本では、怠惰でなくては暮らせません。地震は災難でありながら、同時に、国民精神をつくる宗教的開明でもあります。地震の際には、警報は出ません。そういう地震のことを思えば、もはや、空襲は恐れるものではないのです」。
 対話の最後にショウが言った。 「もし閣下がロシアに生まれていたら、スターリンより偉大な政治家となっていたでしょう。私は、中国人が日本本土に上陸してくるまでここにいて、閣下と話をつづけていたと思います」。


北進指導者(3)

 陸軍大臣荒木貞夫は、面長で繊細な顔をもち、大きな天神ひげをつけた、明敏な小男だった。1932年から1933年の初めの間に、彼は、裕仁に対抗しうる唯一の日本人指導者として頭角を現した。政友会政治家、陸軍将校の北進派理論家、西園寺側近の国際派貴族、そして多くの事業家や地下組織の親分たちは、すべて、そのひょうきんで善意の政治的天才を支持することで、お互いの違いを無視することができた。
 荒木は、しだいに顕著となりつつある天皇の南進の野心に、アメリカとの自滅的な戦争の可能性を見て反対していた。日本をこの破局から救うために、彼は、悲劇の可能性のより少ないことが予想される、ソ連との戦争を指図していた。彼はことに、その戦争を1936年に始めることを提案していた。1936年が日本の歴史にとって曲がり角となるという神秘的な考えは、はるかに遡る1918年に、大川博士やスパイ機関の他の知識人による予言的著作に書かれていた。それが1933年までに、あらゆる純正な右翼たちの世紀末的教理の中に明快に謳われるようになっていた。そして、36年倶楽部ができ、陸軍予備役向けの36年雑誌も発行されていた。荒木は、36年の重要性について、長い時間をかけて詳細に論じることができた。彼のその予言への意気込みは、本心と裏腹のものでも、狂気の沙汰でもなかった。軍事力構成を比較した細心な諜報予測に基づき、日本は、その前でもその後でもない、1936年にこそ、ロシアを破る最適の機会を迎えるというものであった。
 荒木のロシアへの敵意は、職業的かつ深遠なものだった
(4)。彼は、1909年から1913年まで、ロシアにあって、少佐として日本の諜報機関に仕えていた。彼は 『資本論』 を読み、ロシア革命の数年前より、ボォルシェビズムの脅威について指摘を始めていた。彼は、裕仁がマルクス主義者に盲目であると見て、1932年中、彼の眼を開けさせようと、幾度も謁見をおこなってそれを試みた。しかし、裕仁は、寵臣の経済顧問、高橋是清大蔵大臣を信頼していた。頭脳明晰、非正統派、無節操な76歳の高橋は、ケインズ派経済人として時代に先んじていた。彼の助言は、日本が世界恐慌を切り抜けるため、軍備に資金を投入することを主に目指すものであった。彼は、専門家の意見として、ロシアのボルシェビズムは、いったんロシアが重工業を発展させ、資本主義的複雑性を必要とした時、生き残れないとの見解を表していた。
 裕仁は高橋を信頼したかった。裕仁自身の見方では、ボルシェビズムは、国家宗教としては神道の比ではなかった。それは、日本の貴族のような、安定した指導者階級を持っていなかった。それは単に、一つの国の成長過程における経済的側面にすぎず、裕仁は、民族的不純と洋の東西が半々に混じるという根本的欠陥を持つと感じていた。
 裕仁に反対するに際して、荒木陸相は、外見的には、自分の人望と人を説き伏せる能力に頼った。だが内実は、1920年代初期以来、裕仁について収集してきたファイル
(5)を利用した。荒木は、1967年に他界するまで、常にそのファイルを自分の傍らに保持していた。彼は、その中のあらゆる文書を写真複写し、そのコピー一式を密封した封筒に入れて信頼できる友人にあずけることをほのめかしていた。彼の不時の死の際、その封筒は開かれ、その内容が閲覧されるという考えだった。その〔ファイルが入れられた〕金庫は、未開のまま、彼の家族によっていまだ保管されている。彼の姪たちは、それを、自分たちに安泰をもたらすお守りだと考えている。
 荒木はそのファイル作りを1921年の4月より始めた。彼が陸軍一般幕僚諜報部の欧米課々長になった時だった。その職権から、彼は若い駐在武官全員
――裕仁の皇太子時代の欧州歴訪の際、各大使館で面会――からの暗号電報を手にすることができた。荒木はさらに、1925年、裕仁が陸軍より長州藩閥を一掃した際の憲兵の命令をそのファイルに加えた。1928年、満州軍閥張作霖の暗殺の際には、荒木ははじめて、彼の考えが裕仁と異なっていることに気付き、以来、自分の書類を携帯金庫に保管し始めた(6)
 彼は、失職した長州閥退役軍人のためのクラブと雇用斡旋所を設立したため、陸軍官僚界では出世街道から外れ、権力を失っていった。にも拘わらず、彼に従うものは減らなかった。彼は、裕仁の特務集団から離反した北進主義者との栄誉を得ることとなった。彼はそうして、その斜陽な経歴から、陸軍政治家として表舞台へと返り咲いた。1931年12月、彼は44歳にして、悲劇に見舞われる犬養内閣の陸軍大臣に就任した。1933年、いまだ陸相のまま
――裕仁の大兄たちが 「切り捨てるには人気がありすぎる」 と認めるように――、国内最後の、裕仁反対派となっていった。


赤い汚点(7)

 荒木がバーナード・ショウを相手に機微を交わし合った時、彼は、裕仁に公然と挑み始めるに充分な力を感じ始めていた。熱河作戦の際に長城を突破することで裕仁をまごつかせたのは、前線にいる彼の忠臣たちであった。また、それに遡ること1月、国際連盟からの脱退論議のさ中、荒木は、皇位に対する国内的攻勢を強めていた。それはもっとも奸智に長けていたもののひとつで、日本の政治家たちはその議論の中に老西園寺の巧妙な策動を疑っていたし、欧米の観察者たちは完璧に見る目を失っていた。その彼の挑戦は、荒木の友人で超保守的な老男爵(8)が、貴族院において、京都帝大の法学部が赤とそのシンパに牛耳られていると非難した時に始められた。
 欧米人には、その非難は、学問の自由を冒す典型的右翼攻撃であるかに聞こえた。しかし、個人の自由さえ信じない日本人には、それは異なった響きを持っていた。京都大学は、大兄の近衛親王、同じく大兄の木戸侯爵、そしてスパイ秘書の原田の母校だった。一次大戦さ中の彼らの在学時代、そこは、マルクス主義の研究と議論の温床だった。その中で三人は、裕仁が日本を導くための政府を形成する奇妙な混合形態
――議会制マルクス主義的神政国家と、差別と自民族優越意識に基づく一丸となった単独政党と、警察とつるんで共存する大規模な諸財閥のカルテル――に、はじめて自信を深めていた。この知的エリートによる未熟な産物は、東洋と西洋の欠点ばかりを寄せ集めて形を成し始めており、社会はそれを、どこから見ても大学の責任に帰されるべきものだと見ていた。
 もし大衆がその大学を罵倒したとするなら、荒木や西園寺は、京大卒の大兄たちが学問の自由を自らなぐさみ物としたが故のその皮肉な結末として、含み笑いをうかべたに違いない。彼らには、大逆罪を犯す恐れに比べれば、危険思想を弄ぶ危険なぞはさして重要ではなかった。すでに1920年代末より、近衛親王に後押しされた治安維持法によって、ほぼすべての大学から、真に自立した思想家は追放済みだった。ほとんどのマルクス主義者、労働組合運動家、フェービアン社会主義者、さらには民主的選挙制度の擁護者すらも、一人ひとりと沈黙のうちに退職させられ、警察のいんぎんな保護観察のもとに置かれていた。ただ京都と東京の両帝国大学の諸学部のみが、その教授たちと裕仁の宮廷人たちとの人的繫がりによって、無傷で残っていた。
 荒木の魔女狩り
(9)が一人歩きする前にそれを差し止めようと、警察は、京都大学の危険思想家の一人、河上肇名誉教授を緊急に逮捕した。経済学者の河上は、 『資本論』 を邦訳し、数年前には、近衛、木戸、原田を教え、彼らの持つマルクス主義の知識はすべて彼が与えたものだった。1928年、河上は退職を強要されたために、かえって左傾化を深め、自ら共産主義者を名乗るようになった。そいう彼は、今にいたっては、破壊的思想家として摘発され、自宅監禁のもとで疲れ果てていた。彼はそうして、13年後の1946年に、事実上の囚人として死亡した。
 これに続いて1933年2月20日、警察は、1928年3月以来始めて、左翼の一斉検挙をおこなった。以前の大量逮捕の後に釈放されていた左翼シンパや変人の全員が再尋問され、左翼運動へのどんな新参入者の名前も聞き出された。
 そうした迅速な警察の動きは、荒木やその支援者に、宮廷の考えに対する彼らの攻撃には巧妙な工夫が必要なことを確信させた。そしてその検挙のひと月後の3月、一案が慶応大学の荒木支持者によって編み出された。その慶応大の教授は、京大の法学部教授を、異端なトルストイ的見解をもっているとして攻撃し、不貞は犯罪とみなすべきと、素朴なことをいい始めた
(11)。その京大法学部教授は、たまたま、近衛親王の7人の経済顧問団――親王の恩師と6人の元学友# 1――を率いていた人物だった。そこでその7人の顧問は、待ってましたといわんばかりに直ちに結束し、その慶応大教授を、旧弊な女性蔑視主義者として槍玉に挙げた。
 日本の旧弊な男女の誰もが興味を抱き、おおいに沸きあがった時、その慶応大教授は京大に向かって、いっそう大型の学問的爆弾を投げつけた。すなわち、京大のその7人の教授たちは、天皇を 「国家の機関ないしは機械部品」と考える異説を説いている、と非難したのだった(12)
 天皇が、国家の一部分であるのか、それとも国家を超越する存在であるのかといった憲法学上の論争は
(13)、1912年、大正天皇が専制君主たらんと試みて失敗に終わって以来、続いてきていたものだった。裕仁個人としては、天皇は機関であるとの説を受け入れており、自分の決定によるすべての責務を他のより下位の機関へと委任してきた。実際、彼の広報担当官は、天皇はほとんど自動的にゴム印を押すかの存在でしかないとの見方をしていた。しかし、宗教的には、裕仁は、自分が偉大な神道の神殿におけるゼウスであるとの考えを奨励していた。慶応大の博識な荒木の友人は、天皇が 「機関」 として背後に隠れ、神としての真の責任を回避するのは、自己犠牲的行為であるとの見解を示した。そして彼は、裕仁の精神が国家であり、国家の精神が裕仁である、と主張した。すなわち、裕仁は、現人神であり、代々の死した神に代わる最高司祭として、単に国を率いるだけでなく、国そのものでなければならない、とした。
 その慶応大の教授は、自分の主張を際立たせるため、警察が拘束している二人の主力スパイ機関員、すなわち、血盟団の空家の家主を 「不忠実」 「共産党的」 とし 、そして、裕仁の内大臣牧野の雑用係、大川博士を 「その神道理解が不純でダーウィン的」 と断定して中傷し、その京大教授への攻撃に拍車をかけた
(14)。たとえそれ以外の形容が当時の日本語としては奇妙な用法であったとしても、 「ダーウィン的」 と言うのは、天皇の生物学者としての学問的立場にからめているのは明らかだった。
 その慶応大教授の非難は、絶妙な当てこすりを含ませた先鋭な思想を代表し、いずれの物知りたちをも納得させるものであった。文部大臣の鳩山一郎は、荒木に強いられて直ちに、その七名の 「機関説論者」 を退職させない限り、政府補助金を差し止めると京都大学に圧力をかけた。それから二ヶ月間、裕仁と近衛は京都大学当局に、そうした教授たちを後押しするよう促したが、裕仁と近衛は、最終的には、御簾の背後からしぶしぶながら、大学当局がその七教授に他の機関の給与のより高い研究職を与えることを承認した。
(15)


天皇の不審

 1933年3月、荒木が皇位に反対し始めた時、裕仁は最初、荒木が意図的に反対しているのだと無理に信じようとしていた。そこで11人クラブは会合を開き、荒木に 「情況の現実的意味」 を諭す最善の方法を話し合った。裕仁は、荒木を扱うに当たって、自分の側に立つ仲介役の必要に気付いた。1933年4月6日、彼は、自分の侍従長にひとりの北進派の英雄を据えた。それは、満州の征服者、本庄中将だった。そうして本庄は、以後裕仁のもとに3年と16日仕え、その間、天皇との親密な会話を日記# 2に書きとどめた。本庄は、最初に皇居に参じた時、裕仁が無垢な若い現人神であり、現実世界の迷路には案内人を必要としていると信じていた。だが1936年にそこを去る時、彼は、裕仁とは、憲兵のどの佐官や将官にも劣らないほどに、強靭で冷徹であることを知り抜いていた。彼の日記からは、その3年間に生じた裕仁と北進派との間の闘争の様を汲みとることができる。
 皇居での本庄中将の最初の一週間のある時、裕仁は、読んできていたヨーロッパ史の本を脇に置き、熟考の末こう指摘した。 「ナポレオンの生涯の前半は、フランスの発展への貢献であったが、その後半では、ナポレオンは自分自身の名誉のためにのみ働いた。その結果は、フランスにとっても、世界にとっても良いことにはならなかった」(16)。こうたとえることで、裕仁は本庄に、次の日本の征服目標を裕仁にまかせ、そして、日本に数年の内政的平穏を与えて野心的軍備計画を完遂しうるよう、北進派を説得する用意を整えさせようとしていた。
 裕仁の要望にも拘わらず、北進派は、長城南側への襲撃を繰り返し、日本を戸惑わせ続けていた。裕仁は、軍紀を立て直すため、北進派の第二の指導者、参謀次長の真崎甚三郎中将を現地に派遣した
(17)。その真崎の留守の間、大兄たちは裕仁に、北進派の反目の厳然たる真意を説明することに成功した。
 1933年4月末、真崎が前線から戻るやいなや、裕仁の策士の叔父、東久邇親王中将は、皇位に望ましくない影響を与えようとしていると非難した
(18)。東久邇の見るところでは、真崎はある日、彼のところにやってきて、北進派に有利となるよう裕仁に影響を与えたいと、陸軍の命令系統上の部下である彼に命じたという。
 それに答えて東久邇は、「それはできない。天皇は常に全体を見、要求を承認することもあれば、拒む場合もある。それゆえ、私は、たとえ貴殿が私に命令しても、それに従うことはできない」、と返答した。
 その一週間後、東久邇親王は、自分の皇邸の召使を真崎が堕落させようとしていると告発した
(19)。さらに一週間後、裕仁は真崎を参謀次長から解任して大将へと昇格させ、安全圏の最高軍事顧問へと移動させた。
 1933年5月21日、真崎更迭の決定が公表される前、裕仁の弟で人気を集めていた秩父親王が宮廷にやってきて、真崎の立場を擁護し、裕仁に国内政策の全体を再検討するように要望した(20)。そして兄に、政府の機関であることを見せかけるのをやめ、皇位周辺の御簾を取り去って、国家の直接の采配を開始し、そして必要なら、憲法の一時停止を要請した。裕仁は拒絶し、後日、宮廷侍従が言うところでは、兄弟二人は 「激しく議論」 していたという。議論の後、裕仁は侍従の一人にこう言った。 「私は国を統治する重要な事項においては、絶対的な力を保持し、全体情況をつかむための広範囲な視野を維持している。憲法を停止することについては、明治天皇が設立した制度を壊すことになるので、全く考えられないことである」(21)
 その翌日、裕仁は大兄の木戸と近衛親王を秩父親王邸にやり、その自分勝手な弟と、2時間半にわたって話をさせた(22)


荒木の大芝居

 それから数日の間に、荒木陸相は、1936年に裕仁が対露戦に取り組むように画策する政治的大芝居を周到に準備して、一世一代の大博打に出た。
 5月24日、水曜日、荒木は、学習院で開かれたマルクス主義者の研究会で、皇族が魔法にかけられているとして、先の赤宣伝を拡大した(23)。それは事実のことだったので、ことは重大となった。もともと皇族の一員は、何代にもわたり、あらゆる傾向の政治的意見に明るいことが期待されていた。現代の左派系思想についても例外ではなく、皇后良子の弟の東伏見親王も、そうした学者たちによって色濃く染められていた。
 5月26日、金曜日、荒木陸相は文部大臣に促して、京都大学に、近衛の顧問団で、天皇機関説に立つ7人の内、主席教授の休職を命じさせた(24)
 5月27日、土曜日、陸軍の主だった戦略家たちは、裕仁に推奨する目的で、名古屋の第三師団本部で、どこの国が 「第一の敵」 であるのかを決定するための会議入っていた。(25)
 荒木の迅速な動きに驚かされて、裕仁は木戸侯爵に、拡大する赤宣伝への対抗策を練るように指示する一方、叔父の東久邇には名古屋での成り行きを観察するよう依頼した。こうした危険な情況の中で、裕仁は京都大学当局には、独自の判断に任せた。


 
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